第084話:白熊の巨体沈黙! 弟子たちの完全連携にエレナ絶句
ヒュウウウウウウ……ッ。
白銀の霊峰「氷壁の踊り場」を吹き抜ける風の音が、急激に穏やかさを取り戻していく。
先ほどまで天を揺るがすほどの地響きと咆哮を轟かせていた、体長5メートル、体重3トンを超える巨大な神話魔獣《冬眠白熊》。
その巨体が、まるで雪のベッドに横たわるかのように、前足を投げ出して静かに横たわっていた。
血走っていた巨大な眼球は瞼の奥へと閉じられ、太い鼻孔からは規則正しく温かい呼気がフシュー……フシュー……と白く立ち上っている。
雪原に飛び散った血の飛沫は、ただの一滴もない。
「は……あ……っ……」
銀装の軽装甲冑を身に纏った近衛騎士エレナ・フォン・シルフィードは、抜いたレイピアの切っ先を雪面に向けたまま、茫然自失の態で立ち尽くしていた。
全身の血液が逆流するような戦慄。
彼女の華奢な肩が、寒さではなく、目の前で繰り広げられた光景の異常さにガタガタと震えていた。
(嘘……でしょう……? 夢……? 私はいま、白昼夢でも見ているの……!?)
エレナは名門シルフィード家の誇る天才騎士だ。
弱冠十九歳にして王国近衛騎士団の席に名を連ね、数々の魔獣討伐の記録、名だたる英雄たちの武勲詩を頭に叩き込んできた。
だからこそ、目の前で起きた出来事の『常軌を逸した異常さ』が、骨の髄まで理解できてしまう。
体長5メートルの冬眠白熊。
それは王都の最高ランク冒険者パーティーや、王国騎士団の重装歩兵一個小隊が、魔法障壁と攻城兵器を総動員して挑んだとしても、最低でも数名の殉職者を覚悟しなければならない戦略級の魔獣である。
大岩を粉砕する怪力、矢を弾き返す厚さ30センチの青氷甲冑、雪山を自在に駆ける俊敏性。
それが――。
(戦った時間……わずか三分……!? 怪我人は……ゼロ……!? それどころか、あの子たちは……息一つ乱していない……!?)
信じられなかった。
ティオは黒鉄の大剣を肩に担ぎ直し、腰の筋肉をトントンと軽く叩きながら爽やかな笑顔を浮かべている。
シェリルは白樺の杖の埃を払い、エルフ特有の美しい金髪をかき上げながら息を整えている。
ニーナは解体小刀を革鞘に納め、尻尾を上機嫌に左右にフリフリと揺らしている。
誰も、血の一滴すら流していない。
擦り傷一つ、防寒服の破れ一つないのだ。
「あ、あなたたち……一体、何者なのですか……!?」
エレナの口から、掠れた叫びが漏れ出た。
それは恐怖ではなく、自らの常識のすべてを根底から覆された者の、切実な困惑の叫びだった。
「ティオ殿! あなたはいったい、何をしたのですか!? あの3トンの巨腕の強打を……正面から受けて、なぜ腕の骨が折れていないのです!? なぜ腰が砕けていないのですか!? 王国騎士団の百戦錬磨の盾兵ですら、あの一撃を受ければ盾ごと挽き肉にされるはずです……!」
「えっ? あ、いや……」
ティオは照れくさそうに頭を掻いた。
「正面から受けてないっすよ。おっちゃんに『斜面になれ』って教わったんで、大剣をに傾けて、母指球で踏ん張っただけです。雪山の屋根と同じで、相手の重さが勝手に雪の中に滑り落ちていっただけっす!」
「だ、大剣を傾けただけ……!? そ、それだけで3トンの怪力を雪に逃がすなど、物理法則を無視しています……! それに、シェリル殿!!」
エレナが次にシェリルへと詰め寄った。
「あの魔法は何ですか!? 王立アカデミーの魔導士たちが放つような派手な詠唱も、魔方陣の展開もなかった! ほんのわずかな冷気で……なぜ、あの大熊をあんなに無様に転ばせることができたのですか!?」
「あら、エレナ様、そんなに難しいことではありませんわ」
シェリルが上品にクスリと微笑んだ。
「熊の足裏には雪を掴むスパイク毛が生えていますけれど、濡れた氷の上では摩擦係数がゼロになりますの。わたくしはただ、踏み込む瞬間の雪の表面を、厚さ1ミリだけ凍らせて鏡面にしただけですわ。消費魔力はロウソク一本分。相手の体重が重ければ重いほど、勝手に滑ってひっくり返ってくれますもの。おっちゃんが教えてくださった【解体摩擦学】ですわ!」
「か、解体摩擦学……!? そして、ニーナ殿……!!」
エレナの視線が、最後に小柄な猫耳少女へと向いた。
「あの爪の嵐の中に、なぜあんな平然と飛び込めたのですか!? そして、あの一突き……! 血を流さずに巨大な魔獣を眠らせる魔法の毒針でも使ったのですか!?」
「毒なんて使ってないニャ!」
ニーナが人差し指をピンと立てて胸を張った。
「熊の骨格には死角があるニャ。仰向けになった熊は、耳の裏には絶対に手が届かないニャ。それに、頭蓋骨の下の第一頸椎と第二頸椎の隙間には、神経の束が通ってるニャ。そこを小刀の先でチクリと突いてあげれば、痛がる暇もなくすうっと全身の力が抜けて眠っちゃうニャ。おじちゃん直伝の【活け締め】だニャ!」
「い、活け締め……!?」
エレナは頭を抱え、その場に崩れ落ちそうになった。
斜面になって重力を流す。
1ミリの氷で摩擦を奪う。
骨の隙間を突いて活け締めにする。
三人が語っているのは、奇跡の神聖魔法でもなければ、失われた古代の秘術でもない。
自然の摂理、骨と筋肉の構造、物理現象の作用点を理解し、最小の力で最大の結果を導き出す――純然たる『知恵と技術』だった。
「信じられない……。王都のギルドでは、こんな天才たちを『落ちこぼれの無能』と呼んで追放していたというのですか……!? 中央の者たちの目は、節穴なのですか……!!」
エレナが怒りと悔しさに声を震わせた。
かつて王都で笑い者になり、居場所を失っていた少年少女たち。
彼らを見捨てた王都の巨大ギルド「黄金の天秤」の傲慢さと、目の前で命を救うために技を磨いてきたカルテットの尊さの差に、エレナの胸は激しく締め付けられていた。
「はははっ、エレナの嬢ちゃん、あんまり頭を抱えるなよ」
老狩人バルツが、愛刀《黒喰》の柄をポンと叩きながら、豪快に笑って歩み寄ってきた。
「こいつらはな、戦士でも魔導士でもねえ。ただの『魔物解体士の見習い』だ」
「解体士……見習い……? このような神技を操る者たちが、見習い……!?」
「そうだ。魔物ってのはな、力ずくで叩き潰そうとするから恐ろしい怪物に見えるんだ。だが、一枚皮を剥いでみりゃ、人間と同じように骨があって、筋肉があって、血管が走って、神経が通ってる。どこに力を入れ、どこに隙間があるかを知り尽くせば、どんなに巨大な魔物だって、無駄な血を流さずに手懐けることができる」
バルツはしゃがみ込み、雪の上に広げた分厚い鹿革のツールロールの紐を解いた。
中から現れたのは、用途に応じて刃の厚みとカーブが異なる、美しく油で拭き清められた七本の特製解体ナイフ。
極寒の空気の中で、鋼の刃先がギラリと青白い輝きを放つ。
バルツは眠る白熊の太い鼻筋を優しく撫でた。
「敵として憎んで殺そうとすれば、力と力の殺し合いになる。だが、命への敬意を持って『解剖学の理』で向き合えば――世界中のどんな凶暴な魔物だって、【友達になるか、極上の美味い飯になるかの二択】なんだよ」
「友達になるか……美味い飯になるか……」
エレナはその言葉を反芻し、胸の奥が熱くなるのを感じた。
名門貴族の騎士として、「魔獣は殲滅すべき悪」と教え込まれてきた彼女にとって、バルツの言葉は、これまでの狭い世界観を根底から突き破る光そのものだった。
「さあ、感心してる暇はねえぞ」
バルツが隻眼を鋭く光らせ、白熊の胸元を指差した。
「あいつの胸骨に食い込んでる『黒い結晶』を外して、溜まった血を綺麗に抜いてやる。ここからが、解体士の本当の腕の見せ所だ!」




