第083話:ニーナの雪中潜行急所刺し! 延髄への神速ピンポイント
サアアアアッ……!
吹き荒れる白銀の雪煙の中を、純白の毛皮外套を纏った小柄な影が滑空するように疾走した。
獣人族の少女・ニーナだ。
猫耳をペタリと頭の後ろへ倒して風の抵抗を極限まで減らし、二本の湾曲した解体小刀を両手に逆手で握り締めている。
その足取りには、新雪を踏み砕くサクサクとした音も、衣服が擦れ合う衣擦れの音すら一切ない。
足裏の弾力性に富んだ肉球が衝撃を完全に吸収し、爪の出し入れによって滑り止めスパイクを瞬時に切り替える。
先ほど捕獲し、その生体力学的な骨格構造を徹底的に観察した《雪洞潜り雪鼬》の身のこなし――雪の表面張力を利用し、体重を足裏全体に均等に分散させて新雪の上を水すましのように滑る『雪中無音潜行』の極意を、ニーナはすでに完璧に自らの肉体へと昇華させていたのだ。
「グルルルルルッ……! ガアアッ……!」
雪原に仰向けに転倒した《冬眠白熊》が、激怒と苦悶の叫びを上げながらもがいていた。
背中を覆う厚さ30センチの青氷甲冑が重石となり、一度ひっくり返った3トンの巨体は容易には起き上がれない。
だが、その丸太のように太い四肢は狂ったように宙を掻き毟り、大人の前腕ほどもある黒曜石の爪がデタラメに空を切り裂いていた。
一撃かすっただけでも、人間など豆腐のようにバラバラに引き裂かれ、雪原の染みと化す絶対の危険地帯だ。
「ニーナ殿、近づいてはなりません……! 暴れる巨獣の爪の間合いに入るなど、自殺行為です……!!」
後方からエレナの悲鳴のような叫び声が響いた。
名門シルフィード家で叩き込まれた騎士団の教練において、仰向けに倒れた熊系の大型魔獣は『戦場で最も危険な状態』と厳しく戒められている。
四肢の爪と牙のすべてが上を向いており、迂闊にトドメを刺そうと近づいた歩兵が返り討ちに遭って首を刈り取られる凄惨な事故が後を絶たないからだ。
だが――ニーナの金色の瞳は、狂乱する爪の嵐を冷徹に見切っていた。
(おじちゃんが教えてくれたニャ。生き物の身体には、どんなに暴れても絶対に爪が届かない『死角のポケット』がある……!)
熊の肩関節と前足の可動域。
鎖骨が存在しない四足獣の骨格構造上、仰向けに倒れた熊が前足を振り回せる角度は、胸の前から頭の上にかけての扇状の空間に限られている。
後頭部の真裏――地面と背中の青氷甲冑が接するわずか30センチの隙間には、熊の前足はどうあがいても構造上、絶対に届かないのだ。
スルスルッ……!
ニーナは宙を舞う爪の軌道の真下を、まるで雪洞を潜る鼬のように滑り抜けた。
爪先がニーナのフードの毛先をわずか数ミリかすめて空を切る。
だがニーナは瞬き一つせず、巨熊の首の付け根、巨大な耳の真裏の雪だまりへと音もなく滑り込んだ。
完全なる死角。
そこには、3トンの怪物を安全かつ無痛で眠らせるための、大自然が遺した『唯一の鍵穴』が存在していた。
「ティオが大剣で衝撃を雪に逃がし、シェリルが1ミリの氷で巨体を転がしてくれたニャ……! 二人が作ってくれたこのチャンス、あたいが絶対に無駄にするもんかニャ!」
ニーナの胸の奥で、熱い絆の火が燃え盛る。
かつて、毛皮を破かれて泣き虫だった落ちこぼれの猫耳少女。
小刀の研ぎ方も知らず、解体台の隅で震えていた彼女が、いまや白銀霊峰の主の懐へと単身で飛び込み、急所を見据えている。
すべては、老狩人バルツが毎日のように手取り足取り教えてくれた『解剖学の理』があったからだ。
『ニーナ、生き物を力任せに滅多刺しにするな。肉も傷むし、苦痛を与えれば全身の筋肉が硬直して血が回り、乳酸が溜まって肉が不味くなる。第一頸椎(環椎)と第二頸椎(軸椎)の隙間……頭蓋骨のすぐ下の窪みを探せ。そこには、脳と身体を繋ぐ延髄の太い神経幹が通ってる。そこを刃先でチクリと突いてやりゃ、どんな巨獣でも痛がることなく、すうっと安らかな眠りに落ちるんだ。これがいわゆる【活け締め】だ。ATP(エネルギー物質)が肉の中にそのまま残り、後で極上の旨味成分イノシン酸へと化けるんだよ』
解体士の技とは、命を苦しめずに終わらせ、その恵みを余すところなくいただくための『愛と敬意の技術』。
ニーナは左手の指先で、白熊の後頭部の極厚毛皮を掻き分けた。
指先が捉えた、ゴツゴツとした頭蓋骨の後頭結節。
そこから指一本分だけ下へ滑らせると、長年の冬眠甲冑が途切れた、親指大の柔らかい窪みがあった。
第一頸椎と第二頸椎の間隙――延髄の神経中枢へと直接繋がる『環椎後頭孔』だ。
「見つけたニャ……!」
ニーナは右手の解体小刀を構えた。
刃渡り15センチ、バルツの手によって極限まで研ぎ澄まされた、毛一本すら音もなく両断する剃刀のような刃先。
狙うのは、太い筋肉を切り裂くことではない。
骨と骨のわずかな隙間に、針を通すように刃先を滑り込ませること。
「おやすみニャ、山の主さん……!」
チクリ。
ニーナの右腕が、目にも留まらぬ神速で突き出された。
激痛を与えるような打撃ではない。
まるで蚊が針を刺すかのような、静謐で精緻極まる一閃。
小刀の切っ先が、極厚の首肉を抵抗なくすり抜け、第一頸椎の隙間から延髄の神経幹へと寸分の狂いもなく到達した。
ピクンッ……!
その瞬間、暴れ狂っていた白熊の5メートルの巨体が、ピンと一本の弦のように硬直した。
大脳からの運動伝達信号が遮断され、全身の骨格筋へと走るパルスが一瞬で停止したのだ。
そして――。
ふしゅううううううう……っ。
巨大な鼻腔から、安らかな長い呼気が漏れ出た。
宙を掻き毟っていた丸太のような四肢から、まるで操り人形の糸が切れたかのように、ふっとすべての力みが抜け落ちる。
血走っていた双眸の充血が急速に引き、荒れ狂っていた筋肉の緊張が解けていった。
白熊は激痛から解放されたかのように、穏やかな吐息を吐きながら、巨大な頭を雪の枕へと預けたのだ。
「し、沈黙した……!? 血の一滴も流さず……あんな小さな小刀の一突きで……!?」
エレナはレイピアを取り落としそうになりながら、腰を抜かしかけて後退った。
騎士団の魔獣討伐であれば、数十本の槍で滅多刺しにし、鮮血を撒き散らしながら絶叫させて絶命させるのが常だ。
だが、いま目の前で起きたのは、屠殺でも虐殺でもない。
まるで母親が赤子の背中を優しく撫でて寝かしつけたかのような、神聖で無痛の鎮静化だった。
「ふう……! 完璧にツボに入ったニャ、おじちゃん!」
ニーナが小刀をすっと抜き、雪で刃先を清めながら笑顔で振り返った。
小刀の刃には、驚くべきことに血の一滴すら付着していなかった。
骨の隙間を縫い、大血管を避けて神経中枢だけを精密に遮断した神技の証明である。
「ああ、満点だ、ニーナ。無駄な血を一滴も流さず、肉を傷つけず、苦痛も与えねえ。これぞ本物の『魔物解体士』の技だ」
バルツが煙管をポケットにしまい、満足げに頷きながら歩み寄ってきた。
「ティオ、シェリル、やったニャー!」
「ああ、完璧だったぞニーナ!」
「ふふ、わたくしたちのチームワーク、百点満点ですわね!」
駆け寄ってきたティオとシェリルが、ニーナと笑顔でハイタッチを交わす。
だが、バルツは穏やかな笑みを浮かべつつも、すぐに隻眼を鋭く引き締めた。
「喜ぶのはまだ早いぞ。あいつは延髄を突かれて眠ってるだけだ。胸に刺さった元凶の『黒い石』を抜いてやらねえと、神経の炎症で命を落とす。それに、肉の鮮度を保つための血抜きも時間との勝負だ。ティオ、そりから解体道具一式を下ろせ。ここからが本番の『解体と手術』だぞ!」
「はいッッッ!」
白銀の霊峰を揺るがした3トンの暴走巨獣は、傷一つ負うことなく、弟子たちの完璧な連携によって完全な沈黙を迎えたのだ。




