第080話:目覚めてはならない主! 《冬眠白熊(グレイシャル・ベア)》の暴走
標高2000メートル。
外界から隔絶されたスノウベール村の背後にそびえ立つ、北嶺の霊峰「白銀山脈」の中腹。
氷河洞窟へと続く切り立った尾根の途中に、雪崩の吹きだまりが長い年月をかけて平坦に押し固められてできた、すり鉢状の広大な雪の台地――通称「氷壁の踊り場」が広がっていた。
ゴオオオオオオオオオオッッッ……!
天空を覆う鉛色の雪雲から、刃物のように鋭い地吹雪が吹き荒れる。
巻き上げられた氷粒が防寒外套の革生地を激しく叩き、パチパチと乾いた連続音を立てていた。
先頭を疾走する老狩人バルツ、その背中を必死に追うティオ、シェリル、ニーナのカルテット。そして銀装の甲冑を鳴らしながら息を切らして追従する近衛騎士エレナは、雪原の中央で突如として立ち止まった。
急激な気温の低下。
先ほど村を出た時点では氷点下十度前後だった外気が、踊り場に足を踏み入れた途端、まるで凍結結界の内部に叩き込まれたかのように、一気に氷点下二十五度以下へと急降下したのだ。
吐き出した息が白く濁る暇もなく、微細な氷の結晶となってサラサラと雪の上に落ちる。
まぶたのまつ毛、ゴーグルのレンズの縁、マフラーの繊維の先端にまで、瞬く間に白い霧氷がびっしりと張り詰めていく。
「な、なんという冷気……! これは通常の吹雪の寒さではありません……! 周囲の空気中のマナそのものが、芯まで凍りついています……!」
エレナが息を喘がせながら、震える手で剣の柄を握り直す。
だが、バルツは外套のフードの下で隻眼を細め、肩を軽くすくめてみせた。
「慌てるな、エレナの嬢ちゃん。深呼吸するときはマフラー越しに吸え。いきなり氷点下二十五度の空気を肺の奥まで吸い込むと、肺胞の内壁が一瞬で凍傷を起こして気道が痙攣しちまう。鼻から吸って、口からゆっくり吐き出せ。身体の芯の熱を無駄に逃がすなよ」
「は、はいっ……! す、吸って……吐いて……」
「そうだ、良い調子だ。ティオ、足元の雪の踏み固まり具合はどうだ?」
「はい、おっちゃん! 表層のパウダースノーは30センチほどですが、その下はカチカチの圧雪層です! 母指球で蹴り込めば、滑らずにしっかりと足場を固定できます!」
「よし。シェリル、指先の感覚は?」
「温感ハーブ油を塗り込んであるので、指先の麻痺はゼロですわ! 魔力回路の巡りも絶好調です!」
「あたいの耳も、風の音の奥をちゃんと拾えてるニャ! 来る……正面、雪煙の向こうから、とんでもない質量の塊が突っ込んでくるニャ!!」
ニーナの猫耳がピクピクと激しく震え、獣人の鋭い嗅覚が、極寒の空気に混じる『濃厚な獣脂の匂い』と『ツンと鼻を突く血の匂い』を捉えた。
――ズシンッ。
――ズシンッ。
重厚極まる地鳴りが、雪原の奥底から伝わってきた。
ただの足音ではない。
一歩踏み下ろされるたびに、踊り場全体の圧雪層がトランポリンのようにたわみ、足元の雪が波紋を描いて震えている。
やがて、白い地吹雪のカーテンを力づくで引き裂くようにして、その途方もない『巨影』が姿を現した。
「あ……あぁ……っ……!」
エレナの喉から、声にならない戦慄の吐息が漏れた。
目の前に現れたのは、生命という枠組みを遥かに逸脱した、歩く氷河そのものだった。
体長約5メートル。肩までの体高だけで3メートル。
全身の総重量は、軽々と3トンを上回るであろう神話級の巨獣――《冬眠白熊》。
雪山の生態系の頂点に君臨し、古くから霊峰の守り神として崇められてきた伝説の魔獣である。
四肢を踏ん張って立つその巨体は、見上げるような威容を誇っていた。
全身を覆い尽くしているのは、雪の結晶のように純白で、地面に引きずるほどに長く密集した極厚の剛毛。
だが、この巨熊の恐るべき防御力は、毛皮だけにとどまらなかった。
首回りから背中、肩、そして丸太のように太い前足の付け根にかけて、長年の冬眠の間に洞窟の過冷却水蒸気が凍りついて形成された、厚さ30センチを超える青白い『天然の氷河甲冑』が、まるで重装騎兵の装甲のようにびっしりと覆い尽くしていたのだ。
透き通るような青氷の装甲は、吹雪の光を反射して鈍くギラつき、大砲の直撃すら弾き返す硬度を誇る。
前足の先には、大人の前腕ほどもある太さの、黒曜石のように黒光りする五本の湾曲した鉤爪。
ただ一薙ぎするだけで、巨岩を賽の目に切り刻み、成木の幹を根こそぎ薙ぎ倒す凶器そのものだった。
「な、なんて大きさだ……! あの泥濘の森の大猪や断頭亀、さっきの毛長羊なんかと比べものにならねえ……! 城壁が丸ごと歩いてきたみたいだぞ……!」
ティオが息を呑み、愛剣である黒鉄の大剣の柄を両手で握り締める。
腰を落とし、前傾姿勢をとる若き戦士の額から、極寒にもかかわらず一筋の汗がツーと流れた。
だが――老狩人バルツの隻眼は、その圧倒的な威容の奥にある『異変』を冷徹に見据えていた。
「おい、若僧ども、よく観察しろ。ただの縄張り争いや、威嚇行動の目つきじゃねえぞ」
「え……? 威嚇じゃない……?」
ティオが瞬きをし、バルツの言葉に従って白熊の表情を凝視した。
巨熊の巨大な頭部。
本来であれば、霊峰の主として泰然自若とした威厳を湛え、澄み切った黄金色の虹彩をしているはずの双眸が、いまや無数の毛細血管が破裂したように真っ赤に充血し、狂乱の光を放っていた。
太い鼻腔からは、荒く途切れ途切れの呼気が白い蒸気となってプシューッ、プシューッと激しく吹き出している。
黄色い牙を剥き出しにした巨大な顎からは、苦悶に耐えかねたような粘り気のある白い泡がダラダラと雪原へ滴り落ち、足元の雪を黄色く溶かしていた。
「グ……ルルルル……ガアアアアッ……!」
白熊は人間たちを威嚇するどころか、まるで己の肉体に耐えがたい激痛が走っているかのように、巨大な首を左右に激しく振り乱し、右の前足を自らの胸元へと何度も叩きつけていた。
ドゴッ! ドゴッ! と鈍い音が響き、自らの氷河甲冑を爪で激しく掻きむしる。
その胸元の甲冑の割れ目から、パチパチと不穏な紫黒色の放電が漏れ出していた。
「あ……っ! おじちゃん、あれ見てニャ! 胸の真ん中……!」
ニーナが指差した先。
白熊の胸骨のど真ん中、両前足の筋肉が交差する急所の位置に、まるで心臓へと直接根を張るかのように、大人の手のひら大の『禍々しい紫黒色の結晶』が深々と突き刺さっていた。
結晶の周囲の皮膚は真っ黒に壊死し、紫色の太い血管が蜘蛛の巣のように胸全体へと浮き上がって、ドクンドクンと不気味に脈動している。
結晶から吹き出す冷気と怨念のような邪悪なマナが、白熊の体内の循環系を狂わせ、全身の神経を内側から焼き焦がしていたのだ。
「黒い結晶……! 原生林で、暴走していたあの《大剛毛猪》や《断頭亀》の体内にあったものと、まったく同じ邪悪な波動ですわ……!」
シェリルが白樺の杖を構え、顔色を青ざめさせながら叫んだ。
バルツは愛刀《黒喰》の柄に手を添え、低く唸るような声で告げた。
「間違いない。霊峰の奥深く、地脈のツボにあたる場所に、中央の馬鹿どもが無謀な採掘を仕掛けやがったんだ。そのせいで地脈に溜まった神話時代の毒素が結晶化し、冬眠中だった白熊の胸に突き刺さっちまったんだよ。胸骨の裏には心臓と太い大動脈が走ってる。その真上で、神経を何千本もの針で四六時中刺され続けてるような激痛だ。狂い転げて目を覚ますのも当たり前だ。今のあいつはな……怒って暴れてるんじゃねえ。『痛くて、苦しくて、助けてほしくて泣き叫んでる』んだよ!」
「痛くて……苦しくて……」
エレナが胸元を両手で押さえ、息を呑んだ。
王国の騎士団では、「冬眠から目覚めた凶暴な魔獣は、問答無用で心臓を貫いて討伐すべし」と教え込まれてきた。
だが、目の前で暴れ狂う白熊の姿は、冷徹な破壊者などではなかった。
人間たちの身勝手な乱獲のツケを背負わされ、胸に突き刺さった異物の激痛に苛まれ、助けを求めて泣き叫ぶ一匹の傷ついた生き物だったのだ。
「そんな……。私たちは、この霊峰の守護獣を……ただ恐ろしい害獣だと思い込んで……!」
「悔やむのは後だ、エレナの嬢ちゃん! 来るぞッ!!」
バルツの鋭い一喝が飛んだ。
グルオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!
胸の激痛が限界に達した白熊が、天を仰いで鼓膜を破らんばかりの咆哮を轟かせた。
その血走った視線が、目の前の雪原に立つティオたちへと固定される。
苦痛に狂った巨獣にとって、眼前に現れた動く影は、自らを苛む敵としか映らない。
3トンの巨体が前傾し、丸太のような太い右腕が天高く振り上げられた。
ズオッ……!
五本の黒曜石の爪に、周囲の吹雪を渦巻き状に吸い込んだ超高密度の冷気マナが凝縮していく。
時速を超える速度で振り下ろされる、山をも砕く必殺の強打。
逃げ場のない雪原で、その巨腕が一直線にティオの頭上へと振り下ろされる――!
「ティオ殿、下がって……!! 防ぎきれません!!」
エレナの悲鳴のような叫び声。
だが、若き大剣使いの少年は、一歩も退かなかった。
逃げるどころか、ティオは母指球を深く圧雪層へと蹴り込み、黒鉄の大剣を斜めの上空へ向けて構え直した。
その瞳には、恐怖ではなく、かつて学んだ『骨の隙間に刃を滑らせる』絶対の自信と、苦しむ巨獣を救おうとする真摯な決意が宿っていた。
「殺すんじゃねえぞ、ティオ! 衝撃を雪に逃がし、あの胸の黒い石を外してやる隙を作れ!」
「了解ッッッ!! 任せてください、おっちゃん!!」
老狩人と弟子の咆哮が、極寒の吹雪を切り裂いた。
白銀の霊峰で、3トンの暴走巨獣と若き狩人たちによる、命を繋ぐための奇跡の連携戦が幕を開けた!




