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第081話:ティオの雪中受け流し! 大剣で熊の強打を雪原に逃がす

ヒュオオオオオオオオオッッッ……!


 白銀の霊峰「氷壁の踊り場」に、凍てつく突風の唸り声が響き渡る。

 体長5メートル、体重3トンを超える巨大な暴走獣《冬眠白熊(グレイシャル・ベア)》が振り下ろした右前足。

 丸太のように太いその巨腕は、長年の冬眠で固まった厚さ30センチの青氷甲冑を纏い、五本の黒曜石の鉤爪には周囲の吹雪を吸い込んだ濃密な冷気マナが渦巻いていた。

 それは、直撃すれば頑丈な石造りの家屋ですら一瞬で粉微塵に粉砕し、城門の二重鉄扉すら紙屑のように引き裂く、純粋な質量と破壊の暴力。


「だめ……! 避けきれません……!!」


 後方でレイピアを構えていた近衛騎士エレナの瞳に、絶望の影が走った。

 エレナは名門シルフィード家の誇る近衛騎士として、王都の一流の剣士や魔獣討伐の記録を熟知している。

 王国騎士団の重装歩兵小隊であっても、あのような神話級魔獣の渾身の強打を正面から受け止めることは絶対に許されない。

 タワーシールドを構えた重装騎士が並んで支えたところで、盾ごと押し潰され、全身の関節と内臓を粉砕されてミンチと化すのが関の山だからだ。

 ましてや、目の前に立っているのは、重厚な金属鎧すら身につけていない年若い少年。

 エレナが思わず悲鳴を上げ、身を挺して割り込もうとした――その瞬間。


「動くな、エレナの嬢ちゃん! ティオの立ち位置を信じて見届けてやれ!」


 バルツの鋭く落ち着いた声が、吹雪を突き抜けてエレナの鼓膜を打った。

 老狩人は愛刀《黒喰》の鞘に手をかけたまま、微動だにせず愛弟子の背中を見つめていた。

 その隻眼には、恐怖も動揺も爪の先ほどもない。

 あるのは、自分が手取り足取り叩き込んできた『骨と重心の理(ことわり)』に対する、絶対の信頼だけだった。


「ふうううううう……っ」


 ティオは深く、細く息を吐き出した。

 視界を埋め尽くす巨大な白熊の前足。

 激しい風圧が前髪を掻き毟り、大人の胴体ほどもある巨大な肉球と鉤爪が、頭上わずか数メートルの位置まで迫っていた。

 恐怖がないと言えば嘘になる。

 3トンの怪物が本気で放つ一撃の威圧感は、肺の空気を圧迫して心臓を鷲掴みにするほどに重い。

 だが――ティオの頭の中は、白銀の氷河のように澄み渡っていた。


(力で受け止めようとするな。腕の筋肉で押し返そうとするな。おっちゃんが毎日毎日、口を酸っぱくして教えてくれた通りだ……!)


 かつて第1章の原生林で、身の丈に合わない大剣を力任せに振るい、巨大な猪の突進を前にして腰を痛め、ただ雪の上にうずくまって涙を流していた頃の自分とは違う。

 今のティオには、何十頭もの魔物を解体し、骨と筋肉の繋がりを自らの手で切り分けてきた経験がある。

 骨格がどのように組み合わさり、どこに関節の遊びがあり、重力がどのように地面へと抜けていくのか。その真理が、肉体の芯まで染み付いていた。


 ティオは両足を肩幅よりもやや広めに開き、膝を柔らかく曲げて重心を極限まで低く落とした。

 足元の深雪。

 表面のサラサラとした新雪をブーツの底で素早く払い、その下にある固く締まった圧雪層へと、両足の親指の付け根――『母指球』をグッとねじ込むように踏み締める。

 骨盤をわずかに前傾させ、背骨の自然なS字カーブを保ちながら、第1章の猪骨スープで鍛え上げられた強靭な大腿四頭筋と足底筋膜を一本のバネのように連動させる。

 そして、黒鉄の大剣を胸の前で垂直に構えるのではなく、右肩の上から前方斜め下へと、まるで急勾配の屋根のように【の角度】をつけて刀身の広い腹を突き出した。


「《受け流し(パーリング)》の極意は、斜面を作ることだ!」


 ティオの脳裏に、ギルドの解体場でバルツが語ってくれた言葉が鮮やかに蘇る。


『屋根に積もった何トンもの重い雪が、なぜ地面にツルリと滑り落ちるか分かるか? 斜めになってるからだ。どんなに重い大岩でも、真上から腕力で受け止めりゃ骨が折れるが、傾けた大剣の腹に沿わせて滑らせてやりゃ、相手の重力と突進力は全部、自分を素通りして地面に吸い込まれていく。お前はただ、頑丈で滑らかな滑り台になってやればいいんだよ』


 滑り台になる。

 自分の貧弱な腕力で3トンの巨獣を押し返すのではない。

 地球の重力と、相手が自ら生み出した莫大な運動エネルギーを、そのまま雪の地面へと受け渡すだけの『導管』になるのだ。


「おおおおおおおおッッッ!!!!」


 ティオが腹の底から気合の雄叫びを上げた。

 次の瞬間――白熊の巨大な右前足が、空気を圧縮して衝撃波を巻き起こす轟音とともに、ティオの大剣の腹へと激突した。


 ズッガアアアアアアアアアンッッッ!!!!


 凄まじい衝撃音が踊り場に炸裂した。

 だが、エレナが想像したような、骨が粉々に砕け散る無惨な破砕音は一切響かなかった。

 白熊の巨大な爪と掌が接触したのは、ティオの大剣の真上ではない。

 斜めに傾けられた、黒鉄の刀身の滑らかな傾斜面だった。


 キィィィィィィィンッ……!


 火花が散るような金属摩擦音とともに、白熊の右腕の強打は、ティオの大剣の腹をツルリと滑り落ちた。

 ティオは腕の力で耐えようとせず、肩甲骨の力をすっと抜き、背骨から腰、そして母指球へと衝撃のベクトルを美しく流していく。

 ティオの体勢はわずか数センチ沈み込んだだけで、腰椎への負荷は完全に分散されていた。

 そして――。


 ドズウウウウウウウウウンッッッ!!!!


 ティオの大剣の斜面を滑り落ちた白熊の巨腕は、目標を完全に失ったまま、ティオの足元の雪原へと猛烈な勢いで叩きつけられた。

 深さ1メートルを超える圧雪層が爆発するように粉々に砕け散り、巨大な雪煙が白く吹き上がる。

 3トンの全体重を乗せて振り下ろした渾身の右腕が、何の手応えもなく雪の中に深々とめり込んでしまったのだ。


「グル……ッ!? ガ……ッ!?」


 白熊の喉から、間の抜けた戸惑いの唸り声が漏れた。

 空振りの反動。

 3トンの質量が前のめりに突っ込んだことで、白熊の巨大な上半身はバランスを完全に喪失し、右肩から雪原へと大きくつんのめった。

 右前足は雪の底の氷板に深くめり込み、巨体を支えることができない。

 背中を覆う重い氷河甲冑が、今度は自らの首を地面へと押し下げる重石となって仇となっていた。


「な……っ!? い、いま……何が起きたのです……!?」


 エレナは両目を見開いたまま、その場で硬直していた。

 王国近衛騎士団の剣技にも、盾による受け流し(パリィ)の技術は存在する。

 だが、それは人間同士の剣戟や、せいぜい馬ほどの大きさの中型魔獣を相手にした時の戦術だ。

 体長5メートル、3トンの魔獣の全力の打撃を、たった一振りの大剣と身体の角度だけで、一滴の衝撃も体に残さずに地面へと逃がしてしまうなど、騎士団の歴史上、一度として聞いたことがない。

 ティオの足元を見れば、雪を踏みしめた母指球の跡がわずかに深くなっているだけで、少年自身は息一つ乱さず、すでに次の動作へと腰を捻っていた。


「腰の痛み……ゼロです、おっちゃん!!」

「上出来だ、ティオ! 見事に滑り台になりきったな!」


 バルツがニヤリと口角を吊り上げた。


「魔物の骨や筋肉を理解するってのは、解体台の上だけの話じゃねえ。生きている魔物がどこに力を込め、どの角度で関節を動かしてくるかを見極めれば、相手の質量をそっくりそのまま『自滅の罠』に変えることができるんだよ! 解体士の身体の使い方ってのは、無駄な力みを捨てて重力に従うことだ!」

「はいッ! シェリル、今だ!!」


 ティオが雪煙を裂いて叫ぶ。

 体勢を大きく崩し、右腕を雪の中にめり込ませたまま、慌てて左足を踏ん張って立ち直ろうとする巨大な白熊。

 その巨獣の足元へ向けて、カルテットの次なる連携がすでに発動していた――!

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