第079話:夜の地鳴り! 冬眠洞窟から響く不気味な咆哮
――ズズズズズズズズズズッッッッ!!!!
大地が、まるで巨大な生き物が地下で身悶えしているかのように激しく波打った。
白雲平原の朝日を浴びて穏やかに目覚めたはずのスノウベール村を、突如として襲った未曾有の地鳴り。
集会所の厚い木造屋根に降り積もっていた数10トンの雪が、ドサドサドサッ! と地響きを立てて雪崩のように雪煙を上げて滑り落ちていく。
「きゃあああっ!?」
「地震ニャ!? 地割れが起きるニャ!?」
広場で片付けをしていたニーナが、二本の大きな三角耳をペタリと伏せ、雪の上に四肢を踏ん張って叫んだ。
村人たちがパニックに陥り、子供を抱きかかえて悲鳴を上げる。
ティオは大剣の切先を雪面深くにズブリと突き立て、柄を両手で握りしめて体幹を固定した。
第1章の泥濘の原生林、そして雪山のそり旅で培った「足裏の接地圧コントロール」。
激しい揺れの中でも、ティオの腰の重心はミリ単位たりともブレない。
「みんな、慌てて建物に入るな! 屋根からの落雪に巻き込まれるぞ! 広場の中央、建物の軒下から離れた場所へ集まるんだ!」
ティオのよく通る張りのある声が、広場の混乱を一喝した。
青年たちが我に返り、老人や子供の手を引いて広場の中央へと誘導していく。
だが――ただの自然現象の地震ではないことは、その場にいた誰もがすぐに悟ることになった。
大地を揺らす振動のリズム。
それは不規則な地殻の歪みなどではなく、巨大な何者かが、一歩、また一歩と雪の大地を力任せに踏み荒らす、重厚な『歩行振動』そのものだったからだ。
「……来るニャ」
雪の上に片膝をつき、素手を雪面に当てて振動を感知していたニーナが、唇を青ざめさせて呟いた。
「霊峰の中腹……標高2500メートルの氷河洞窟のあたりから、ものすごく巨大な命の塊が、山を駆け下りてきてるニャ……!」
「氷河洞窟……!? あそこは、霊峰の聖域……!」
エレナが白銀の長剣を抜き放ち、朝日に照らされた山腹を見上げて息を呑んだ。
その直後だった。
遥か山頂の雲を突き破り、全天を劈く凄まじい咆哮が、大気そのものをビリビリと震わせて村中へと降り注いだのだ。
――グオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッッ!!!!
耳を塞ぎたくなるような、魂を凍りつかせる重低音の咆哮。
音圧の衝撃波が山腹を駆け下り、斜面に屹立していた樹齢数百年の針葉樹林の樹氷が、まるでガラス細工のように一斉に粉々に破裂してダイヤモンドの粉塵となって吹き飛んだ。
そのあまりの威圧感に、集会所の前に集まっていた村人たちの膝が、一斉にガクガクと震えて雪の上にへたり込んだ。
「あ……ああ……山の神様じゃ……!」
「お怒りじゃ……霊峰の主が、怒り狂っておられる……!」
老人が涙を流して震える。
エレナの碧眼が、恐怖と絶望に大きく見開かれた。
「嘘でしょう……!? 《冬眠白熊》……! この白銀山脈の頂点に君臨する、冬の守護獣……! 初雪が降る前に氷河洞窟へ入り、春の雪解けを迎えるまで、絶対に目を覚まさないはずの主が……なぜ、真冬のいま、狂乱して目を覚ましたのです!?」
「冬眠から、無理やり叩き起こされやがったんだ」
低く、重い声が響いた。
ベンチから立ち上がったバルツだった。
咥えていたパイプを雪の上に落とし、長靴の踵で静かに踏み消す。
老狩人の右手は、無意識のうちに背中――古い傷痕が刻まれた皮膚へと伸びていた。
バルツの背中の古傷が、地脈の異変を微かに感知して激しく疼いていた。
激痛のような疼き。
それは、ただの天候の変化を告げる痛みではなかった。
大地の底、地脈そのものが悲鳴を上げている時にだけ発せられる、極限の警告パルスだった。
「バルツさん……? 背中の傷が……?」
「ああ。地脈の熱とマナの流れが完全に狂ってやがる。……エレナ、遠眼鏡で氷河洞窟の入口を見てみな」
バルツに促され、エレナは震える手で遠眼鏡を構え、氷河洞窟の巨大なクレバスへと焦点を合わせた。
レンズの向こうに映し出されたのは、息を呑むような惨状だった。
洞窟の入口を塞いでいた厚さ数メートルの青い氷壁が、まるで内側からの大爆発によって粉々に吹き飛ばされていた。
そして、その破断面から吹き出していたのは――。
青白い清らかな冷気マナではなかった。
どす黒く濁り、大気を腐食させるように渦巻く、禍々しい紫黒色の霧だった。
「な……何ですか、あの黒い靄は……!? 霊峰の清らかなマナが、まるで毒のように変色しています……!」
「第1章の断頭亀の胃袋、そして雪山の奥でも見かけた『地脈のヘドロ結石』だ。何者かが山脈のあちこちで魔物を乱獲し、死骸を焼き払って地脈を詰まらせたせいで、行き場を失った毒素が氷河洞窟の主の身体に直接流れ込んじまったんだよ」
バルツの言葉に、ティオとシェリルの表情が引き締まった。
原生林から続く、あの禍々しい「黒い結晶」の不穏な気配。
中央組織の拝金主義的な乱獲が引き起こした人災の歪みが、いま、霊峰最大の守護獣を狂乱の怪物へと変貌させていたのだ。
「体長5メートル、体重3トンの歩く氷河の塊だ。狂乱した白熊がこの谷へ雪崩れ込んできたら、村の防壁なんざ紙屑のように粉砕されて、家ごとミンチにされるぞ」
「そ、そんな……! せっかく助かった村が……村人たちが、全員殺されてしまいます……!」
エレナが長剣を抜き、決死の表情で前に出ようとした。
だが、その肩を、ティオの大きな手が力強く押し留めた。
「エレナさん、村にいてください。村人たちの避難誘導を頼みます」
「えっ……!? ティオ殿……何を言って……!?」
「村の中で戦ったら、流れ弾や落雪でみんなが巻き込まれる。俺たちが山腹へ先回りして、村の手前の平坦地で熊を食い止めます!」
「でも、体長5メートルの神話級の猛獣ですよ!? 近衛騎士団の重装一個中隊ですら全滅を覚悟する相手に、たった四人で挑むなど……!」
エレナの悲鳴のような制止。
だが、ティオの瞳にも、シェリルの杖を握る手にも、ニーナの構える小刀にも、恐怖の色は微塵もなかった。
彼女たちの瞳に宿っていたのは、数々の格上モンスターを解体し、その骨格と習性を知り尽くしてきた者だけが持つ、絶対の自信だった。
「大丈夫ですわ、エレナ様。私たちは、ただ力任せに戦うわけではありませんから」
シェリルが優しく微笑んだ。
「どんなに巨大な魔物であっても、骨があり、筋肉があり、関節があります。正しい知識と技術をもってすれば、相手の力を利用して無力化することができる……それをおっちゃんから教わってきました」
「ウチたちの教室の成果、見せてやるニャ! 狂乱してるなら、解体して助けてやるニャ!」
「ティオ、シェリル、ニーナ、行くぞ! そりに解体道具を満載しろ! 山守の親父を正気に戻して、極上の熊鍋を喰うぞ!」
「「「おおおおおっっっ!!!!」」」
若き狩人たちの咆哮が、霊峰の地鳴りを押し返した。
大剣を背負い、木製そりを引き、雪煙を上げて斜面へと駆け上がっていくカルテット。
その頼もしい背中を、エレナは胸元に手を当て、祈るように見つめていた。
だが、すぐに彼女の碧眼に強い決意の光が宿る。
「村の長老! 全員を集会所の最も頑丈な地下室へ避難させてください! 私は……私も後方支援として、狩人様たちの背中を追いかけます! 民を守る盾となるのが、シルフィード家の騎士の務めですから!」
エレナは白銀の長剣を掲げ、カルテットの残した雪の轍を追って力強く走り出した。
白銀の霊峰の命運を賭けた、最大最強の雪中決戦の火蓋が切って落とされた!
絶望を希望へと塗り替える、熱き魂たちの戦いがいま幕を開ける。




