第078話:村中に広がる笑顔と、エレナの胸に芽生える淡い感情
翌朝。
白銀山脈の稜線から昇った太陽の光が、スノウベール村を黄金色に優しく包み込んでいた。
澄み切った青空。
風は穏やかで、ダイヤモンドダストが朝の光を浴びてキラキラと大気中を舞っている。
集会所の扉が開き、中から出てきた百二十人の領民たちの顔には、昨日の絶望と死の気配など微塵も残っていなかった。
昨夜の霜降り毛長羊のジンギスカン大宴会、そしてバルツたちが施工した『スパイラル換気筒』によって一酸化炭素が完全に排出された新鮮な空気の中で、誰もが深く良質な睡眠を取ることができたのだ。
「おはようございます、ティオ様!」
「シェリル様、ニーナ様、今日も良いお天気ですね!」
広場では、村の若者たちや元気を取り戻した子供たちが、ティオたちを囲んで満面の笑みで挨拶を交わしていた。
青年たちはティオに教わった「大剣を使った雪かきの重心移動」を真似て、楽しそうにスコップを振るって道を切り拓いている。
広場のあちこちから、笑い声と生活の活気が溢れていた。
外界から見捨てられ、滅びを待つだけだった寒村が、たった一日で、完全に生命の息吹を取り戻したのだ。
「……信じられない光景です」
広場の隅にある木製のベンチ。
そこに腰掛け、昇る朝日を眩しそうに見上げていたバルツの隣に、カチリと白銀の甲冑の金具を鳴らして、エレナがそっと近づいてきた。
その両手には、湯気を立てる木製のマグカップが二つ。
村で採れる野生の針葉樹茶に、雪下ハーブを浮かべた温かいお茶だった。
「バルツ殿。温かいお茶を淹れてまいりました。よろしければ、どうぞ」
「お、気が利くな。ありがたくいただくぜ」
バルツがパイプを木皿に置き、マグカップを受け取った。
フウフウと息を吹きかけ、一口啜る。
ツンとした清涼感のある針葉樹の香りと、ハーブの優しい甘みが、朝の冷え切った喉を心地よく潤していく。
エレナも隣に腰掛け、自分のカップを両手で包み込んだ。
白銀の令嬢騎士の横顔は、朝日を浴びて淡い桜色に染まっていた。
凛とした碧眼が、広場で無邪気に笑い合う領民たちを見つめている。
「昨日まで……ここは地獄でした。王都中央ギルド『黄金の天秤』に見捨てられ、食糧も尽き、私は民の盾となるどころか、ただ民が凍え死んでいくのを無力に見守るしかありませんでした……。神を呪い、自らの無力さに絶望していました」
「…………」
「ですが……貴方様方が現れた。何の見返りも求めず、ただ『腹が減ってるなら飯を食え』と……極上のスープを振る舞い、雪の下から奇跡の野菜を掘り出し、狂暴な魔物を美味なる糧へと変えてくださった。……貴方様方は、この村の……そして私の、本当の救世主です」
エレナの唇から紡ぎ出されたのは、飾らない、魂の底からの言葉だった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、隣に座る無精髭の老狩人を見つめた。
王都の宮廷にいるような、煌びやかな衣装を纏った貴族たちや、甘言を弄する騎士たちとはまるで違う。
ヨレヨレの毛皮外套、刻まれた深い皺、そして煙草のヤニで汚れた指先。
だが――その背中には、どんな大貴族にもない、大地と生命への圧倒的な敬意と、決して揺らぐことのない頼もしさがあった。
ドクン……。
エレナの胸の奥底で、いままで感じたことのない、甘酸っぱく熱い感情が小さく跳ねた。
騎士としての忠誠と敬意。
そして――一人の十九歳の少女としての、枯れた老狩人への抑えがたい憧れと淡い恋心。
過酷な寒村の防衛戦の中で、誰にも弱音を吐けずに張り詰めていた心が、この男の隣にいるだけで解きほぐされていく。
エレナは自分の耳の先がカッと熱くなるのを感じ、慌てて視線をマグカップへと落とした。
「あの……バルツ殿。もし、この冬が無事に明けたなら……私は、貴方様に……その……」
「ん? なんだ、エレナ? また腹が減ったのか?」
「ち、違いますっ! そういうことではありません……っ!」
エレナが顔を真っ赤にしてポニーテールを揺らす。
バルツは豪快に笑いながら、頭をガシガシと掻いた。
「ハハッ、冗談だ。救世主なんてガラじゃねえよ。俺はただ、美味いメシを食って美味い顔を見るのが好きなだけの、引退間近の落ちこぼれ狩人さ。民を救ったのは俺じゃねえ。最後まで諦めずに雪を掻き続けた、お前のその頑固な意地だ。誇っていいぜ、騎士様」
「バルツ殿……」
無骨で、どこまでも温かい言葉。
エレナの碧眼が潤み、胸がいっぱいに満たされた、その瞬間だった。
「……あたた。くそっ、急に冷えやがったな」
バルツがふいにマグカップを置き、右手で自らの背中――古い傷跡の奥を強く押さえた。
隻眼が、スッと細められる。
その顔から呑気な笑みが完全に消え去り、野獣のような鋭い殺気が立ち上った。
バルツの背中の古傷が、地脈の異変を微かに感知して激しく疼いていた。
大気圧の急激な異常低下、地脈の激しい軋み、そして――。
――ズズズズズズズズズズッッッッ!!!!
突如として、大地が激しく波打った。
スノウベール村を囲む山々が一斉に激しく鳴動し、屋根に積もっていた雪がドサドサと音を立てて滑り落ちる。
「きゃああっ!?」
「地震ニャ!? 地割れニャ!?」
広場にいたニーナが耳を伏せて叫び、ティオが大剣を雪に突き立てて踏ん張った。
だが、ただの天変地異ではなかった。
遥か頭上――霊峰の中腹、氷河洞窟が口を開ける標高2500メートルの断崖から、天を劈く凄まじい咆哮が轟き渡ったのだ。
――グオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッッ!!!!
山全体を震わせる、狂乱の重低音。
音圧だけで、周囲の針葉樹林の樹氷が一斉に粉々に吹き飛んだ。
エレナが顔色を真っ青に変え、ガタガタと震える手で山腹を指差した。
「あ、あの咆哮は……嘘でしょう……!? 霊峰の主……冬の守護獣、《冬眠白熊》……!? なぜ……春の雪解けまで絶対に目を覚まさないはずの主が……真冬の今、狂乱して目を覚ましたのです!?」
「冬眠から……無理やり叩き起こされやがったんだ」
バルツが立ち上がり、パイプを雪に投げ捨てた。
老狩人の鋭い隻眼は、咆哮が響いた氷河洞窟の周辺から立ち上る、禍々しい紫黒色のマナの気流を正確に捉えていた。
それは、神話竜の侵食によって生み出された狂乱の鉱石の気配であった。
地脈に詰まった謎の黒い結晶が、霊峰の主の体内に食い込み、その正気を奪って暴走させているのだ。
「来るぞ……! 体長5メートル、体重3トンの歩く氷河の塊だ! あの狂乱熊がこの谷へ雪崩れ込んできたら、村は家ごとミンチにされるぞ!」
「そんな……! せっかく助かった村が……!」
エレナが長剣を抜き放ち、決死の覚悟で構えた。
だが、ティオとシェリル、ニーナは怯むことなく、即座にバルツの背後へと集結した。
少年たちの瞳には、恐怖ではなく、師弟で培ってきた絶対の自信が宿っていた。
「ティオ、大剣の面受け流しだ! シェリル、鏡面氷板のトラップを張れ! ニーナ、熊の足首の腱を狙え! ――主を正気に戻して、極上の熊鍋を喰うぞ!」
「「「おおおおおっっっ!!!!」」」
第3節【極寒の恵みと雪山モンスター連続解体編】はここに堂々完結!
物語は、霊峰最大の守護獣との激突と、世界を揺るがす黒い結晶の謎に迫る第4節【冬眠白熊の狂乱と第2の黒い結晶編】へと、怒涛の勢いで雪崩れ込む!
霊峰の主の暴走を止める鍵は、解剖学の知恵と仲間たちの絆。
落ちこぼれカルテットと令嬢騎士の真価が、極限の死闘の中でいま試されようとしていた!




