第077話:【実食】雪鼬の皮下脂肪を使ったとろ〜り雪山チーズフォンデュ
深夜の白銀世界。
改修されたスノウベール村の保存雪洞の入口で、パチパチと小さな炭火が熾されていた。
風防の内側は風もなく、炭火の柔らかなオレンジ色の光が、氷結した雪壁を水晶のように幻想的に照らし出している。
その炭火の上に据え付けられたのは、一行の相棒である小さな厚底の銅鍋だった。
鍋の内側には、バルツの手によって野生の山ニンニクの断面が力強く擦り付けられ、ツンとした心地よい香味が塗り込められている。
「さて、これが村の食糧庫の隅に転がってた『石ころ』だ」
バルツが雪の上にゴトリと置いたのは、直径30センチ、厚さ10センチほどの巨大な円盤状の物体だった。
表面は灰色に乾き、叩くとコンコンと硬質な石のような音が返ってくる。
村に古くから伝わる保存用の超硬質山羊チーズ――『スノウ・グリュイエール』だ。
「これ……本来なら一年以上かけて食べる貴重な保存食なのですが、水分が抜けきってカチカチに硬化してしまい、ナイフも通らず、村人たちも歯が立たなくて困り果てていたのです……」
エレナが申し訳なさそうに眉を八の字にする。
だが、バルツはパイプを咥え直してニヤリと笑った。
「硬いってことは、乳脂肪分と旨味のアミノ酸が極限まで凝縮されてるって証拠だ。捨てるどころか、最高のお宝だぜ。ティオ、大剣の切先で薄く削り落とせ!」
「はいッ!」
ティオは大剣を垂直に立て、カンナのように刃先を滑らせて硬いチーズの表面を削り始めた。
シュッ、シュッ、シュッ。
薄い花びらのように削り落とされたチーズの削り節が、銅鍋の中へと山盛りに積もっていく。
そこへ、バルツが先ほど採取したばかりの《雪洞潜り雪鼬》の純白の皮下脂肪を、大さじ二杯分ほどトロリと回し入れた。
さらに、料理用の辛口白ワインを注ぎ込み、弱火の炭火にかける。
「チーズを溶かす時に一番やっちゃならねえのは、強火で加熱して油分と水分を『分離』させちまうことだ。油が浮いてボソボソのゴムになっちまう。だが――この雪鼬の不飽和脂肪酸は、水と油をガッチリ結びつける『天然の乳化剤』として働く。弱火でゆっくり円を描くようにかき混ぜりゃあ……ほら、見てみろ」
バルツが木べらでゆっくりと鍋底を撫でるようにかき混ぜた。
すると、奇跡のような変化が起きた。
カチカチだったチーズの削り節が、白ワインの酸味と雪鼬のサラサラ脂に包まれ、ダマになることも油が分離することもなく、滑らかな黄金色のクリームへと溶け合っていったのだ!
――トペリ……トペリ……。
気泡が小さく弾けるたびに、鍋の中から爆発的な芳香が立ち上った。
熟成されたチーズの濃厚でナッツのような芳醇な薫香、白ワインのフルーティーな酸味、ニンニクの食欲をそそるパンチ、そして雪鼬の極上脂のミルキーな甘美さが一体となった、至福の香り!
「「「うわああああっっっ……!!!!」」」
ニーナとシェリル、そしてエレナの喉が一斉に激しく鳴動した。
銅鍋の中で黄金色に輝くチーズの海。
木べらを持ち上げると、とろ〜りと滑らかな太いリボンのように垂れ下がり、炭火の光を浴びて艶やかに波打っている。
「完璧な乳化だ。――具材を串に刺せ!」
バルツの号令で、弟子たちが手分けして具材を細い竹串に刺していく。
炭火の端で軽く炙って焼き目をつけた『雪下キャベツの芯』。
表面がこんがりキツネ色に焼けた『雪下カブ』と『雪下人参』の角切り。
さらに、昨日仕込んでおいた《霜降り毛長羊》と《氷室雪兎》の干し肉ブロック。
そして、村に残っていた硬い黒パンを一口大に切って炭火でカリッと焼いたクルトン。
「さあ、冷めねえうちにドボンと漬けて食え! 真夜中の雪山チーズフォンデュだ!」
「「「いただきますっっっ!!!!」」」
待ちきれないニーナが、竹串に刺した熱々の雪下カブを、黄金色のチーズの海へとドボンと沈めた。
たっぷりとチーズを絡めて引き上げる。
――ビヨォォォンッッッ!
どこまでも伸びる黄金色のチーズの糸!
フウフウと小さく息を吹きかけ、一口でパクリと口の中へ放り込んだ。
その瞬間――。
「っっっっっっっっ!?!?!?」
ニーナの三角耳がピーンと直立し、ふさふさの尻尾が激しく回転した。
「んんんんんっっっ……!! 美味しいニャ! 熱々で、とろっとろニャーーッ!!」
ニーナが両手で頬を押さえて跳ね回る。
「チーズが……チーズがすっごく濃厚なのに、全然重くないニャ! お口の中でフワッととろけて、カブの甘い果汁と混ざり合って……まるで極上のグラタンを食べてるみたいニャ!」
「私も……いただきます!」
エレナも震える手で、カリカリに焼いた黒パンをチーズの海へと潜らせた。
とろ〜りとした分厚いチーズの衣を纏ったパンを、息を吹きかけながら口へと運ぶ。
サクッ、トロリ……。
噛み締めた瞬間、少女騎士の碧眼が潤み、身体が震えた。
「はふっ、ふあ……っ! ち、チーズが……伸びる、伸びます……っ!」
口元からビヨーンと伸びる黄金のチーズを、ハフハフと吸い込みながら咀嚼するエレナ。
その顔は、湯気と興奮でお手玉のように真っ赤に染まっていた。
「なんて……なんて濃厚なコクなのでしょう……! 硬くて食べられなかったあのチーズが、こんなにとろけてクリーミーになるなんて……! ニンニクの香りと白ワインの酸味がチーズの油分を爽やかに引き締めて、黒パンの香ばしさと完璧に調和しています……! 身体の芯まで、熱いエネルギーが染み渡っていくようです……っ!」
エレナは二本目、三本目と串を伸ばし、キャベツとカブを交互にチーズの海へくぐらせて頬張る。
「こんな時間に……こんな贅沢な夜食をいただくなんて、騎士としての規律に反するはずなのに……手が、手が止まりません……!」
「ハハッ、美味いもんは美味い時に食うのが一番だ。規律なんてのは腹が膨れてから考えりゃいいんだよ」
「この干し肉も最高ですわ!」
シェリルが串に刺した羊の干し肉をチーズに絡めて口に運ぶ。
噛むほどに溢れ出る凝縮された肉の旨味と、濃厚なチーズの塩気が混ざり合い、エルフの令嬢の頬をとろけさせる。
「乾燥させたお肉の繊維に、熱々のチーズが染み込んで……噛み締めるたびに濃厚な旨味の二重奏が押し寄せてきますわ! 雪鼬の脂が全然固まらないから、冷たい雪山の中でもずっとトロトロのままいただけますのね!」
「ティオ、お前は欲張りすぎだぞ!」
「へへっ、キャベツと干し肉を二つ同時に刺して、チーズを二重に絡めるのが一番美味いんですよ!」
ティオが大きな口を開けて、チーズの塊を丸ごと頬張って豪快に唸る。
さらに、鍋のチーズが少なくなってきたところで、バルツが木べらで鍋底をガリガリと擦り上げた。
現れたのは、炭火の熱で鍋底に張り付いた、黄金色にパリパリに焼けた『チーズのおこげ(ル・クロション)』だった。
「ほらよ、フォンデュの最大の贅沢はこれだ。鍋底のおこげを分け合って食え」
「パリパリだニャ! 香ばしくてスナックみたいニャ!」
「んんっ……! 香ばしい……! 噛むほどに凝縮されたチーズの旨味が弾けます……!」
エレナもおこげを口に運び、両手を頬に当ててうっとりと瞳を閉じた。
騎士の規律も、日頃の重圧も、いまこの瞬間だけは完全に雪の中に溶け去っていた。
バルツも雪下キャベツにチーズをたっぷり絡めて口に運び、腰のスキットルから辛口の白ワインを一口喉へと流し込んだ。
クゥーーッ! と喉を鳴らす。
静まり返った真夜中の雪山。
小さな銅鍋を囲むカルテットとエレナの間には、言葉を超えた温かな信頼と、至福の笑顔が満ち溢れていた。
過酷な大自然の脅威に怯えるだけの冬は、もうどこにもなかった。
知恵と技術があれば、雪山は世界で最も贅沢な食卓へと姿を変える。
極寒の夜を越えた村に、いまや完全なる希望の光が灯っていたのだった。




