第074話:エレナの理性が崩壊! 「はふっ、美味しい……おかわりを所望します!」
「……騎士として、節度を保たねばなりません」
エレナは両手で木皿を胸の前に構え、仁王立ちの姿勢を崩さないように必死で背筋を伸ばしていた。
白銀の甲冑がカチリと微かな音を立てる。
名門シルフィード家の誇り、王都近衛騎士団の看板、そして領民を守るべき指導者としての威厳。
それらを必死にかき集め、彼女は理性の防壁を築こうとしていた。
だが、その碧眼は、鉄板の上でジュウジュウと音を立てる黄金色の霜降り肉と、タレを吸って飴色に輝くキャベツから、1ミリたりとも離れることができていなかった。
喉仏が、ゴクリと何度も小さく上下している。
「私は……先ほど広場で、温かいスープを二杯もいただきました。スノウベール村の領民たちがいまだ空腹に耐えているというのに、私一人だけが、このような……このような暴力的なまでに美味しそうなご馳走をいただくわけにはまいりません……!」
健気で、真面目すぎる少女騎士の誓い。
だが、その真面目な言葉とは裏腹に、彼女の白銀の甲冑の腹部からは、先ほどから「ぐぅぅぅぅぅ……」と小さく切ない音が鳴り続けていた。
それを見たバルツは、やれやれと肩をすくめた。
「お前なぁ、さっきから頑固だな。肉は二百キロもあるって言ったろ。村人百二十人に一人一キロずつ配ったって、八十キロも余るんだよ。冷めた鉄板の肉ほど不味いモンはねえぞ。ほら、口を開けろ」
「えっ……? く、口を……?」
エレナが驚いてポカンと口を開けた、その一瞬の隙だった。
バルツの長い竹箸が、鉄板の上から最も肉厚でサシの入った熱々のラムロース肉と、タレの染みた雪下キャベツを同時にひょいと挟み上げ、エレナの唇の隙間へとダイレクトに滑り込ませたのだ!
「むぐっ……!?」
エレナの口の中に、熱々の肉塊と野菜が飛び込んできた。
反射的に前歯でサクリと噛み締める。
その瞬間――。
――ジュワッッッッ!!!!
甘くミルキーな肉汁と、雪下キャベツの濃厚な果汁、そしてニンニク醤油の香ばしいタレが、口の中で一斉に爆発した。
「っっっっっっっっっっっっ!?!?!?!?」
エレナの碧眼から、すべてのハイライトが完全に吹き飛んだ。
カッと目を見開き、全身の毛穴がブワッと開く。
噛む。
柔らかい。
信じられないほど柔らかい肉の繊維が、舌の上でハラハラと解けていく。
三日間の絶食で枯渇しきっていた全身の筋肉細胞が、怒涛のように流れ込んできた上質なアミノ酸とブドウ糖を貪るように吸収していく。
噛み締めるたびに、上質なミルクのような霜降りの脂が、熱いタレと混ざり合って喉を潤していく。
脳裏をよぎったのは、王都の王宮で開かれていた華やかな宮廷晩餐会の記憶だった。
銀の食器に盛られた、冷めて脂の固まった気取った羊肉料理。
あの時、形式ばかりの食事を美味しいと信じ込まされていた自分は、一体何だったのか。
目の前にあるこの熱々の鉄板焼きは、そんな宮廷料理のすべてを塵芥のように吹き飛ばす、本物の『命の美味』だった!
「ふあ……っ! あふ……っ! んんんんっっっ……!!」
エレナの口から、およそ近衛騎士らしからぬ、艶めかしく切迫した吐息が漏れた。
もはや、思考など停止していた。
節度? 騎士道? 家訓?
そんな高尚な概念は、圧倒的な原始の美味の前に、木っ端微塵に粉砕された。
十九歳の少女の全身を支配したのは、ただ一つ――『もっと食べたい』という純粋無垢な本能だけだった。
「あっ……!」
エレナは我を忘れ、バルツの手から竹箸と木皿を奪い取るようにして受け取った。
そして、鉄板の前に膝から崩れ落ちるようにしゃがみ込むと、湯気を上げるラム肉を大急ぎで箸で掴み、ハフハフと口の中へと放り込み始めた!
「はふっ、あふっ……! 美味しい……美味しいです……っ! なんですかこれ……なんですかこのお肉はっ!?」
咀嚼するたびに、金髪のポニーテールが激しく左右に揺れる。
白銀の甲冑の籠手を汚すことも構わず、エレナは夢中になって鉄板から肉とキャベツを口へと運び続けた。
口の端には、茶色いニンニク醤油のタレがペトリとついている。
だが、本人は拭うことすら忘れ、至福の表情で頬をリスのようにパンパンに膨らませていた。
「んぐ、んぐ……っ! 羊の嫌な匂いなんて本当に欠片もありません……! 脂が……脂が甘くて、サラサラと雪解け水のように喉を通っていきます……! キャベツも……こんなにタレとお肉の旨味を吸って……シャキシャキなのにとろけて……っ!」
「エレナ様、麦飯もどうぞ!」
シェリルが笑いながら、熱々の麦飯を盛った木椀を差し出した。
エレナは両手で受け取ると、タレでテカテカに輝くラム肉をご飯の上にドカンと乗せ、大きな口を開けてガブリと掻き込んだ!
「んんんーーーーーッッッ!!!!」
エレナが両手で頭を抱えて激しく悶絶した。
ご飯の熱で肉の脂がさらに溶け、タレの塩気と麦飯の甘みが完璧な三位一体を成して味覚を蹂躙する。
「ご飯……! ご飯とお肉の組み合わせが……悪魔的です……! 止まりません……お箸が、勝手に動いて止まりません……っ!」
「ハハハッ! すっげえ食いっぷりだ!」
ティオが大笑いしながら、新たな肉を鉄板の上に並べる。
「肩ロースは赤身のコクが強くて、バラ肉は脂がジュワジュワで甘いですよ!」とティオが説明すると、エレナは「両方いただきます!」と両方の部位を飯の上に乗せて頬張る。
ニーナが「エレナ、口の周りがタレだらけニャ!」と布巾を持って駆け寄り、エレナの口元をフキフキしてやるが、当のエレナは拭かれながらもモグモグと口を動かし続けている。
二杯目の丼が瞬く間に空になり、三杯目、四杯目へと突入。
そして――。
最後の一粒の麦飯まで綺麗に平らげたエレナは、空っぽになった木皿と木椀を両手でバルツの目の前へとピシリと差し出した。
顔は耳の先まで真っ赤。
だが、その碧眼は、かつてないほど真剣で、獲物を狙う野獣のように爛々と輝いていた。
「私……こんなに美味しいお肉……王都の宮廷晩餐会でも食べたことがありません……! 恥を忍んで申し上げます……! おかわりを……おかわりを所望しますっっっ!!!!」
エレナは胸元に手を当て、真剣な敬礼の姿勢のまま、空の椀を差し出した。
騎士としての威厳と、底なしの食欲が奇跡の融合を果たしたそのポーズに、バルツが腹を抱えて大爆笑した。
「ぶはっ! 所望します、ときたか!」
気位の高い令嬢騎士が、完全に胃袋を掌握され、立派な腹ペコポンコツヒロインへと変貌を遂げた瞬間だった。
「いいぜ、いくらでも食え! ティオ、シェリル、残りの肉も全部部位ごとに切り分けてそりに積め! 今夜はスノウベール村の広場で、百二全員で『霜降り毛長羊ジンギスカン大宴会』だ!」
「「「わあああああっっっ!!!!」」」
ティオとシェリル、ニーナの歓声が雪原に響き渡った。
エレナも「大宴会……! 村人全員で、このお肉を……!」と感極まったように瞳を潤ませながら、新しく盛られた大盛りジンギスカン丼へと再び勢いよく食らいついた。
絶望に閉ざされていた寒村を、圧倒的な美味と笑顔が救い出していく。
合計五杯のジンギスカン丼を平らげたエレナは、雪原の上にペタンと座り込み、お腹をさすりながら「ふぅぅ……幸せです……」と天を仰いでとろけていた。
落ちこぼれカルテットと令嬢騎士の絆は、胃袋を通じて完全に一つに結ばれようとしていた。
だが――平原が夕暮れの茜色に染まり、夜の帳が降り始める頃、村の保存雪洞を狙う、招かれざる白い影が忍び寄っていた。
雪山サバイバルは、夜の防衛戦と新たな冬の珍味の獲得へと舵を切る!




