第072話:羊毛の梳き取りと、フェロモン臭腺の完全切除
「メエェェェェッッッッ!!!!」
白雲平原の静寂を切り裂く、野太い怒号のような咆哮が轟いた。
ニーナが雪玉を投げて挑発した瞬間、群れのリーダーである体長2メートルを超える雄の《霜降り毛長羊》が、激怒して雪煙を巻き上げた。
螺旋状に巻き上がった巨大な黒褐色の大角を低く構え、太い四肢が雪原を蹴り飛ばす。
ドガガガガッッッ!
二百キロの巨体が、時速の弾丸となって一直線に突進してきた。
雪原が地鳴りのように振動し、激しい風圧がティオたちの前髪を吹き上げる。
「来ます……! 真正面から突進してきます!!」
エレナが悲鳴混じりに長剣の柄に手をかけた。
だが、迎え撃つティオの体幹は、岩のようにどっしりと沈み込んでいた。
黒鉄の大剣を真正面に構えながら、羊の瞳の焦点をじっと見据える。
距離、15メートル、10メートル、5メートル――!
羊の顔面がティオの目前に迫った、その刹那。
羊の視野の真正面にある『の死角』に入った瞬間、ティオは左足の母指球で雪を蹴り、斜め前方へとスッと半歩だけ踏み込んだ。
「そこだ、ティオ! シェリル、滑らせろ!」
「『氷面鏡』!」
バルツの指示と同時に、シェリルの杖から放たれた極小の冷気が、突進する羊の左前足の着地点に、一枚の滑らかな極薄氷板を滑り込ませた。
死角に入られて獲物を見失い、さらに前足の踏み込みが氷板でツルリと滑った雄羊。
頭部に背負った二十キロを超える大角の重みが、災いとなって襲いかかる。
頭の重力に身体が引っ張られ、巨大な雄羊は空中で大きく前のめりにバランスを崩した。
――ズザーーーーーッッッッ!!!!
派手な雪煙を上げて、雄羊は雪原の上を腹ばいで10メートル以上も豪快に滑走し、頭から雪だまりへと突っ込んだのだ。
立ち上がろうともがく巨体。
だが、その背後から音もなく雪を踏みしめて接近したバルツの手には、一本の極細の『骨探り針』が握られていた。
「暴れるなよ。美味い肉になるんだからな」
バルツは左手で羊の太い大角の根元をグッと押さえ、首の筋肉を張らせると、右手の探り針を後頭骨と第一頸椎の隙間――延髄の窪みへとスッと垂直に滑り込ませた。
手応えは、雪に針を通すほどに滑らか。
――プチッ。
中枢神経が遮断された瞬間、暴れていた二百キロの巨獣の全身からフッと脱力し、雪の上に静かに沈み込んだ。
外傷ゼロ。
出血ゼロ。
群れの他の羊たちを騒がせることもなく、ただ眠りについたかのような、完璧な『無血締め』だった。
「す……すごい……! あの狂暴な毛長羊が、一撃の打撃も受けることなく、音もなく仕留められました……!」
エレナが呆然と立ち尽くし、震える声で呟いた。
近衛騎士団の重装歩兵十人がかりでも負傷者を出す相手を、わずか数秒で、流れるような連携で制圧してみせたのだ。
だが、バルツはパイプを咥え直すと、すぐに雪の上に膝をついた。
「感心してる暇はねえぞ。獲物が冷え切る前に、まずは極上のウール(羊毛)の梳き取りだ。ニーナ、骨櫛を出せ」
「はいニャ!」
ニーナが取り出したのは、第1章で仕留めた大角鹿の骨を削って作った、目の粗い頑丈な骨櫛だった。
地面に届くほどに長い、純白の極厚毛皮。
バルツは毛を掴んで引っ張ろうとするティオの手をパチンと叩いて止めた。
「羊毛を力任せに引っ張るな。引っ張ると毛の繊維同士が絡まり合って『フェルト化』し、空気を含まなくなってゴワゴワの屑毛になっちまう。まずはこの骨櫛で、絡まった雪と小枝を優しく梳き解すんだ。そして毛根の生え際――皮膚のすぐ上澄み1ミリのところへ、スキニングナイフの刃を真横に寝かせて滑らせる」
バルツのナイフが、シャーッ、シャーッ、と小気味よい音を立てて走る。
梳き揃えられた純白の羊毛が、まるで上質な綿あめのように、ふわふわと波打って刈り取られていく。
指先を沈めると、しっとりとした天然のラノリンオイルの弾力があり、信じられないほど柔らかく温かい。
刈り取られた羊毛は、大人用の防寒コート三着分、毛布なら分に匹敵する膨大な量だった。
シェリルが手早く麻袋へと詰め込んでいく。
「さあ、ここからが羊解体の最大の肝だ。――『フェロモン臭腺(カプリル酸腺)』の完全切除に入るぞ」
羊毛を刈り終え、ピンク色の皮が露わになった羊の巨体を、バルツが裏返しにした。
ナイフをティオとニーナへ手渡す。
「世間一般の連中は、『羊の肉は独特の獣臭さがあって苦手だ』とよく言う。だがそれは、解体の腕が三流だからだ。羊の身体にはな、股の付け根、首筋のリンパ節、そして後ろ足の膝裏に、小豆大の『フェロモン臭腺』が左右対称に埋まっている。この臭腺には、強烈な獣臭の元凶であるカプリル酸やペラルゴン酸がギッシリ詰まってるんだよ」
「カプリル酸……獣臭の元凶……!」
「そうだ。もし腹を割く時や皮を剥ぐ時に、ナイフの切先がこの臭腺をかすめて破裂させてみろ。中の分泌液が筋肉と脂肪に一瞬で染み渡り、どんなに煮込んでも消えないドブのような悪臭肉に化けちまう。だが――この臭腺を、袋を破らずにピンセットで『無傷切除』してやりゃあ、羊の肉は世界で最も上品な極上肉へと化けるんだ」
バルツの指導の下、ニーナとティオが慎重に小刀を滑らせた。
股の付け根の内転筋の間。
薄い結合組織をめくると、米粒より一回り大きな、灰色がかった半透明の小さな袋が顔を出した。
ニーナが息を殺し、銀のピンセットで臭腺の基部を優しく挟み込む。
刃物を使わず、指先のテンションだけで、周囲の毛細血管からツルリと引き剥がす。
「……取れたニャ! 一滴も漏らさずに摘出完了ニャ!」
「ティオ、膝裏と首筋もだ」
「了解ッ……!」
ティオも大剣を振るう太い指先とは思えない繊細さで、残る臭腺を完璧に摘出していった。
合計臭腺が小皿の上に隔離された、その瞬間――。
奇跡のような現象が起きた。
羊特有のあの独特の匂いが、風に乗って完全に消え去ったのだ。
代わりに、雪原の上に漂い始めたのは――。
「あ……れ……? 臭くない……? むしろ……甘いミルクのような香りがする……?」
エレナが目を丸くして鼻を近づけた。
バルツが腹膜を切り開き、背骨に沿って走る分厚いロース肉――『極上ラムロース』を切り出した。
現れた肉塊に、全員の視線が釘付けになった。
鮮やかなロゼ色の赤身肉。
その赤身全体に、まるで雪の結晶を散りばめたかのように、極細の純白のサシ(霜降り脂肪)が網目状に美しく入り込んでいた。
脂の表面は体温でサラサラと溶け出し、上質なバターとナッツを思わせる甘美な香りを放っている。
「「「うわああああっっっ……!!!!」」」
エレナの口から、感嘆を通り越した悲鳴が漏れた。
「な、何ですかこの美しいお肉は……!? 王都の市場で売られている羊肉とは、色も、サシも、香りも、完全に別物です……! まるで最高級の霜降り牛肉のようではありませんか……!」
「おう。これが白銀山脈の恵み――《霜降り毛長羊》の真の姿だ。臭みゼロ、脂は融点二十度で人間の舌の上でスッと溶ける。――ティオ、鉄板を用意しろ! さっき掘り出した雪下キャベツと、すりおろし雪下玉ねぎのタレを使って、豪快に『熱々雪山ジンギスカン』を焼くぞ!」
「「「おっしゃああっっっ!!!!」」」
白雲平原の雪の上に、至高の鉄板焼きの舞台が整えられた。
極上のラム肉と奇跡の甘いキャベツ。
過酷な狩りの後に待つ、至福の飯テロの幕が上がろうとしていた。




