第067話:バルツ一行の到着! 「腹が減ってるなら、飯を食え」
「な、何者ですか……ッ!?」
雪の上に膝をついていたエレナは、涙を腕輪で乱暴に拭い、千鳥足で立ち上がった。
全身の関節がギシギシと悲鳴を上げている。
それでも、彼女は腰の白銀の長剣を抜き放ち、震える切先を現れた組へと向けた。
大雪崩で外界から完全に遮断された絶海の孤島のような寒村に、巨大な荷そりを引いて悠然と歩いてくる謎の集団。
野盗か、それとも飢えたモンスターの類か。
エレナは必死に威圧感を放とうと、嗄れた声を張り上げた。
「こ、この先は……シルフィード家管轄の領地、スノウベール村です……! 怪しい者を通すわけには……いきま、せ……っ!」
――ガクンッ。
言葉の途中で、エレナの膝から完全に力が抜けた。
三日間の絶食、氷点下の豪雪での雪かき、そして先ほどの中央ギルドからの非情な通告による極度の精神的ショック。
若き少女騎士の身体は、とっくに生物としての限界を遥かに超えていたのだ。
視界が真っ暗になり、白銀の長剣が雪の中に音を立てて突き刺さる。
重厚な甲冑の重みに引っ張られ、エレナは頭から雪だまりへと前のめりに崩れ落ちかけた。
「うわっ、危ねえ!」
ティオが思わず叫んだ、その刹那――。
――ガシッ。
倒れかけたエレナの白銀の胸当ての襟首を、毛皮の手袋をはめた大きな手が、背後からヒョイと片手で掴み取った。
まるで子猫の首根っこを拾い上げるかのような、無駄のない自然な力加減。
エレナの身体が宙でふわりと制止し、倒れるのを防がれる。
ぼんやりとした視界の中で、エレナが見上げたのは――。
無精髭を生やし、古びた毛皮の外套を羽織った、枯れた中年の老狩人の顔だった。
パイプを咥えた口元から、ふぅ……と温かい紫煙が冬空へと吐き出される。
「おっと。二十キロもある重い鉄板を着込んで、三日もまともにメシを食ってねえ身体で踏ん張るんじゃねえよ。頭蓋骨から雪に突っ込んで首の骨をへし折る気か?」
「な……っ!? あ、貴方……なぜ、私が三日も何も食べていないことを……!?」
エレナは息を呑み、目を見開いた。
自分が絶食して領民に食糧を譲っていたことなど、村の長老以外には誰にも話していない秘密だったはずだ。
バルツは呆れたように細い眼を細め、エレナの首筋と唇を顎先で指した。
「見りゃわかる。首の頸動脈の拍動が浅くて速い。毛細血管が極度の低血糖でペラペラに萎縮して、唇は紫色――チアノーゼを起こしてやがる。さらに瞳孔が散大して、口からは飢餓特有のケトン体の甘酸っぱいアセトン臭が漂ってる。医者や一流の狩人なら、誰だって一秒で見抜くぜ。お嬢ちゃん、気丈に剣を構えたってな、お前の『骨と肉』は嘘をつけねえんだよ」
「ほ、骨と、肉が……!?」
エレナは絶句した。
ただ一目見ただけで、自分の体内の血流や代謝の異常を完璧に看破されたのだ。
この男は一体何者なのだ。
そこへ、ティオとシェリル、ニーナが心配そうに駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!? 唇がすごく紫色になってる……! シェリル、毛布だ!」
「ええ、すぐに! 『温風のゆりかご(サーマル・ヴェール)』!」
シェリルが樫の木の杖を軽く振るうと、柔らかな温風の膜がエレナの全身を包み込んだ。
急激な加熱を避け、体表温度をじっくりとプラス二度ほど引き上げる絶妙な魔力コントロール。
さらにニーナが、昨日仕留めた《氷室雪兎》の、ふかふかの純白毛皮をエレナの肩へとふわりと掛けた。
肌に触れた瞬間、信じられないほどの弾力と熱が、冷え切った甲冑の上からじんわりと染み込んできた。
「あ……温かい……。なに、この毛皮……? 雲のように軽くて、こんなに温かいなんて……」
「《氷室雪兎》の特級毛皮ニャ! おじちゃん直伝の『フリーズ剥ぎ』で獲ったから、脂の臭みもゼロニャ!」
ニーナが自慢げに尻尾を振る。
だが、エレナの頭は混乱でパンクしそうだった。
氷室雪兎といえば、白銀山脈の奥地に生息する俊敏な凶獣。中央軍の精鋭斥候ですら滅多に捕獲できない希少な素材を、この少年少女たちは当たり前のように毛布代わりに使っている。
そして――。
「ティオ、大鍋を下ろせ。火は熾してあるな?」
「はい、バルツさん! いつでもいけます!」
ティオがそりから抱え上げたのは、大きな黒鉄の寸胴鍋だった。
鍋の蓋が開けられた瞬間――。
――モワアアアッッッ!
雪山の大気を切り裂いて、強烈な湯気と香気が広場いっぱいに広がった。
それは、昨夜からじっくりとコトコト煮込まれ、そりの中でもシェリルの保温魔法で温められ続けていた、《氷室雪兎》の骨付き肉と濃厚骨髄出汁。
さらに、雪下人参の蜜のような甘さと、清流のミネラルを吸った干しハーブの香りが一体となった、黄金のスープだった。
バルツが木製のお玉でたっぷりとすくい、湯気の立つ木椀をエレナの目の前へと差し出した。
「立てよ、騎士様。腹が減っちゃ戦もできねえし、守りたい民を守ることもできねえぞ。――まずはこれを胃袋に流し込め」
「こ、これは……スープ……? で、でも、私は領民に食糧を譲ると誓ったのです……! 集会所には百二十人もの人々が飢えているというのに、私だけがこんな贅沢なものをいただくわけには……!」
エレナは誇りを保とうと、唇を噛み締めて必死に顔を背けようとした。
その健気な姿に、バルツは静かに溜息をつき、木椀をさらに一歩近づけた。
「お前が倒れたら、集会所の百二十人は誰が守るんだ? 将が倒れりゃ軍は全滅だ。民を守るための体力をつけることも、立派な騎士の義務のうちだぞ。それに心配すんな。あの集会所の全員の胃袋を満たすだけの食糧なら、このそりの中に山ほど積んである」
「え……? 全員分の……食糧……?」
「そうです! 雪兎の肉も、干し肉も、純白ラードも、全部このそりに入ってます! だから騎士様、まずはあなたが飲んで元気を出してください!」
ティオが人懐っこい笑顔で頷く。
だが――その時だった。
――ぐううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……ッッッ!!!!
静寂の広場に、信じられないほど盛大で、信じられないほど長く重い音が響き渡った。
白銀の甲冑の腹部が、まるで小動物が中で暴れたかのように派手に鳴動したのだ。
三日間、空っぽだった十九歳の胃袋が、極上の肉スープの香りに抗えるはずもなかった。
空気が凍りついた。
「っっっっっっっ!?!?!?」
エレナの顔が、耳の先から首筋まで、一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染まった。
あまりの恥ずかしさに、碧眼にポロポロと大粒の涙が浮かぶ。
「ち、違うのです……! これは……私の甲冑の金具が擦れた音で……決して私の腹の虫などでは……っ!」
「ハハッ、金具が『ぐうぅぅ』なんて鳴くかよ。いいから黙って飲め。冷めちまうぞ」
バルツが苦笑しながら木椀をエレナの手のひらに押し当てた。
温かい木肌の感触。
芳醇なスープの湯気が、エレナの鼻先を優しく撫でる。
限界を迎えていた少女騎士の指先が、スープの椀をぎゅっと抱きしめた。
手のひらを通じて伝わってくる、確かな命の温もり。
孤独に耐え続け、すべてを一人で背負い込もうとしていたエレナの瞳から、こらえきれない熱い涙がポロポロと木椀の中へと落ちた。
見捨てられた寒村に現れた、信じられない奇跡の来訪者たち。
ついに、命を救う至高の一口が、彼女の唇へと運ばれようとしていた。
そしてこの出会いが、絶望に沈んでいたスノウベール村を、奇跡の大蘇生劇へと導いていくことになるのだった。




