第066話:中央ギルドの非情な通告「見殺し決定」と、エレナの絶望の涙
「……あー、聞こえるかね、エレナ・フォン・シルフィード卿」
通信魔導具のスピーカーから響いてきたのは、暖かい暖炉の部屋で上等な葉巻でも燻らせているかのような、間延びした男の声だった。
王都中央ギルド「黄金の天秤」――物資輸送統轄官、バルトロメオの声。
シルフィード領の物流と鉱山取引を牛耳り、莫大な手数料をかすめ取ってきた中央の高級官僚だ。
エレナは冷え切った両手で魔導具を強く握りしめ、震える声で叫んだ。
「バルトロメオ統轄官……! 救援部隊の工兵隊と物資輸送船は、いつこちらに到着するのですか!? スノウベール村の備蓄食糧と薪は完全に尽きました! を超える領民が、寒さと飢えでいつ命を落としてもおかしくない極限状態なのです! 一刻の猶予もありません!」
魂を絞り出すようなエレナの叫び。
しかし、通信の向こうから返ってきたのは、嘲笑うような鼻で笑う音だった。
「やれやれ、相変わらず血気盛んで感情的なお嬢様だ。結論から申し上げましょう。――今回の救援要請は、中央ギルド最高評議会の決定により、正式に『見送り(却下)』となりました」
「なっ……!? み、見送り……!? 何を言っているのですか……!?」
エレナの思考が真っ白に凍りついた。
見送り。却下。
その言葉の意味を、脳が拒絶する。
バルトロメオは、書類をパラパラとめくる音を立てながら、まるで今日の天気を読み上げるかのように冷淡に告げた。
「簡単な算数の話ですよ、エレナ卿。全層雪崩で塞がれた数100000トンの雪と土砂を除去するための精鋭工兵隊の動員費用、さらには霊峰の暴風雪の中を飛行船で強行突入させるための特別保険料と魔導燃料費……諸々を合算すると、金貨五千枚を優に超える試算が出ましてね。一方で、スノウベール村が王都に納める年間の鉱山税収は、せいぜい金貨程度。……費用対効果が、まったく釣り合わないのです」
「き、費用対効果……!? 貴方様は……人の命を、金貨の損得で計算しているのですか……!?」
「我々は慈善事業団体ではないのですよ、お嬢様。商人ギルドの基本は利益です。赤字を垂れ流してまで、山奥の寒村を救いに行く義務は我が『黄金の天秤』にはありません」
冷酷極まりない事務的な声。
エレナの全身の血液が、怒りと絶望で逆流しそうになった。
「ふざけないでください……! この村の人々は、何世代にもわたって極寒の雪山で命を削り、王都へ良質な銀鉱石と水晶を送り届けてきたのですよ! その恩恵を貪りながら、危機に陥った途端に見捨てるというのですか!? 今すぐ食糧と薪を運ばなければ、春を待たずに全員死んでしまうのです!! 騎士団長閣下や王城の元老院へ直訴いたします!!」
「どうぞご自由に。ですが、この暴風雪の中、王都との公式通信魔導回線を管理しているのは我が『黄金の天秤』の通信中継局だけですよ。卿の直訴状が王城へ届くのは、早くても春の雪解けの後……すべてが終わった後でしょうな」
バルトロメオの声には、微塵の動揺も、良心の呵責もなかった。
むしろ、獲物を罠に追い詰めたハイエナのような、粘着質な笑みすら混ざっていた。
「春の雪解けまで、各自の努力で生き延びてください。まあ、何人か……あるいは大半が飢え死にしたとしても、雪が解けた後に王都から新たな労働者を送り込めば鉱山の採掘は再開できますからね。ついでに言えば、無人となった鉱山の採掘権は、我が『黄金の天秤』が一括して破格の安値で買い取らせていただく手はずになっております。シルフィード家の誇り高き騎士様が、民と共に美しい殉教を遂げられることを王都より祈っておりますよ。――では、通信を終了します」
「待ちなさい! 貴方たちの目的は最初から鉱山の乗っ取りだったのですか!? バルトロメオ! バルトロメオオオオオッッッ!!!!」
プチッ――。
エレナの悲痛な叫びを遮断するように、通信魔導具の青い光がフッと消えた。
無機質な沈黙。
ただ、ビューウウウウと吹き荒れる極寒の雪風の音だけが、広場に虚しく木霊していた。
「あ……あぁ……っ……」
手から通信魔導具が滑り落ち、雪の上にポトリと落ちた。
見捨てられたのだ。
最初から、救助部隊など派遣する気はなかったのだ。
中央ギルド「黄金の天秤」の腐敗した連中は、この村の領民が飢餓で全滅するのを待ち、雪解け後に無人の鉱山利権を丸ごとタダ同然で買い叩く腹積もりだったのだ。
「そんな……そんなことが……許されて、いいはずが……ありません……」
エレナは雪の上に両手をつき、崩れ落ちた。
堪えきれなくなった涙が、碧眼からボロボロと溢れ出す。
熱い涙は頬を伝い、氷点下の空気に触れて、雪の上に小さな氷の粒となってこぼれ落ちていく。
脳裏をよぎるのは、幼い頃に見たこの村の光景だった。
年に一度の銀細工祭りで、鍛冶師たちが誇らしげに掲げた美しい銀の燭台。
子供たちが広場を走り回り、温かい麦粥を分け合って笑い合っていた村人たちの温もり。
あの優しい人々が、飢えと寒さで全員死に絶えるというのか。
春まで耐え忍べ、だと?
そんなこと、できるはずがない。
食糧も薪も尽きた。
今日、明日にも、集会所の子供たちから凍死者が出始める。
あと三日もすれば、百二十人の領民は全員、冷たい氷の彫像となって息絶えるのだ。
「私が……私が無力なばかりに……! 父上……母上……! 私は、民の盾どころか……誰一人、救うことができません……っ!」
雪を掻きむしり、嗚咽を漏らす少女騎士。
白銀の甲冑を着た十九歳の少女の背中は、あまりにも小さく、あまりにも痛々しく震えていた。
絶望。
完全なる孤独と、死の闇。
すべてが終わったのだと、誰もが神を呪う瞬間だった。
だが――。
――ザクッ。
――ザクッ。
猛吹雪が運ぶ冷たい風の隙間から、奇妙な音が響いてきた。
それは、重い絶望の足音ではなかった。
ギィ、ギィ、と木が軋む音。
そして、パウダースノーを軽快に踏みしめる、驚くほど呑気で、リズミカルな足音。
さらに――冷え切ったエレナの鼻腔を、ふわりとくすぐるものがあった。
獣の香ばしい脂の薫香。
煮込まれた肉と骨の濃厚な出汁の湯気。
そして、爽やかな雪山のハーブの香り。
「……え……? な、何の匂い……? 幻覚……? 寒さで、頭がおかしくなってしまったのかしら……」
エレナが涙で濡れた睫毛を震わせ、信じられない思いで顔を上げた。
雪崩で完全に閉ざされたはずの街道の先――雪の吹きだまりの向こうから、白い雪煙を巻き上げながら現れた影があった。
巨大なトネリコ材のそりを、腰の力で軽々と牽引する大剣の少年。
杖を掲げて暖かな風の結界を操る、美しいエルフの少女。
頭の三角耳をピコピコと動かし、鼻を鳴らす獣人の小柄な少女。
そして――。
一番後ろで、古びた毛皮の外套を羽織り、パイプの紫煙をくゆらせながら呑気に雪を踏みしめて歩く、無精髭の枯れたおっさん狩人の姿だった。
死の静寂に沈む絶望の村に、信じられないほど場違いな、湯気と活気があふれるカルテットが姿を現したのだ。
そりの上には、七本の研ぎ澄まされた解体ナイフと、巨大な寸胴鍋。
そして、純白の極上毛皮に包まれた大量の肉塊。
氷点下の雪原を照らす太陽の光を背に受けて歩み寄るその姿は、まるで神話の英雄のようでありながら、どこか呑気で温かいサバイバルの旅人たちそのものだった。
凍てついた絶望の淵に、いま、奇跡のような救済の足音が確かに刻まれようとしていた。




