第065話:令嬢騎士エレナの孤軍奮闘と、飢餓で倒れる領民たち
ザシュッ、ザシュッ――。
凍てついた雪を踏み荒らす、重く不揃いな音が、死に静まり返ったスノウベール村の中央広場に響いていた。
木製の粗末な雪かき用スコップを両手で握りしめ、必死に雪を掻き分けている一つの人影。
白銀の彫刻が施された見事な近衛騎士甲冑。
背中には、冷たい風に靡く美しい黄金色の髪――ポニーテールに束ねられたその髪先は、氷点下の冷気で白く凍りつき、睫毛にも細やかな霜が宿っていた。
「はぁっ……はぁっ……! くっ……まだ、これくらい……!」
荒い息を吐きながらスコップを雪に突き立てるのは、若き少女騎士だった。
エレナ・フォン・シルフィード、十九歳。
この北嶺の地を治める名門シルフィード家の令嬢であり、王都の近衛騎士団に席を置く精鋭の騎士である。
凛とした切れ長の碧眼、意志の強さを感じさせる引き締まった唇。
だが――その麗しい美貌は、いまや極度の疲労と寒さによって青白くやつれ果て、頬は痛々しいほどに痩せこけていた。
唇は紫色に変色し、震える指先は感覚を失ってスコップの柄を握ることすら覚束ない。
吹き付ける粉雪が白銀の鎧の隙間に入り込み、容赦なく体温を奪い去っていく。
全身の関節が錆びついたように軋み、スコップを持ち上げるたびに肺胞が激しく焼けるように痛んだ。
それでも、彼女は手を止めるわけにはいかなかった。
少しでも身体を動かしていなければ、そのまま雪の中で永遠の眠りについてしまうことを、彼女の本能が理解していたからだ。
「エレナ様……! もう、おやめになってください……! これ以上雪かきを続けたら、貴女様のお身体が保ちません……!」
集会所の厚い木製扉の隙間から、顔を覗かせた村の長老が涙声で叫んだ。
だが、エレナは青白い顔を上げ、きっぱりと首を横に振った。
乱れる呼吸を必死に抑え込みながら、気丈に笑みを作ろうとする。
「いいえ……! 集会所の屋根と換気口の周りの雪を掻き出さなければ、雪の重みで屋根が圧壊するか、室内に一酸化炭素が充満してしまいます! それに、いつ救助部隊が来てもいいように、広場の荷降ろし場を開けておかなければ……!」
「救助など……本当に来るのでしょうか……。もう、二週間も街道が塞がれたままです……」
老人の絶望的な呟きに、エレナの胸が鋭い針で刺されたように痛んだ。
スノウベール村を襲った大雪崩から、今日で十四日目。
最初の三日間で、街道への脱出を試みた青年狩人たちは、猛吹雪と深雪に阻まれて命からがら引き返してきた。
裏山の森へ食糧を狩りに出ようにも、寒波で狂暴化したモンスターたちが群れをなし、村の外へ一歩出ることすら命懸けの状況だった。
エレナ自ら剣を抜いて雪兎や鹿を追ったが、深雪に甲冑の足を取られ、飢えと疲労で獲物を取り逃がす屈辱を味わっていた。
集会所の中には、村人全員――老人、女性、幼子を含むを超える領民たちが、身を寄せ合って避難していた。
だが、その内部の光景は、もはや野戦病院すら生ぬるい地獄絵図だった。
暖炉で燃やす薪は三日前に完全に底を突き、村人たちは濡れた毛布やボロ布を何重にも被って床にうずくまっている。
食糧庫にあった干し肉も小麦粉も、根菜も、すべて食い尽くされた。
わずかに残っていた家畜の飼料用の干し草すら、煎じて泥のようなスープにして飲み干した。
寒さと飢えで免疫力が落ち、あちこちから子供の激しい咳込みや、老人のうわ言のような呻き声が漏れ聞こえてくる。
もはや、人間としての尊厳すら失われようとしていた。
「お腹すいたよぉ……お母ちゃん、寒いよぉ……」
「ごめんね、ごめんね……もう何もないのよ……」
痩せこけた母親が、熱を出して震える我が子を抱きしめ、枯れ果てた涙を流している。
それを背中で聞くたびに、エレナの心は鋭利な刃物で抉られるような激痛に苛まれていた。
エレナの生家であるシルフィード家は、代々『領民の盾たれ』を家訓としてきた武門の家柄だった。
民から税を預かり、領地を預かる身であるならば、その命を賭して民の生活と尊厳を守り抜くのが騎士の責務。
幼き日に父から授けられた白銀の長剣を胸に抱き、彼女はその誇りを誰よりも大切にしてきた。
だからこそ、エレナは領民を守るために、自らの配給食糧をすべて子供や老人に譲り渡していたのだ。
最後の硬いパンの欠片を、熱で震える赤子を抱く母親の手のひらに押し渡してから、すでにまる三日間。
エレナ自身は、雪解け水を一口啜った以外、胃の中に固形物を何一つ入れていなかった。
「う……っ!」
雪をすくい上げた瞬間、猛烈な立ちくらみがエレナを襲った。
視界が真っ白に明滅し、天地が激しく回転する。
激しい低血糖発作。体内のグリコーゲンは完全に枯渇し、筋肉のタンパク質を分解してわずかなエネルギーを絞り出している状態だった。
手からスコップが滑り落ち、重厚な白銀の甲冑の重みに耐えきれず、エレナは雪の上にドサリと両膝をついた。
「はぁっ……はぁっ……手足が、冷たい……。指が……動かない……」
手袋越しに雪に触れた指先には、もはや冷たさの感覚すら残っていなかった。
体温が限界まで低下し、脳が筋肉に命令を送り届けることができない。
甲冑の内側で、心臓が不規則に早鐘を打っている。
凍死と餓死の境界線。
自分がすでに限界を超え、いつ命の火が消えてもおかしくないことなど、百も承知だった。
集会所の扉の奥から、領民たちの悲痛な祈りの声が風に乗って聞こえてくる。
「神よ……どうかエレナ様をお守りください……」
「あんなにお優しい姫様を、こんなところで死なせないでおくれ……」
領民たちの温かい祈り。
それが、折れかけたエレナの心に最後の火を灯した。
「私は……シルフィード家の騎士……! 父上からこの領地を任された者として……民を見捨てて、先に倒れるわけには……絶対に、いかないのです……!」
エレナは震える両手で腰の白銀の長剣の鞘を杖代わりにし、雪を押し返して必死に立ち上がろうとした。
膝がガクガクと小刻みに痙攣する。
唇を血が滲むほど噛み締め、涙を堪えて立ち上がる。
誇り高き騎士の意地。
領民を愛するがゆえの、あまりにも健気で、あまりにも痛々しい孤軍奮闘。
その時だった。
エレナの胸当ての内側に忍ばせていた、青い宝石が埋め込まれた通信魔導具が、ピピピピ……と鋭い電子音を鳴り響かせた。
「っ……通信!? 王都ギルドからの……救援の連絡!?」
エレナの蒼白な顔に、パッと一筋の希望の光が宿った。
大雪崩の発生直後から、何度も、何度も救援要請を送り続けていた王都中央ギルド「黄金の天秤」。
莫大な上納金と鉱山利権を吸い上げている中央組織だ。
街道が埋没した今、王都の精鋭工兵部隊や大規模な物資輸送飛行船が派遣されなければ、この村の百二十人を救う術はない。
ついに、救助部隊が派遣される決定が下りたのか。
エレナは凍える指で、祈るように通信魔導具を胸元から引き抜いた。
震える手で魔力を込め、通信回線を開く。
「こちらスノウベール村、シルフィード家近衛騎士エレナです……! 救援物資の輸送隊でしょうか!? 村人たちが飢えと寒さで限界を迎えています……! どうか、至急の救援をお願いします……!」
祈りを込めた悲痛な叫び。
冷たい風が雪煙を巻き上げ、エレナの黄金色の髪を激しく揺らす。
だが――スピーカーの向こうから流れてきたのは、彼女の希望を根底から粉々に打ち砕く、冷酷極まりない男の声だった。
それは、同情の欠片すら微塵も含まれていない、打算と損得勘定だけに塗り固められた死刑宣告そのものだった。




