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第064話:大雪崩の爪痕と、外界から遮断されたスノウベール村

凍結した渓流を後にし、急峻な白銀の峠道を登りきった一行の足が、凍りついたように止まった。

 峠の頂から眼下を見下ろしたティオたちの視界に飛び込んできたのは、息を呑むような大自然の猛威と、生々しい破壊の爪痕だった。


「こ、これは……ひどいニャ……」


 ニーナのゴーグルの奥で、琥珀色の瞳が大きく揺れていた。

 谷間を吹き抜ける風が、ゴオオオオ……と不気味な重低音を響かせている。

 霊峰の東側斜面。

 本来であれば、山裾の交易都市から谷底の集落へと通じているはずの堅牢な石畳の幹線街道が、完全に消滅していた。

 山腹の広大な針葉樹林が数100メートルにわたって根こそぎ薙ぎ倒され、巨岩と氷の混ざり合った数100000トンに及ぶ巨大な雪の土砂崩れ――大規模な大雪崩(全層雪崩)が、街道を数10メートルの高さで完全に埋め尽くしていたのだ。


「全層雪崩(ぜんそうなだれ)だ……。地熱と急激な寒暖差で、雪の底面全体が地面から滑り落ちたんだな」


 バルツがパイプを咥えたまま、険しい表情で斜面の破断面を見上げた。

 崩落した雪の塊は、まるで巨大な城壁のように谷を塞ぎ、人馬はおろか、どんな重装馬車であっても通行することは物理的に不可能な絶望の壁と化していた。

 老狩人の目は、雪崩の破断面に露出した黒々とした地肌の奥を見逃さなかった。

 土壌の隙間から、微かに漏れ出る不自然な紫黒色の燐光――地脈の奥底に突き刺さる、禍々しい鉱石の気配。


(……ただの自然現象じゃねえな。地脈の熱バランスが狂ってやがる。まるで、山の奥深くで何者かが毒を撒き散らして、霊峰の脈を凍りつかせているような……)


 バルツは背中の古傷を押さえながら、内心で苦い推測を巡らせていた。

 だが、今はその原因究明よりも、目の前の現実が遥かに切迫していた。


「街道が完全に塞がれてる……。これじゃ、街からの物資や食糧を運ぶ隊商(キャラバン)は一台も通れないわ」


 シェリルが青ざめた顔で呟く。

 スノウベール村は、北嶺の霊峰の麓に位置する寒村であり、古くから山岳信仰の巡礼地でありながら、王都への鉱石供給を担ってきた歴史ある村だった。

 しかし、近年は中央ギルド「黄金の天秤」による採掘利権の買い叩きと流通の独占が進み、備蓄食糧の備えすら削られていたという噂を、バルツは耳にしていた。

 ティオが大剣の柄を握りしめ、雪崩の壁の向こう――谷底の窪地を指差した。


「バルツさん、あそこ……! 家が見えます! あそこが村ですか!?」


 谷の最深部に、寄り添うように立ち並ぶ数十軒の木造の家々があった。

 北嶺の最果ての寒村――「スノウベール村」だ。

 だが、その村の光景は、あまりにも異様で、不気味な静寂に包まれていた。

 降り積もった2メートルを超える豪雪が家々の屋根を圧迫し、軒先には大人の背丈ほどもある鋭利な氷柱がびっしりと垂れ下がっている。

 雪かきをした形跡はほとんどなく、街道も小道も雪に埋もれたまま。

 そして何より――。


「煙突から……煙が、一本も上がっていないニャ……」


 ニーナが震える声で呟いた。

 この氷点下十度を下回る極寒の雪山において、家々の煙突から薪を燃やす煙が上がっていない。

 それは、生活の営みが完全に停止していることを意味していた。

 家々は固く扉を閉ざし、人影は一つもなく、村全体が巨大な氷の墓場のように沈黙していた。


「薪が尽きたのか……? それとも、火を熾す気力すら残っていないのか……」


 ティオの唇から、乾いた声が漏れる。

 バルツは眉間に深い皺を刻み、低く重い声で状況を分析した。


「食糧の補給路が完全に断たれてから、少なくとも二週間以上は経ってるな。この豪雪だ、裏山の狩りにも出られず、備蓄の食糧もとっくに底を突いたはずだ。人間ってのはな、極度の飢餓と寒さが重なると、内臓の熱産生が止まり、判断力が麻痺して動けなくなる。『寒冷低体温症』と『飢餓衰弱』の複合だ。体内のグリコーゲンが枯渇し、体温が三十五度を下回ると震えすら止まる。そこから先は、家の中で凍えながら、死を待つだけの状態に追い込まれてる」

「そ、そんな……! それじゃあ、村の人たちが全滅しちゃうニャ!」

「急ぎましょう、バルツさん! まだ生き残っている人がいるはずです!」


 シェリルとティオが、居ても立ってもいられない様子で駆け出そうとした。

 だが、バルツは低く落ち着いた声で弟子たちを制した。


「焦るな。慌てて飛び込んでも二次災害を起こすだけだ。雪崩の末端は雪が緩んでる。踏み抜けばクレバスに飲まれるぞ。それに、寒冷地救助には絶対に破っちゃならねえ医学の鉄則がある」

「医学の鉄則……?」

「低体温症で倒れた人間に、いきなり熱湯を飲ませたり、焚き火の前に放り込んじゃいけねえ。急激に身体の表面だけを温めると、末梢の血管が開いて冷え切った血液が一気に心臓へと逆流する。『アフター・ドロップ現象』だ。心室細動を起こして、助かるはずの命がショック死する」

「ひえっ……! 急に温めると、心臓が止まっちゃうのね……!」


 シェリルが息を呑む。

 バルツは力強く頷いた。


「そうだ。だからこそ、身体の内側――胃袋から極上の滋養とぬるい熱をじっくり染み渡らせる必要がある。――ティオ、そりのスキー板を点検しろ。シェリル、弱火の保温結界をそりの寸胴鍋に張れ。ニーナ、風下の匂いを嗅いで、人の気配が最も集中している場所を特定しろ」

「「「了解ッッッ!!!!」」」


 弟子たちは深呼吸し、冷静さを取り戻した。

 ニーナが防雪ゴーグルを押し上げ、冷たい風の中に神経を研ぎ澄ます。

 耳をピクピクと動かし、鼻を小さく鳴らす。


「……微かに、人の匂いがするニャ。村の奥……大きな時計台のある石造りの集会所ニャ! あそこに、数……ううん、以上の命の気配がギュッと集まってるニャ!」

「集会所か。個別の家じゃ暖が取れねえから、村人全員を一箇所に集めて、互いの体温でかろうじて生き延びようとしてるんだな」


 バルツが頷き、そりの引き綱を握り締めた。


「ティオ、そりを全速力で引くぞ。俺たちのそりには、昨日狩った《氷室雪兎》の極厚毛皮と残りの肉、骨、そして第1章で仕込んできた猪の純白ラードと干し肉がたっぷり積んである。飢えた人間に冷たい水や固い肉を食わせたら胃痙攣で死ぬ。最初に必要なのは、胃袋を優しく温める『極上の熱い出汁』だ」

「はいッ! 俺が引っ張ります! 全員、絶対に助けます!」


 ティオが大剣を背に固定し、雪崩のデブリ(堆積雪)の硬い尾根を選びながら、猛烈なダッシュでそりを牽引し始めた。

 シェリルが風の魔力でそりの進行方向の乱気流を散らし、滑走の抵抗を極限まで減らす。

 ニーナが先行してクレバスの危険を察知し、安全なルートを指差す。

 第1章と雪山入門で培ったカルテットのチームワークが、いま人命救助のために完璧に噛み合っていた。

 パウダースノーを蹴散らし、雪煙を上げて斜面を滑り降りる一行。

 ティオの引き綱を握る両手には、一切の迷いも躊躇もなかった。

 かつてギルドで「無能の荷物持ち」と笑われていた少年が、いま、大勢の命を背負って白銀の斜面を風のように駆け抜けている。

 シェリルの瞳には、冷え性を克服した誇りと、誰かを救いたいという強い光が宿っていた。

 ニーナの鋭敏な耳は、風の音の隙間から、消え入りそうな命の鼓動を一音たりとも逃すまいと前方を捉え続けている。

 外界から見捨てられ、白い闇に呑まれかけたスノウベール村へ――。

 老狩人と落ちこぼれたちの、命を救うサバイバル救援行が、いま幕を開けた!

 死の静寂に沈む村の広場へ、希望の轍(わだち)が一直線に刻み込まれていく。

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