第061話:エラと側線の凍結締め! 刺身でも泥臭さゼロの職人技
雪で組まれた即席の生簀の中で、六匹の《氷晶岩魚》が元気に尾びれを揺らしながら泳いでいた。
水温零度。
極限の冷水の中で胃の内容物を完全に吐き出させ、魚の体温と呼吸が完全に落ち着いたところで、バルツが静かに腕まくりをした。
「魚の味を決定づけるのは、釣り上げた瞬間じゃねえ。――『締める速度』と『血抜きの精度』だ。特にこの氷晶岩魚は、身体が透明な分、ほんの少しの鬱血や乳酸の発生で身が白濁し、生臭みが出てしまう。五秒以内に完全な『活け締め』を終わらせるぞ」
「五秒……! 瞬きする間もないニャ!」
ニーナが解体小刀を抜き、指先をピタリと揃えて構えた。
バルツが濡らした清潔な麻布で一匹目の大物を水槽からすくい上げ、平らな氷の解体台の上へと寝かせた。
魚がピチッと一度跳ねようとした瞬間、バルツの指先がエラ蓋の付け根を優しく押さえ、魚の視界を布で覆った。
視界を遮られた魚は、驚くほど大人しく静止する。
「ニーナ、見ろ。エラ蓋の後ろ、第一側線が始まる窪みに、後頭骨と脊椎の境目がある。そこへ小刀の切先を垂直に当て、手首のスナップで1ミリ押し込め」
「はいニャ!」
ニーナの小刀が、迷いなくスッと吸い込まれた。
――プチッ。
中枢神経が切断された瞬間、氷晶岩魚の透明な魚体がビクンと一度大きく波打ち、そのまま全身の力が完全に抜けてグッタリと弛緩した。
苦痛を感じる暇すら与えない、完璧な「脳締め(延髄断裂)」だ。
「よし、次はエラ膜の動脈切断だ。エラ蓋をめくると、鮮やかな紅色のエラ葉の根元に、太い大動脈が一本走っている。そこだけを狙って刃先をチョンと入れろ。心臓はまだ微かに動いている。心臓のポンプ機能を生かしたまま、血を一気に体外へ押し出させるんだ」
ニーナが教わった通り、エラの根元へ極小の切れ目を入れた。
すると、心臓の鼓動に合わせて、ドクッ、ドクッと鮮紅色の動脈血が勢いよく吹き出した。
そこへ、ティオが水温零度の清潔な雪解け水を竹筒ですくい、エラの隙間から勢いよく注ぎ込んだ。
冷水が血管を通り抜け、毛細血管に残った最後の血液まで、まるで魔法のように洗い流されていく。
わずか十秒足らずで、吹き出す液体は完全に透明な水へと変わった。
「す、すごい……! 血が完全に抜け切って、魚のエラが真っ白になりました!」
「おう。ここまでは普通の一流料理人でもやる。だが、雪山の川魚を『極上の刺身』として喰うためには、もう一つ、絶対に抜かなきゃならねえ器官がある。――『側線泥腺』だ」
「側線泥腺……?」
シェリルが小首を傾げた。
バルツは解体台の氷の上に魚を真横に寝かせ、体側の真ん中を走る一本の細いライン――側線(水流や水圧を感じる感覚器官)を指差した。
「淡水魚特有の『川魚臭さ(泥臭さ)』の原因は、皮の表面の粘液と、この側線の下に埋まっている神経管と泥腺だ。プランクトンや川底のバクテリアの匂いが、この管に濃縮されて溜まるんだよ。平地じゃ加熱して臭みを誤魔化すが、この管を丸ごと引き抜けば、淡水魚の臭みは完全にゼロになる。それに、この氷晶岩魚の体内には地脈の冷気マナが循環しているおかげで、寄生虫の類は一切寄り付かねえ。体液自体に天然の抗菌ペプチドが含まれているから、安心して生で食えるんだ」
「寄生虫ゼロで臭みもゼロ……! まさに刺身のために生まれてきたような奇跡の魚ね!」
「ティオ、尾びれの付け根に、皮一枚残して浅く切れ目を入れろ。皮の下に、白い糸のような管が一本見えてくるはずだ」
ティオが息を呑みながら、慎重に尾びれの根元の皮を切り開いた。
肉を傷つけないよう、皮下組織だけをめくる。
すると、透明な身肉と皮の間に、太さ1ミリにも満たない、白く光る細い糸のような管が顔を出した。
「ありました……! これですね!」
「そうだ。それを銀のピンセットで優しく挟め。途中で切るなよ。頭の方へ向けて、ゆっくりと一定の力で引っ張るんだ」
ニーナがピンセットを構え、白い糸の端を慎重に挟み込んだ。
息を殺す弟子たち。
ニーナの指先が、呼吸を合わせるようにミリ単位で後方へと引かれていく。
――スルスルスルッ……。
驚くべきことに、魚の頭部へ向かって、体側全体からスーッと一本の白い筋が、途切れることなく綺麗に引き抜かれていった。
まるで布の縫い糸を一本だけ引き抜くかのような、鮮やかな職人技。
頭の付け根まで引き抜かれた管の先には、微かな黒い泥の微粒子が溜まっていた。
「ぬ、抜けたニャーーーーッッッ!!」
「反対側も同じように抜け。左右の側線泥腺を抜き終わったら、三枚におろすぞ」
左右両方の管を完璧に引き抜いた後、バルツはティオとシェリルにも小刀を握らせ、残りの魚の三枚おろしを指導した。
ティオが大きな手で中骨の感触を確かめながら、刃先を背骨のキワへと沿わせる。
シェリルが魔力で刃の温度をわずかに下げ、魚の脂が手の体温で溶け出すのを防ぎながら皮を引く。
シュッ、シュッ、と小気味よい音が響き、透明な美しいフィレが次々と切り分けられていった。
まな板の上に現れたのは――言葉を失うほどに美しい、極上の白身だった。
「「「うわああああっっっ……!!!!」」」
三人の口から、感嘆の息が同時に漏れた。
現れた魚肉は、濁りが一切なく、向こう側に敷いた青竹の節の筋がそのまま透けて見えるほどに透明だった。
表面には、氷点下の冷気でキュッと引き締まった極上の脂が、シルクのような上品な艶を纏っている。
バルツがその身を2ミリほどの薄さに削ぎ切りにし、雪の上に置いた清潔な青竹の皿へと花びらのように並べていく。
まるで、薄く削り出した水晶の板が重なり合っているかのようだった。
「どうだ。これが、白銀山脈の至宝――『氷晶岩魚の薄造り(刺身)』だ。泥臭さは欠片もねえ。雪塩をパラリと振って口に入れれば、上品な甘みと清流のミネラルが舌の上でフワッと溶けるぞ」
「綺麗……! まるで芸術品だわ……!」
シェリルが恍惚とした表情で見つめる。
指先をそっと近づけると、刺身の表面から放たれる微細な冷気マナが、肌を心地よく撫でるのが分かった。
魚特有の生臭さは本当に微塵も感じられない。
ただ、早春の雪解け水のような、清らかで透明な香気だけが漂っている。
さらにバルツは、残った魚の丸ごとを竹串に刺し始めた。
ただ真っ直ぐ刺すのではない。
頭から背骨に沿って串を通し、尾びれをキュッと跳ね上げるように波打たせる――伝統の『踊り串』だ。
「こうやって波打たせて串を打つと、遠火の炭火で焼いた時に皮が破れず、頭から尻尾まで均等に熱が通る。見た目も、清流を生き生きと泳いでいる姿そのものになるだろ」
「本当だ! まるで雪の上を魚が泳いでいるみたいだ!」
ティオが目を輝かせる。
バルツは頭、カマ、そしてこんがり焼いた中骨と大きなヒレを、後で熱々の酒に浸すために大切により分けた。
「刺身、炭火塩焼き、そして――こんがり焼いたヒレと中骨を、熱々の地酒にジュッと沈めて作る『極上骨酒』だ。冷え切った身体の芯から温まるぞ。雪山のサバイバルで、これ以上の贅沢は王侯貴族だって味わえねえ」
「骨酒……! 塩焼き……! おっちゃん、早く食べたいニャ!」
「すぐに熾火を起こします! 最高の遠火を作りますよ!」
凍てつく渓流のほとりで、若き狩人たちの瞳が、最高のグルメへの期待で爛々と輝いていた。
過酷な自然に生きる生命を、敬意を持って完璧に捌き切る。
極寒の知恵と解体の技術が、ただの川魚を神話級の美味へと昇華させていく瞬間だった。




