第059話:氷の下を流れる清流! 凍結渓流の穴あけ術
谷底へと降り立った一行を迎えたのは、息を呑むほどの青い静寂だった。
両脇を切り立った雪の断崖に挟まれた谷間。
本来であれば、霊峰の豊かな雪解け水を集めて激しく飛沫を上げているはずの幅20メートルほどの渓流が、見渡す限り完全な沈黙に閉ざされていた。
水面は波打った形のまま一瞬で凍りついたかのように硬化し、太陽の光を受けてサファイアのように深い青色を放っている。
「すごいニャ……! 川が丸ごと、巨大な青いガラスの板になっちゃってるニャ!」
ニーナがそろそろと足を踏み出し、氷の表面を毛皮のブーツでトントンと叩いた。
コン、コン、と硬質な高い音が返ってくる。
滑って転ばないように、ティオが後ろからそっとニーナの襟首を掴んで支えた。
「気をつけて、ニーナ。滑ったらそのまま谷底の岩場まで一直線だぞ」
「わかってるニャ! でも見てティオ、氷の奥……ものすごく深くまで透き通って見えるニャ!」
シェリルも樫の木の杖を雪と氷の境目に突き立てて近づき、足元を覗き込んだ。
氷の厚さは50センチ以上はある。
だが、不純物が一切含まれていない極上の雪解け水が凍ったためか、まるで磨き抜かれた水晶レンズのように透明度が高かった。
バルツがそりを安全な岸辺の岩陰へと引き留め、弟子たちの足元をじっと観察しながら声を張り上げた。
「全員、その場で止まれ。氷の上を歩く前に、まずは『氷の厚みと空洞』を見極めるのが鉄則だ」
「氷の見極め……ですか?」
「そうだ。雪山で最も恐ろしいのは、氷の下の水位が下がってできる『空洞氷』だ。表面は硬そうに見えても、下を流れる水との間に空気の層ができると、人間の体重を支えきれずに一瞬で踏み抜く。だから、杖の先で氷を叩いた時の『反響音』を聞くんだ」
バルツが長靴で氷を力強く踏み込む。
ゴツン、と低く重い、岩を叩いたような鈍い音が返ってきた。
「音が低く濁らず、足裏に硬い芯が伝わってくるなら、氷の裏側に水が隙間なく満ちている証拠だ。高音でポコポコと反響するなら下に空洞がある。今の音なら厚さは50センチ以上、大人が跳ねてもビクともしねえ」
「音で氷の裏側の状態までわかるのね……!」
シェリルが感嘆し、杖の先を氷に当てて魔力波を微細に流し込んだ。
音だけでなく、マナの伝播速度からも氷の密度と厚さを計測する。
そして――耳を澄ますと、分厚い氷の底から、コポコポ、トントン……と、微かな水流の擦れ合う音が確かに響いていた。
「氷の下で、水が豊かに流れているわ……! 完全に底まで凍りついているわけではないのね」
「そうだ。表面がどれだけ凍りついても、水深のある渓流の底は水温四度前後に保たれる。水の密度が最も高くなる温度だからな。表面の分厚い氷が外気を遮断する蓋になって、川底の清流を守っているんだ。水温零度の外気から、生命を守るシェルターになっているわけだな」
バルツがそりから鉄製の細長いツルハシと、幅広の石工ノミを取り出した。
ティオが大剣を背負い直して尋ねる。
「バルツさん、ここで水汲みですか? それとも……」
「水汲みもそうだが、もっと美味いモンがこの氷の下に泳いでる。――『氷晶岩魚』だ。雪山の厳しい冬を越すために、全身に純粋なマナと極上の脂を蓄えた幻の魚だ。それを釣り上げるために、まずはこの氷に穴を開ける」
「穴あけですね! 俺の大剣で、ドカンと一発叩き割ればいいですか!?」
腕をぶんぶん回すティオに、バルツは即座にゲンコツをコツンと落とした。
「大馬鹿野郎。力任せに大剣で叩いてみろ。氷全体に蜘蛛の巣状の放射クラック(亀裂)が走って、俺たちの足場ごと川底へ真っ逆さまだ。水温零度の激流に落ちたら、心臓麻痺で十秒で死ぬぞ」
「ひえっ……! す、すみません!」
「氷には氷の割り方がある。――『アイスホール開け』の基本を教えてやる。雪山での氷上作業は、力学と結晶構造の戦いなんだ」
バルツが長靴の踵で、氷の表面に直径50センチほどの綺麗な円を描いた。
「まず、氷の張力を殺す。いきなり真ん中を叩くんじゃなく、円周に沿ってノミで浅い溝をぐるりと掘るんだ。溝を掘ることで、割れ目の進行方向を円周の内側だけに限定する。これが『誘導クラック』だ。建築や鉱山の採掘でも使われる古典的な技法だな」
「なるほど……! 割れ目が外の足場へ広がるのを、あらかじめ掘った溝で防ぐのね!」
シェリルが感心したように頷く。
バルツはノミをティオに手渡した。
「ティオ、溝に沿ってノミを垂直に立て、玄翁で均等に叩け。力はいらねえ。背筋を伸ばし、肩の力を抜いて、一定のリズムでトントンと叩いていけば、氷の結晶構造に沿って綺麗に亀裂が下へ伸びていく」
「はいッ!」
ティオはノミを握り、慎重に円周の溝へと刃を当てた。
トントントン……!
澄んだ打撃音が谷間に響き渡る。
第1章で甲殻類の殻割りや大角鹿の解体で培った「衝撃の一点浸透」の感覚。
大剣を振るうのと同じように、体幹の軸をブラさず、氷の結晶が嫌がる方向を見極めて叩いていく。
すると、厚さ50センチの青い氷の中を、白い亀裂のカーテンがスゥッと垂直に下へと伸びていった。
円筒形に切り抜かれた氷のブロック。
外側の足場には、一本のヒビも入っていない。
「見事だニャ! 氷のケーキみたいに、丸く切り込みが入ったニャ!」
「よし、最後の一撃だ。真ん中にツルハシを打ち込んで、テコの原理で氷の円柱を水中に押し込むんじゃなく、上へ引き抜くぞ。押し込んだら川の流れに氷が流されて、底を泳ぐ魚を蹴散らしちまうからな」
バルツが氷のブロックの中央にツルハシの切先をガツンと打ち込み、丈夫な麻ロープを巻きつけた。
ティオとニーナ、バルツの三人が呼吸を合わせる。
「せーのっ……引けッ!」
――ズボォッッッ!
心地よい水音と共に、五十キロを超える巨大な氷の円柱が、スポンと地上へと引き抜かれた。
その瞬間――開いた穴の底から、ゴボゴボと豊かな水飛沫が湧き上がってきた。
穴を満たしたのは、息を呑むほどに澄み切った清流だった。
氷点下の外気に触れた水面から、フワリと白い湯気のような靄が立ち上る。
川底の白い小石や、緑のバイカモ(梅花藻)が、まるで手の届く場所にあるかのように鮮明に見える。
そして――その清流の揺らめきの中に、キラリと光を反射する影があった。
「あ……っ!」
ニーナが思わず声を漏らした。
水深2メートルの川底を、優雅に尾びれを揺らしながら泳ぎ抜けていく魚影。
体長50センチはある見事な魚体。
だが、その身体は驚くべきことに、川底の砂利が向こう側に透けて見えるほど、水晶のように完全に透明だった。
背びれと尾びれの先端だけが、青白い燐光を放って淡く輝いている。
「本当に透き通ってるニャ……! ガラス細工のお魚が泳いでるみたいニャ!」
「《氷晶岩魚》だ」
バルツが静かに笑みを浮かべ、背負い袋から細いトネリコの釣り竿を取り出した。
「純粋な雪解け水と、地脈から湧き出る冷気マナだけを喰って育つ、白銀山脈の至宝だ。肉は淡白ながら極上の脂が乗り、骨からは黄金の出汁が出る。光を浴びると骨格まで透けて見えるのは、体内の老廃物が一切なく、全身が高純度のアミノ酸と冷気マナで満たされている証拠だ。……さあ、釣りの時間だ。さっき手に入れた青雀の羽毛で作った特製の毛針を垂らすぞ」
「はいっ! 氷の上の釣り、絶対に釣り上げましょう!」
凍結した青い渓流に開いた、小さな命の窓。
極寒の地底を泳ぐ神秘の魚との知恵比べが、いま静かに幕を開けようとしていた。
知恵と物理の勝利が生んだ丸い水面は、次の極上グルメへの扉となっていた。




