第054話:【実食】氷室雪兎と雪下人参の白ワイン煮込みポトフ
氷点下十度の白銀の森に、パチパチと心地よい薪の爆ぜる音が響いていた。
雪松の太い枝を風除けにして組まれた即席の竈。
ティオが雪を掘り下げて作った風防の中で、乾燥した白樺の樹皮が勢いよく炎を上げ、太い松の薪へと熱い熾火を移している。
その炎の上隙間に据え付けられたのは、一行の相棒である巨大な黒鉄の寸胴鍋だった。
「ティオ、火加減は強火のままでいい。まずは鍋肌で肉の表面を焼き固めるぞ」
バルツの指示に従い、ニーナが猪の純白ラードの塊を鍋底へ滑り込ませた。
ジューーーッ!
心地よい音と共に、澄み切ったラードが瞬時に溶け広がり、甘く香ばしい獣脂の香りが立ち上る。
そこへ、下ごしらえを終えた《氷室雪兎》の骨付きモモ肉とロース肉が投入された。
「うわあ……! 入れた瞬間から、お肉の表面がキュッと縮んで香ばしい焼き色がついていくニャ!」
ニーナが木べらで肉を転がす。
赤身に散りばめられた霜降りの脂がラードと混ざり合い、パチパチと食欲を刺激する音を奏でる。
表面全体がきつね色に焼き固められたところで、肉の旨味を閉じ込めるメイラード反応が完了した。
バルツが懐から取り出した白ワインの小瓶の栓を抜き、鍋肌へ一気に回し入れた。
――ジュワアアアッッッ!
立ち上る芳醇な白ブドウの蒸気!
アルコール分が一気に揮発し、酸味と果実味が鍋底にこびりついた肉の焦げ目を綺麗に溶かし込んでいく。
そこへ、シェリルが魔導杖をかざして採取した、清流のように澄んだ新雪の解け水をドバドバと注ぎ込んだ。
さらに、雪兎の胃袋から採取した天然の乾燥ハーブ、粗塩、粒胡椒、そして――大きく乱切りにされた鮮やかなオレンジ色の『雪下人参』が惜しげもなく投入される。
「雪下人参は、皮ごと大きめに切るのがコツだ。冬の雪の重みと冷たさに耐えた人参は、細胞の中に糖分を限界まで蓄えている。皮のすぐ下にあるペクチンが、スープにとろみと甘みを与えてくれるんだ」
バルツが重い木蓋を鍋の上に載せた。
蓋の隙間から、シュンシュンと真っ白な湯気が勢いよく噴き出し始める。
あとは、松の熾火の遠火でじっくりと煮込むだけだ。
待つこと約三十分。
鍋の周囲半径10メートルが、筆舌に尽くしがたい濃厚で甘美な香りに包まれた。
野性味あふれる兎肉の力強い獣出汁、白ワインの爽やかな酸味、雪下人参の蜜のような甘さ、そしてハーブの清涼感が一体となった、極上のアロマ。
「お、おっちゃん……もう我慢の限界だニャ……! お腹がグーグー鳴って、尻尾が爆発しそうニャ!」
「ふふ、ニーナの耳が完全に下を向いてお鍋に吸い寄せられているわね。でも……本当に信じられないくらい良い香り。雪山の冷気で研ぎ澄まされた鼻に、直撃してくるわ」
ティオもゴクリと喉を鳴らし、木製の深皿とスプーンを両手に握りしめて待機している。
バルツが無精髭を撫でながら、ニヤリと笑った。
「よし、煮込み完了だ。――蓋を開けるぞ」
パカッ、と木蓋が外された瞬間。
モワアアアッ……!
爆発的な湯気と共に、黄金色に輝くスープが姿を現した!
「「「うわああああっっっっ!!!!」」」
三人の歓声が白銀の森に木霊した。
寸胴鍋の中でコトコトと揺れていたのは、黄金の宝石箱だった。
透き通るような琥珀色のスープの表面には、雪兎の上質な脂がキラキラと真珠のように浮かんでいる。
骨付きのモモ肉は、骨から自然と身が外れそうなほど柔らかく煮崩れ、雪下人参は角が取れてトロトロに透き通っていた。
バルツが大きなお玉で、たっぷりの肉と人参、そして黄金のスープをすくい、弟子たちの木皿へと注ぎ分ける。
「冷めないうちに食え。雪山じゃ、温かさそのものが命の糧だ」
「「「いただきますっっっ!!!!」」」
待ちきれない様子で、ニーナが木のスプーンでスープをすくい、フウフウと小さく息を吹きかけてから口へと運んだ。
その瞬間――フェネックの少女の瞳が、限界まで見開かれた。
「っっっっっっっ!?!?!?」
言葉が出ない。
ニーナの三角耳がピンと直立し、黄金色の尻尾が毛を逆立ててブワッと膨らんだ。
次の瞬間、とろけるような至福の笑みがその小さな顔いっぱいに広がった。
「な、なんニャこれええええっっっ!? スープが……スープが身体の中に流れ込んだ瞬間、細胞がパチパチ弾けて生き返るみたいニャーーッ!!」
「私も……いただきますっ!」
シェリルが上品にスープを啜る。
だが、その一口で、エルフの令嬢の頬がポッとお手玉のように赤く染まった。
「んんっ……! 深い……! ただの肉スープじゃないわ! 雪兎の骨髄から溶け出した濃厚なコラーゲンが、舌の上でとろりと膜を張って……! 後から白ワインのフルーティーな酸味とハーブの香りが追いかけてきて、濃厚なのにちっとも脂っこくない! 胃袋に届いた瞬間、ポカポカとした熱の波が手足の指先まで一気に突き抜けていく……!」
「お、俺も肉を行きます! モモ肉、いただきます!」
ティオが骨付きの大きなモモ肉にスプーンを差し入れた。
何の抵抗もなく、スッ……と肉の繊維がほぐれた。
スプーンですくい上げた肉の塊を、豪快に口の中へ放り込む。
「ふあ……っ! あっつ、うまッ! なんだこれ、柔らかいッ!!」
ティオが両手で頬を押さえて唸る。
「噛む必要がないくらいホロホロなのに、肉の繊維一本一本に肉汁がパンパンに詰まってる! 噛み締めるたびに、上品な野性の旨味がジュワジュワ溢れ出して止まらない! それに、この人参……人参ってこんなに甘かったっけ!? 砂糖漬けの果物を食べてるみたいだ!」
「雪下人参は、零度の雪の中でデンプンをブドウ糖に変えて凍結を防ぐ。だから加熱すると、蜜のように甘くなるんだ」
バルツも自分の木皿を持ち、スープをグビリと啜った。
喉を通る熱い滋味が、長年の狩りで冷え切った老兵の身体を優しく包み込む。
「ふう……。悪くねえ。雪兎の脂は融点が低いから、人間の体温でスッと溶けて胃もたれしねえんだ。骨から出たリン酸とカルシウムが、疲労物質を洗い流してくれる。ティオ、シェリル、ニーナ、スープは一滴も残すなよ。骨の髄まで吸い尽くせ」
「「「はいっっっ!!!!」」」
三人は夢中になってスプーンを動かした。
肉を頬張り、人参をとろけさせ、熱々の黄金スープを喉を鳴らして飲み干す。
さっきまで寒さで青白くなっていた弟子たちの頬は、リンゴのように真っ赤に上気し、額にはうっすらと心地よい汗が滲んでいた。
雪山の零下十度の世界で、熱々の極上ポトフを仲間と共に啜る。
これ以上の贅沢が、この世にあるだろうか。
「生き返るニャ……。おっちゃん、ウチ、雪山に来て本当によかったニャ……!」
「ええ……冷え性だった私の身体が、まるで暖炉の前にいるみたいにポカポカしているわ」
「力、めちゃくちゃ湧いてきました! このポトフがあれば、霊峰の頂上までだって走って行けそうです!」
満面の笑みを浮かべる弟子たち。
だが――その団欒の輪の中で、バルツはふと木皿を置き、無言で立ち上がった。
老狩人の右手は、無意識のうちに自らの腰――古い傷跡が刻まれた背中の皮膚へと伸びていた。
「…………」
傷跡の奥が、ズキリと疼いている。
ただの冷えではない。
気圧の急激な低下、そして大気の底から這い上がってくる、湿った冷たい風の胎動。
バルツが顔を上げ、遥か北嶺の山頂を仰ぎ見る。
先ほどまで青く澄み渡っていた霊峰の稜線が、見る見るうちに鉛色の分厚い暗雲へと飲み込まれつつあった。
風の音が、木々の梢を揺らす乾いたささやきから、重い唸り声へと変わり始めている。
「……美味い飯で腹を満たしたのは正解だったな」
バルツの低く引き締まった声に、ティオたちがピクリと顔を上げた。
「おっちゃん……? どうしたニャ?」
「呑気に食後の昼寝をしてる時間はねえぞ。……来るぞ。白銀山脈名物――視界ゼロの『ホワイトアウト(猛吹雪)』だ」
至福の食事の直後、白銀の霊峰がその真の牙を剥こうとしていた。
極寒のサバイバルは、自然の猛威との知恵比べのステージへと突入する!




