第053話:雪兎の完全剥ぎ! 純白防寒毛皮と、筋肉の血合い抜き
「よっと……! 抜けましたニャ!」
ニーナが雪だまりに両手を突っ込み、バタつく《氷室雪兎》の太い後ろ足をガッチリと掴んで引き抜いた。
純白の綿毛に包まれた巨体は、体長1メートル、丸々と太って重量は近くある。
雪兎は真っ赤な瞳を怒りに燃え上がらせ、頭部の氷角からチリチリと冷気マナを放出して暴れようとした。
だが、ニーナの手首の返しは電光石火だった。
「暴れちゃダメだニャ! 苦しむと肉に乳酸が回って酸っぱくなっちゃうニャ!」
ニーナは雪兎の耳を左手で優しく束ねて前頭部を固定すると、右手のリバースグリップで構えた細身の解体小刀を、後頭部と第一頸椎のわずかな隙間――延髄の窪みへとスッと滑り込ませた。
手応えは、熟した果実に針を通すほどに滑らか。
刃先が中枢神経を瞬時に遮断した瞬間、雪兎の全身の強張りがフッと解け、角から漏れていた青い冷気が霧散した。
一切の苦痛を与えない、完璧な「脳締め(即殺)」である。
「よし、締めは満点だ。頸動脈を浅く切って、逆さ吊りで血を抜け。ただし、雪山での放血には一つだけ絶対に守らなきゃならねえ鉄則がある」
バルツがそりから吊り下げ用のロープを取り出しながら、鋭い眼光で弟子たちを見回した。
ティオとシェリルが真剣な表情で耳を傾ける。
「鉄則……ですか、おっちゃん?」
「そうだ。平地の森なら木に吊るして重力で血を落とせばいい。だがここは氷点下十度の極寒世界だ。噴き出した血が空気に触れた瞬間、シャーベット状に凍りついて血管の出口を塞いじまう。そうなると体内の毛細血管にドス黒い鬱血が残り、肉が生臭くなって台無しになるんだ」
「ひえっ……! 寒さで血が凍って詰まっちゃうのね……!」
シェリルが青ざめたように頬に手を当てる。
バルツは頷き、雪松の枝をナイフで削って二股の小さな木のフックを作った。
「だから、雪山では『雪中温血抜き』を行う。頸動脈を切ったら、即座に清潔な新雪の中に頭部だけを突っ込むんだ。新雪に含まれる無数の気泡が断熱材の役割を果たし、外気による急速凍結を防ぎながら、雪が毛細管現象で温かい血液をグングン吸い上げてくれる」
「雪が血を吸い上げる……!? 天然のスポンジみたいですね!」
「おう。ティオ、頭を下にして雪に挿せ。一分で完全に血が抜け切る」
ティオが指示通り、首筋を切開した雪兎の頭部を柔らかな雪だまりへと軽く差し込んだ。
すると、純白の雪がみるみるうちに赤く染まり、体内の動脈血がスムーズに体外へと排出されていく。
雪の断熱効果によって血液の凍結が防がれ、わずか六十秒ほどで雪兎の全身から余分な血が完全に抜け切った。
肉の色がほんのりとした美しい桜色へと落ち着いていく。
「さあ、ここからが本番だ。極寒地帯特有の解体技法――『フリーズ剥ぎ(凍結剥ぎ)』を伝授する」
バルツが腰のホルダーから、先端が丸みを帯びたスキニングナイフ(皮剥ぎ刀)を抜いた。
「雪兎の毛皮は、王都の貴族が金貨五十枚を積んでも欲しがる最高級の防寒素材だ。なぜなら、一本一本の毛の内部がストローのように中空構造になっていて、空気を閉じ込めるからだ。だが、皮下脂肪が毛皮に残ると、人間の体温で脂が溶けて悪臭を放ち、保温性能が激減する。平地ならナイフで脂を丁寧にこそぎ落とすが……雪山では、この『寒さ』そのものを刃物として使う」
「寒さを刃物に……?」
「ニーナ、後ろ足の踵の関節にY字の切れ目を入れろ。そこから皮と皮下脂肪の境目に向かって、雪を一つかみ擦り込むんだ」
ニーナが頷き、解体小刀の切先で踵の筋膜を慎重に切り開いた。
そして、手袋ですくい取った冷たい新雪を、皮と肉の隙間へとサッと滑り込ませる。
その瞬間だった。
体温でわずかに緩んでいた皮下脂肪が、氷点下の雪に触れたことでキュッと硬直した。
白く半透明だった脂の層が、パラパラとしたロウソクの蝋のように固まり、皮の繊維と筋肉の筋膜から自然と剥離し始めたのだ!
「あ……っ! 脂がカチカチに固まって、皮と肉の間に綺麗な隙間ができたニャ!」
「そこだ! 指先を滑り込ませて、一気に下へ引け! ナイフを使うな、手のひらの母指球で押し剥がすんだ!」
ニーナは両手の親指を皮の裏側へと滑り込ませた。
凍りついた皮下脂肪がシャリシャリと音を立てて砕け、驚くほど抵抗なく、純白の毛皮が裏返しになってペロリと剥がれていく。
セーターを頭から脱がせるように、尾の付け根から背中、前足、そして首元へと、一切の刃こぼれも傷もなく、一枚の完璧な筒状の毛皮がスルリと脱ぎ捨てられた。
「す、すごい……! 刃物で削るよりも遥かに綺麗に、真っ白な毛皮が一枚丸ごと剥がれました!」
「毛の裏側に、脂の汚れが一つもついていませんわ! フリーズ剥ぎ……寒さを利用して脂を凝固させることで、皮の繊維を一切傷つけずに分離させたのね!」
ティオとシェリルが感嘆の声を上げる。
手に入ったのは、傷一つない純白の毛皮。
指を埋めると、まるで温かい雲に触れているかのような極上の肌触りと、驚異的な弾力があった。
バルツは毛皮をパンパンと払って雪を落とし、手早く丸めて革紐で縛った。
「この毛皮を乾かして裏地に羊毛油を薄く塗れば、零下の吹雪でも絶対に凍えない極上の一着ができる。ギルドに持ち帰れば、防寒コート三着分の裏地になるな。……だが、俺たちの腹を満たすのは、この中身の方だ」
毛皮を脱いだ雪兎の肉体が露わになった。
平地の兎とは明らかに異なる、驚くべき肉質だった。
赤身の筋肉全体に、まるで霜降りの高級牛肉のように細やかな白いサシが網目状に入っている。
雪山を跳躍するために鍛え上げられた強靭な大腿二頭筋と、背骨に沿って走る分厚いロース肉。
「うわあ……綺麗なピンク色の肉ニャ! 脂がキラキラ光ってるニャ!」
「ティオ、シェリル、仕上げだ。内臓を傷つけずに腹膜を開くぞ。雪兎の主食は雪下の香草苔だ。胃袋の中に詰まっている未消化のハーブは、雪山サバイバルにおける貴重な香辛料になる」
バルツの指示の下、弟子たちが手際よく動く。
ティオが大腿骨の関節を外して四肢を切り分け、シェリルが慎重に腹膜へ逆刃を入れて胃袋と腸を無傷で摘出する。
胃袋を切り開くと、悪臭どころか、清涼感のあるミントと針葉樹を思わせる爽やかな芳香がふわりと立ち上った。
「本当にハーブの香りがする……! 魔物が自分で香草を食べて、体内でお肉の臭みを消してくれていたのね」
「そうだ。背骨の内側にある『血合い(腎臓周りの鬱血)』をスプーンの背で綺麗に掻き出せ。ここを残すとスープが濁る。雪水でさっと洗って、筋膜にフォークで細かく穴を開ければ……下ごしらえは完璧だ」
ニーナが銀のスプーンで背骨の血合いをチュルンと掻き出し、ティオが筋膜を整える。
そりの上には、黄金色に輝く骨付きのモモ肉、霜降りのロース肉、そして胃袋から採取された天然の乾燥ハーブが並んだ。
さらに、村を出る前に仕込んでおいた食材――雪の下で糖度を極限まで高めた『雪下人参』と、バルツが懐から取り出した料理用の白ワインの小瓶が鎮座する。
「おっちゃん、これ……煮込むのかニャ!?」
「ああ。極寒の雪山で、冷え切った身体の芯まで温める最高の料理だ。――『氷室雪兎と雪下人参の白ワイン煮込みポトフ』を作るぞ。火熾しだ、ティオ!」
「はいッ! すぐに最高の熾火を作ります!」
白銀の森に、若き狩人たちの弾むような声が響き渡る。
極寒のサバイバルは、いつの間にか最高の雪山クッキング劇へと変貌を遂げていた。




