第052話:雪兎の雪中跳躍と、大剣をスノーシューにするティオ
――ヒュンッッッ!
空気を切り裂く冷たい金属音が、雪松の森に鋭く反響した。
雪煙を突き破って飛び出した《氷室雪兎》の氷角が、ティオの鼻先わずか数ミリをかすめる。
氷柱のように尖った二本の角からは、濃密な冷気マナが吹き出し、かすった空気がチリチリと白く凍りついていくのが見えた。
「うおっ……!?」
ティオは間一髪で首を捻って躱したが、踏み込んだ右足がズボリとパウダースノーの深雪に捕らわれた。
膝の深さまで雪に埋もれ、体重移動が完全に封じられる。
雪山という特殊な地形において、人間の二本の足はあまりにも接地面積が狭すぎるのだ。体重六十キロの重力が足裏の狭い面積に集中し、雪の層を突き破って底なしの沼のように沈み込んでしまう。
一方、着地した《氷室雪兎》は違った。
ふわふわとした新雪の表面に、扇状に広がった太い後ろ足がふわりと触れる。
雪の結晶をわずかに押し固めるだけで、まるで舗装された石畳を蹴るかのように、音もなく軽やかに雪面をバウンドした。
沈み込みはゼロ。
足裏に密生した硬質な毛の層が、空気を抱え込んで見事な浮力を生み出しているのだ。
「キキッ! キシャーッ!」
雪兎は嘲笑うかのように喉を鳴らすと、雪の表面をツーツーと滑るような異次元の機動でティオの死角へと回り込んだ。
時速の雪上跳躍。
右へ跳んだかと思えば、雪の壁を蹴って左上空へ。
純白の毛並みが銀世界と同化し、残像しか捉えられない。
「速いニャ! 雪の上を走ってるんじゃなくて、雪の上を滑空してるニャ!」
「ティオ、足元を狙われてるわ! 雪から足を抜いて!」
ニーナが小刀を構えて牽制しようとするが、踏み込むたびに雪に足を取られてスピードに乗れない。
シェリルが樫の木の杖を向け、風の魔力を練り上げようとするが、雪兎の動きが変幻自在すぎて照準が定まらない。
迂闊に攻撃魔法を撃てば、周囲の吹きだまりを崩して小規模な雪崩を誘発してしまう危険があった。
「くそっ……抜けねえ! 足に雪がまとわりついて、踏ん張りが利かない!」
ティオが必死に足を雪から引き抜こうと力を込めるが、もがけばもがくほど雪が崩れて深みへと沈んでいく。
そこへ、背後へ回り込んだ雪兎が、鋼鉄の爪を剥き出しにしてティオの無防備な背中へ向けて跳躍した。
鋭利な三本爪が、ティオの毛皮ベストを切り裂かんと迫る――!
「慌てるな、ティオ!」
その瞬間、後方からバルツの低く落ち着いた胴間声が轟いた。
無精髭を撫でることもなく、パイプを咥えたままの老狩人が、雪の上を静かに歩み寄りながら的確な指示を飛ばす。
「足で雪を踏もうとするから沈むんだ。人間と兎じゃ、足裏の面積比が違いすぎる。だがお前には、人間が持ち得ない最大の武器があるはずだろ!」
「武器……? 俺の、大剣……!?」
「そうだ! 大剣を立てるな、寝かせろ! 刃の平を雪の上に滑らせて、体重を剣の腹に預けろ! スノーシュー……いや、雪山を滑る『そり』と同じ原理だ!」
バルツの言葉が、電流のようにティオの脳腑を駆け巡った。
第1章で学んだことのすべて。
大剣はただの鈍器ではない。重心を操作するためのカウンターウェイトであり、自分の身体を拡張するための支点なのだ。
ティオは雪から足を抜くのをやめた。
右手で握りしめた超重量の黒鉄の大剣を、躊躇なく横倒しにし、身の丈ほどもある幅広の刀身の腹(平)を、目の前の新雪の表面へとベタッと押し当てた!
――ズザーーーッ!
幅20センチ、長さ1メートル50センチの巨大な鋼鉄の板。
それが雪面に触れた瞬間、奇跡のような現象が起きた。
ティオの体重が、大剣の広い表面積全体へと瞬時に分散されたのだ。
一点にかかる圧力が劇的に低下し、大剣は雪に沈み込むことなく、まるで新雪の上に浮くサーフボードのように安定した。
ティオは埋もれていた左足を抜き、大剣の平の上にポンと草鞋底の狩猟靴を乗せた。
「う、浮いた……!? 大剣の上に立つと、雪にまったく沈まない!」
「そうだ! 大剣の重み自体が雪をわずかに押し固めて、硬い滑走面を作ってくれる! 足首の力を抜け、膝のクッションを使って大剣の傾きを制御しろ! 雪山を滑走する『雪板』の要領だ!」
ティオは幼い頃、北の傾斜で木板に乗って雪滑りをして遊んだ記憶を瞬時に呼び覚ました。
母指球で大剣の鍔元を踏み込み、左足で刀身の腹を押さえる。
重心を低く落とし、体幹を僅かに前傾させる。
するとどうだろう。
大剣は、パウダースノーの上を滑るようにスルスルと前進を始めたのだ!
「す、すごいニャ! ティオが大剣に乗って雪の上を滑ってるニャ!」
「物理法則の応用ね……! 接地面積を10倍以上に広げたことで、雪の降伏応力を下回らせて浮力を得ているんだわ!」
ニーナとシェリルが息を呑む。
背後から飛びかかってきた《氷室雪兎》は、獲物が突然雪の上を猛スピードで滑走し始めたことに目を白黒させた。
虚空を空振りした雪兎が雪面に着地し、憤慨したように氷角を逆立てる。
「キシャアアッ!」
雪兎が再び時速の跳躍に入った。
雪煙を上げながら、鋭角的なジグザグ軌道でティオを追い詰めてくる。
獲物を仕留めるために、雪兎が狙うのは常に相手の頸動脈。
直線的な突進。
だが、大剣の上で完全にバランスを取り戻したティオの動体視力は、雪兎の筋肉の収縮を完全に捉えていた。
「見える……! おっちゃんの言った通りだ! 跳ぶ直前、雪兎の右の後ろ足の腱がギュッと収縮する!」
雪兎が次に跳ぶ方向。
それは、左斜め前方――雪松の幹を反射板にして、上空からティオの脳天を砕く角度だ。
ティオは大剣の滑走方向を、腰のひねりだけでキュッと変えた。
雪煙を豪快に巻き上げながら、大剣が雪面をエッジのように削る。
「バルツさん! 獲物の軌道、完全に読みました!」
「よし、仕留めるなよ! 肉と毛皮を傷つけたら減点だ! 雪の壁を作って、自爆させろ!」
「了解ッ!」
ティオは雪兎が跳躍した瞬間、足元の大剣を両手で力強く引き抜いた。
そして、滑走の勢いをそのまま乗せて、雪兎の着地予定地点――雪松の根元にある巨大な雪だまりの前へ、大剣の平をシャベルのようにして一気に雪面へ突き刺した!
――ドバシャアアアアッッッ!!!!
ティオの豪腕と、大剣の幅広の刀身が跳ね上げたのは、数十キロにも及ぶ巨大な雪の波だった。
まるで純白の津波のように立ち塞がった雪の壁!
時速で空中を突進してきた《氷室雪兎》の視界が、突如として出現した巨大な雪の壁で塞がれる。
空中で方向転換などできるはずもない。
「キッ……!? キギャアアアッ!?」
――ボフゥッッッッ!!
間抜けな衝突音が森に響き渡った。
雪兎は、ティオが跳ね上げたフカフカの雪壁に、頭から勢いよくズボリと突っ込んだのだ。
時速の運動エネルギーが、柔らかなパウダースノーによって完全に吸収される。
雪だまりから突き出ているのは、モコモコとした白いお尻と、ピクピクと痙攣するようにバタつく短い尻尾、そして必死に空を掻く太い後ろ足だけだった。
「み、見事だニャーッ! 雪兎が雪山に突き刺さってるニャ!」
「刃先で傷を一切つけずに、相手の突進力を利用して生け捕りにしたわ!」
ニーナとシェリルが歓声を上げながら駆け寄る。
ティオは大剣を肩に担ぎ、白い息を弾ませながら満足そうに笑った。
雪だまりに逆さに突き刺さった雪兎は、いくら足をバタつかせても雪が崩れるばかりで、自力では一向に抜け出せない。
「ふう……! 大剣って、雪山じゃスノーシューにもなるし、雪の盾にもなるんですね!」
「おう。道具ってのは使いようだ。力任せに振り回すだけが戦士の能じゃねえ。雪の性質を理解し、自分の体重と獲物の運動量をコントロールする。これが雪山狩猟の真髄だ」
バルツがパイプの紫煙をくゆらせ、満足げに頷いた。
だが、老狩人の表情はすぐに引き締まった職人のそれへと戻る。
「感心してる暇はねえぞ。雪兎の体温は高い。雪の中に長く埋めておくと、自前の体温で周囲の雪を溶かして毛皮が濡れちまう。毛皮が濡れりゃ、この極寒の中じゃ一瞬で凍りついてバリバリになり、防寒具としての価値が半減するんだ。ニーナ、急所締めと血抜きだ! 極上の『フリーズ剥ぎ』を教えてやる!」
「はいニャ! 解体小刀、スタンバイ完了ニャ!」
雪だまりから引き抜かれる獲物を前に、若き狩人たちの瞳が、獲物を極上の素材へと昇華させる職人の輝きを帯びていた。
白銀の霊峰で繰り広げられる、初めての雪山解体講義が幕を開ける!




