第051話:雪の吹きだまりと、《氷室雪兎》の足跡追跡
標高1500メートル。
岩陰での温かい昼食休憩を終えて再び登攀を開始した一行を迎えたのは、目に見えて厳しさを増した極寒の空気だった。
気温はすでに氷点下十度を大きく下回っている。
吐き出す息は瞬時に白い霧となって凍りつき、まつ毛の先には小さな霜の結晶が宿っていた。
標高の上昇に伴い気圧が低下し、空気の密度が薄くなっていく。
バルツは歩みを止めずに、弟子たちへ振り返って短く指示を出した。
「唾を飲み込んで耳抜きをしろ。肺の奥まで冷気を一気に吸い込むなよ。鼻毛と鼻腔の粘膜で冷気を温めながら、腹式呼吸で細く長く吸うんだ。冷たい空気を直に気管支へ入れると、肺胞が痙攣して呼吸困難を引き起こす」
ティオたちは言われた通り、鼻から静かに息を吸い込み、喉を鳴らして耳抜きを行った。
周囲の植生も一変していた。
先ほどまでの白樺の明るい林は姿を消し、樹高数10メートルにも及ぶ巨木――雪をびっしりと冠した青黒い雪松の原生林が、重苦しい静寂を湛えて立ち並んでいた。
松脂のツンとした清涼なアロマが冷気の中に漂い、梢の間から差し込む陽光は青白く遮られている。
足元には、風によって運ばれたパウダースノーが巨大な吹きだまりを作り、場所によっては大人の腰の深さまで雪が積もっていた。
「う……っ、雪が深くなってきたニャ……!」
ニーナが防雪ゴーグルの位置を直し、足を雪から引き抜くようにして進む。
体重の軽いニーナでさえ、油断すると太ももまでズボリと雪に埋もれてしまう。
だが、ティオが引くトネリコ材のそりは、幅広のスキー構造のおかげで雪に沈み込むことなく、しっかりと雪面の上に浮いていた。
「ティオ、大剣の切先を少し右へ向けろ。雪の表面が風で波打ってるだろ? あれは『シュカブラ(風成雪紋)』だ。波の硬い尾根を選んで進めば、踏み抜かずに体力を温存できる」
「はいッ! 風の作った硬い雪を踏むんですね!」
バルツの指示に従い、ティオは大剣の重みでバランスを取りながら、雪の硬い層をリズミカルに踏み分けていく。
かつての泥濘の原生林で培った「足裏の接地圧コントロール」が、この雪山でも完璧に生きていた。
その時だった。
先行していたニーナが、ピタリと足を止めた。
琥珀色のゴーグルの奥で、フェネックの大きな耳がピクピクと前後に独立して動き、鼻をクンクンと細かく鳴らしている。
「……んニャ? おじちゃん、これ見てほしいニャ!」
ニーナが雪松の根元の吹きだまりを指差した。
駆け寄ったティオとシェリルが覗き込むと、そこには、新雪の上に点々と刻まれた不思議な模様があった。
小さな前足の跡が二つ並び、その前方外側に、長細い大きな後ろ足の跡が二つ。
ちょうど扇のような形を描いた、リズミカルな足跡の連なり。
「これ……兎の足跡かしら? でも、以前狩った《跳ね棘兎》の足跡より、二回りも大きいわ」
シェリルが樫の木の杖を雪に突き立て、小首を傾げた。
バルツが長靴を鳴らして近づき、足跡の前にしゃがみ込んだ。
鹿革手袋を外し、素手の指先で足跡の縁の雪をそっと触れる。
「三人とも、よく見ろ。雪山での足跡追跡の基本だ」
バルツの指先が、足跡の窪みに残る微細な雪の粒を撫でた。
「足跡の縁の雪が、まだ崩れてねえだろ? 結晶の角が立っている。風で雪が埋まっていないってことは、この獲物がここを通り抜けたのは……せいぜい十分前だ。しかも、足跡の深さを見ろ。後ろ足の沈み込みが浅い。普通の兎ならズボズボ埋まるはずの深雪の上を、体重を分散させてカンジキのように跳ねてやがる。跳躍の歩幅は約3メートル。かなり筋肉が引き締まった良質な成体だ」
「カンジキみたいに……?」
ティオが目を凝らす。
足跡の底には、密集した剛毛の痕跡がくっきりと残されていた。
「《氷室雪兎》だ」
バルツの唇から、目当てのモンスターの名が告げられた。
「浅瀬にいた棘兎の親戚だが、危険度も食材としての価値も桁違いだ。極寒の白銀山脈に適応するために、足の裏に分厚い剛毛のクッションを発達させていて、雪の上を時速で疾走する。解剖学的に言えば、足裏の血管に『奇網』と呼ばれる熱交換システムを持っていて、動脈の温かい血が静脈の冷たい血を温め直すことで、冷たい雪に触れても体温が奪われねえ構造になってるんだ。それだけじゃねえ。雪の下に眠る高濃度の魔力苔や薬草の根を喰って冬を越すから、全身に純白の極上綿毛を二重構造で纏い、筋肉には上質なサシが入り、骨からは黄金色の濃厚な滋養出汁が出る」
「黄金色の滋養出汁……!」
ニーナの喉がゴクリと鳴った。
シェリルも「雪山の厳しい寒さを乗り越えるために、身体の中に栄養を凝縮させているのね……」と感嘆の声を漏らす。
「だがな、こいつは警戒心が異常に強い。雪の白さと完全に同化する擬態能力を持っていて、雪の中に穴を掘って潜り込み、天敵が近づくと雪の中から弾丸のように飛び出して奇襲をかけてくる。……ティオ、大剣の切先を下げろ。シェリル、周囲の冷気マナの流れを読め。ニーナ、風下の匂いを嗅ぎ分けろ」
「「「はいッ!」」」
三人は即座に臨戦態勢へと移行した。
足跡は、雪松の巨木の根元にある、ひときわ大きな雪の吹きだまりへと続いていた。
深さにして1メートル以上。
表面には風紋が走り、一見するとただの綺麗な雪の山にしか見えない。
だが――ニーナの鋭敏な鼻腔が、冷たい風の中に混ざる、かすかな「甘い獣の体臭」を捉えていた。
「……いるニャ」
ニーナが声を極限まで潜め、二本の解体小刀を逆手に構えた。
「雪の山の中……深さ30センチのところに、温かい命の気配があるニャ……!」
「ティオ、雪を叩くなよ。雪兎が飛び出す瞬間を狙うんだ」
「了解……!」
ティオが大剣を構え、母指球に重心を沈めて一歩、また一歩と間合いを詰める。
心臓が静かに拍動する。
かつてのように恐怖で足が竦むことはない。
獲物の生態を知り、骨格を理解しているからこそ、落ち着いて相手の初動を見極めることができた。
距離、残り5メートル、3メートル、2メートル――。
雪山の静寂が、張り詰めた弓の弦のように限界まで引き絞られた、その瞬間だった。
――ボフゥッッッッ!!!!
目の前の純白の雪だまりが、まるで爆薬でも仕掛けられていたかのように派手に破裂した。
舞い上がる猛烈な雪煙。
視界が真っ白に染まる中、雪の底から虚空へと飛び出したのは――体長1メートルを超える、巨大な純白の獣だった!
「キシャアアアアッッッ!!」
耳を劈く鋭い威嚇声。
全身を雪よりも白い極厚の綿毛皮で覆い、頭部からは氷の結晶のように透明な二本の硬質な角が生えている。
その角の先端には青白い冷気マナが渦巻き、周囲の空気をチリチリと凍結させていた。
そして何より――その太い後ろ足の先端には、鋼鉄のナイフのように硬化した鋭利な三本爪。
《氷室雪兎》。
雪山サバイバルの第一の関門が、時速の弾丸となって、ティオの喉元へと一直線に襲いかかってきたのだ!
宙を舞う鋭利な氷角が、冬の薄い陽光を浴びて冷酷な青い輝きを放つ。
深雪に足を取られれば一瞬で喉笛を掻っ切られる、極限の白銀の狩猟場。
だが、ティオの瞳に動揺は微塵もなかった。
かつて泥濘で学んだ重心の制御と、おっちゃんから教わった骨格の知識が、若き狩人の全身に静かな集中をもたらしていた。
白銀の森に、電光石火の狩りの火蓋が切って落とされた。深雪の戦場が、若き狩人たちの真価を試す最高の舞台となる!




