第048話:胃袋から転がり出た「黒い結晶」と、雪山からの凶報
深夜の砦ギルド。
祝勝会の熱気が冷め、冒険者たちが宿や酒場へと引き上げた後も、地下の石造りの大型解体場には、煌々と魔導ランプの明かりが灯っていた。
石造りの床には清潔な水が絶え間なく流され、血の匂いや腐敗臭は微塵もない。
そこに残っていたのは、バルツ、ティオ、シェリル、ニーナの四人だった。
「肉も皮もラードも全部換金できたのに、おっちゃん、まだ解体するのか?」
ティオが解体用のゴム手袋を嵌め直しながら尋ねた。
金貨八十枚を手にし、Cランクへの飛び級昇格を果たした。普通なら豪勢な酒盛りでもして泥酔して眠りこけるところだ。
だが、バルツは使い古された革エプロンを締め直すと、解体台の上に鎮座する巨亀の巨大な内臓の塊を前にして、静かに首を横に振った。
「言ったはずだぞ。獲物の命をいただくってのは、金になる美味い部位だけを食って終わりじゃねえ。内臓を分け、胃袋の内容物を確かめ、この亀が何を喰って生きてきたかを見届けるまでが、狩人の責任だ」
「胃袋の内容物……ですか?」
シェリルが樫の木の杖を脇に置き、興味深そうに身を乗り出した。
「そうだ。胃の中の未消化物を調べりゃ、その魔物が普段どんな縄張りで暮らし、何を喰い、森の生態系にどんな異変が起きているかが手にとるように分かる。……特に、この断頭亀のように数百年を生きた底なし沼の主の胃袋は、魔境の深部の歴史書みたいなもんだからな」
バルツは細身の【臓器開き小刀】を右手に構えた。
厚さ数センチもある強靭な筋肉で覆われた巨大な胃袋。
胃酸で刃が痛まないよう、バルツは慎重に胃壁の結節に刃を当て、スッと縦一文字に切れ込みを入れた。
中から現れたのは、水生植物の繊維や、底なし沼に自生する光ゴケの残渣だった。
だが――その緑色の残渣の奥深くから。
カラン……。
解体場の冷たい石床に、硬質な金属のような、あるいは鉱石のような乾いた音が響き渡った。
胃袋の底から、泥炭に塗れた一つの塊が転がり出たのだ。
「ニャ……? これ、なにニャ……?」
ニーナがピンセットを手に取り、その物体をそっと摘み上げた。
清流水で洗い流すと、その正体が朝露のようなランプの光の下に露わになった。
それは――大人の拳ほどの大きさを持つ、禍々しい漆黒の結晶体だった。
「ひっ……!」
シェリルが思わず息を呑み、後ずさりした。
エルフの鋭敏な魔力知覚が、その結晶から放たれる異様な波動に触れた瞬間、全身の鳥肌が逆立ったのだ。
それは、大自然の精霊が放つ温かい魔力とは根本的に異質なものだった。
冷たく、重く、周囲の光と熱を貪欲に吸い込み、生命の循環を拒絶するかのような、底知れぬ「侵食の波動」。
「先生……この石、魔石じゃありません……! まるで、呪われた竜の怨念が凝縮されたかのような、恐ろしい魔力が渦巻いています……!」
「……ああ。間違いないな」
バルツの表情から、いつもの呑気な締まりのない笑みが完全に消え去っていた。
バルツは厚手の鹿革手袋をはめた手で、その黒い結晶を静かに受け取った。
その瞬間――。
ズキリッ……!
バルツの上着の下、背骨の左脇を走る三本の古傷が、まるで熱した焼きゴテを押し当てられたかのように、赤黒く光を放って激しく疼いた。
20年前、神話竜に刻まれた傷跡。
その古傷が、手のひらの黒い結晶と、不吉な不協和音を奏でて共鳴していた。
「神話竜の『侵食鉱石』だ」
バルツの低く重い声が、解体場に落ちた。
「20年前、魔境最深部『世界樹の心臓』で暴走した神話竜から飛び散った、汚染の破片だ。……底なし沼の主ですら、この黒い結晶を飲み込み、腹の中で侵食されていたんだ。あの亀が狂乱して浅瀬へ這い上がってきたのは、金色の暁が残したヘドロのせいだけじゃねえ。この石が放つ冷気と毒素に、内臓を内側から灼かれていたからだ」
「神話竜の破片……!?」
ティオが息を呑んだ。
伝説の先遣隊が全滅したという、20年前の魔境の大異変。
その神話の影が、今、自分たちが解体した亀の胃袋から現実となって現れたのだ。
「魔境の深部で……何かが起きている」
バルツが夜空の小窓を見上げ、静かに呟いた。
「地脈が詰まり、魔力が狂い、何者かが神話竜の封印を揺さぶっている。……この浅瀬の異変は、これから大陸全土を巻き込む巨大な崩壊の、ほんの小さな『最初の綻び』に過ぎねえよ」
重苦しい静寂が、解体場を包み込んだ。
自分たちが立ち向かった脅威の背後に、大陸全体を揺るがす巨大な闇が口を開けていた。
だが――。
ドタドタドタッッッッ!!!!
静まり返ったギルドの階段を、血相を変えた使者の足音が転がり落ちるように響き渡った。
「ドノバンギルド長ォッ!! 緊急事態ですッ!! 王都と辺境伯領から、超特級の緊急伝令が届きましたッ!!」
「な、なんだ! 夜中に騒々しい!!」
仮眠室から飛び出してきたドノバンが、使者の差し出した封書を引ったくり、封蝋を引き裂いた。
そして、書面に目を落とした瞬間――ドノバンの顔から、すべての血の気が引いた。
「な……なんだと……!? 北嶺の霊峰山脈で、観測史上最大の『異常寒波』が発生……!? 万年雪が麓の村落群を完全に呑み込み、幹線道路が氷結して孤立……領民数千人が、飢餓と極寒で全滅寸前だと……!?」
「ひ……数千人が飢餓……!?」
ニーナが耳を伏せて震えた。
ドノバンが頭を抱えて呻く。
「北嶺の寒村には、冬を越すための食糧備蓄がほとんど届いていなかったんだ! 雪崩で道が塞がれ、救助隊も立ち入れない! 王都の正規軍も、あの極寒の山岳地帯では手も足も出ないと匙を投げた! このままじゃ……数千人の命が、寒さと飢えで凍え死ぬぞ……!!」
絶望の凶報。
だが、その叫びを聞いた瞬間――。
地下解体場の隅で、腕を組んで佇んでいた老狩人が、ゆっくりと息を吐いた。
バルツは背中の古傷を軽くさすり、愛刀《黒喰》の柄をポンと叩いた。
「……雪山だな」
低く、いつものようにどこか呑気で、しかし絶対の頼もしさを湛えた声。
バルツは弟子たちの方へと振り返り、無精髭を顎先で撫でながらニヤリと笑った。
「雪崩で道が塞がれてりゃ、獲物の通り道を歩けばいい。食い物がねえなら、雪山に眠る極上の獲物を狩って、骨の髄まで解体して喰わせてやりゃあいいだけの話だ」
「バルツのおっちゃん……!」
「ティオ、シェリル、ニーナ。Cランク昇格祝いの夜更かしはここまでだ」
ティオは大剣の柄を力強く握りしめた。
腰の痛みはどこにもない。仲間と共に掴み取った確かな技と自信が、少年の胸に燃え盛っていた。
シェリルは樫の木の杖を構え直し、翡翠の瞳に決意を灯した。「私の弱火の魔法、雪山で凍える人たちのために役立ててみせます!」
ニーナは耳をピンと立て、フサフサの尻尾を誇らしげに振った。「あたしの鼻で、雪の中に隠れた美味しい獲物を全部見つけ出してやるニャ!」
バルツは手入れの終わった寸胴鍋を指差した。
「背嚢を詰め直せ。防寒具と、あったかい煮込み鍋の準備をするぞ。……飢えて震えてる連中の腹を、極上の雪山サバイバル飯で満腹にしてやる!」
「「「――はいッッッ!!!!」」」
三人の弟子たちの元気な返事が、夜明けの砦ギルドに高らかに響き渡った。
泥濘の原生林を越え、落ちこぼれたちの「魔物解体基礎教室」は、次なる極寒の霊峰の舞台へと歩みを進めるのだった。
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