第046話:【実食】極上天然ラードで揚げ焼きにした肉厚コンフィ
ジュワワワワワワワ…………ッッッ。
大きな鉄鍋の中で、純白の天然ラードが透明な黄金色の油の海となって、静かに泡立っていた。
油の温度はおよそ八十度。
決してグラグラと煮立てず、シェリルが「弱火のマナブレス」で温度を厳密にコントロールしている。
その透明なオイルの海に沈められていたのは――厚さ4センチに贅沢に切り出された、《黒曜甲羅の断頭亀》の極上赤身ヒレ肉の塊だった。
「肉の水分を油で置き換えながら、低温でじっくり火を通す。これが『コンフィ』だ」
バルツが長い鉄箸で肉の沈み具合を確かめながら解説する。
「沸騰した湯で茹でれば肉の旨味は水に逃げちまうし、強火で焼けば肉のタンパク質が急激に収縮してゴムまりのように硬くなる。だが、獲物自身の極上ラードに浸して八十度でじっくり火を通せば、肉汁は一滴も逃げ出さず、繊維の奥深くまで甘いオイルが染み渡るんだ。肉の細胞を壊さず、ゼラチン質だけをトロトロに溶かす……これこそが古き狩人の知恵だ」
1時間後。
肉の芯まで完全に火が通ったところで、バルツは熾火の火力を一気に強めた。
鍋肌の油温がまで急上昇する。
パチパチパチパチッッッッ!!!!
仕上げの強火揚げ焼き。
肉の表面の水分が一瞬で蒸発し、桜色だった赤身の表面が、見る見るうちに香ばしい黄金色のきつね色へと変わっていく。
立ち上る蒸気の色が、甘いナッツの香りから、暴力的なまでに食欲をそそる芳醇なロースト香へと変貌した。
「よし、引き上げろ!」
油を切って平らな大岩のまな板に乗せられたコンフィ。
バルツが研ぎ澄まされた【肉削ぎ平刀】を当てると――。
サクッ……。
まるで焼きたての極上パイ生地にナイフを入れたかのような、耳に甘美なクリスピー音が響いた。
そして切り開かれた断面――。
外側はわずか1ミリのカリカリの香ばしい衣。
その内側は、ほんのりとした桜色のグラデーションを残した、息を呑むほどしっとりとしたロゼ色。
切断面から、透明な肉汁と天然ラードがジュワジュワと泉のように溢れ出し、大岩の表面を濡らしていく。
「「「うわあああああああっっっ……!!!!」」」
待ちきれないティオ、シェリル、ニーナの三人に、分厚く切り分けられたコンフィが木製皿へと取り分けられた。
仕上げに大粒の天然岩塩と、砕いた乾燥ハーブ、そして清流の野生クレソンが添えられる。
「さあ、食え! 浅瀬の主の命の結晶だ!」
「「「いただきますッ!!!!」」」
ティオは木のスプーンを放り出し、手づかみでその分厚い肉塊を持ち上げた。
指先に伝わる、驚くほどの柔らかさと温もり。
大きく口を開け、ガブリと豪快に喰らいついた。
サクッ……ジュワアアアアアアアアッッッッ!!!!
その瞬間、ティオの脳内で至福の鐘が乱れ打ち鳴らされた。
歯が触れた瞬間の、表面の極上クリスピーな香ばしさ。
そして次の刹那――歯が何の抵抗もなく肉の繊維をすり抜けると同時に、信じられないほどの量の肉汁が口いっぱいに洪水となって溢れ出したのだ。
柔らかい。
ローストビーフなんて次元ではない。
まるで、最高級の熟成肉を極上のバターで煮含めたかのような、とろけるような滑らかさ。
天然ラードの甘みが赤身の強い旨味を何倍にも引き立て、大粒の岩塩がピリッと全体の輪郭を引き締める。
獣臭さなど、微塵もない。
清流の爽やかさと、原生林のハーブのアロマだけが、後味として鼻腔を心地よく吹き抜けていく。
(俺……生きてる……! 命を喰らって、仲間と一緒に、こんなに旨いものを食べてる……!)
かつてエドガーたちの後ろで、冷え切った固い干しパンを齧りながら、罵倒され、泥水を啜っていた日々の記憶が胸をよぎる。
あの惨めだった自分は、もういない。
命を尊び、命をいただき、心も体も満たされる喜びが、ティオの魂を震わせていた。
「うっっっっっっっっっっっま!!!!!!!!」
ティオは両手を突き上げ、天を仰いで絶叫した。
「うまい! うますぎる!! なんだこれ、外はサックサクなのに、中は信じられないくらいジューシーで柔らかいぞ!? 噛むたびに甘い油と肉汁が溢れてきて、喉を通るのがもったいないくらいだッ!!」
「ふみゃああああああああっっっっ!! お肉が……お肉が溶けちゃうニャーーッ!!」
ニーナが口いっぱいに肉を頬張り、フェネックの耳をピコピコと狂ったように振るわせながら、目尻に涙を浮かべて悶絶していた。
「脂が……脂が全然しつこくないニャ! お口の中でジュワッと溶けて、甘いジュースみたいに喉を通っていくニャ! クレソンのほろ苦さと一緒に食べると、無限に噛み続けられるニャーッ!!」
「はふっ、んんん〜〜〜っっっ!!」
シェリルはもはや言葉を発することすらできず、両手で肉を握りしめ、目を丸くして恍惚の表情を浮かべていた。
エルフの長い耳が真っ赤に染まり、上品な気品など完全に忘れて、肉汁で艶めく指先までペロリと舐め取っている。
「美味しい……! 私、こんなに濃厚で、こんなに優しいお肉、世界中どこを探してもないと思うわ……! 低温の油で煮るだけで、あんなに硬かった亀のお肉がこんなに柔らかくなるなんて……料理って、本当に奇跡ね……!」
四人が焚き火を囲み、極上のコンフィを夢中で平らげていく。
その黄金色の湯気と暴力的なまでの香気は、泥濘の焦土全体へと広がっていた。
そして――。
「ぐ……ぐううぅぅぅぅぅぅぅぅぅ…………」
焦土の隅で泥まみれになっていたエドガーたちの腹から、悲鳴のような虫の音が盛大に鳴り響いた。
朝から恐怖で体力を使い果たし、手負いになり、泥の中に這いつくばっていたエリートたち。
その鼻腔を、漂ってくるこの世のものとは思えない天国の香りが容赦なく直撃していたのだ。
エドガーの口角から、無様な涎が泥の上にポタポタと滴り落ちる。
背嚢にぎっしりと詰め込んだ魔石は、硬く冷たい鉱石に過ぎず、いくら腹が減っても噛み砕くことすらできない。
金になる魔石を集めて悦に入っていたエリートたちが、今、飢えと屈辱の地獄の中で喘いでいた。
骨折した重装歩兵の巨漢も、喉をゴクリと鳴らして目を血走らせている。
そして――治癒師の少女が、泥の中を膝立ちで這い寄ってきた。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、両手を合わせてバルツへと懇願したのだ。
「お、お願いです……! 一口……一口だけでいいから、そのお肉を恵んでください……! お腹が空いて……死にそうなんです……! 金貨なら払いますからぁっ!!」
プライドも何もない、哀れな物乞いの姿。
だが――。
バルツは、コンフィを一口頬張り、酒のグラスを傾けたまま、冷ややかに治癒師の少女を見下ろした。
「断る」
低く、乾いた一言。
「金貨なんぞ要らねえよ。獲物の命を金にしか換える頭がなく、仲間を肉壁にして逃げ出そうとし、森の命をゴミのように焼き捨てて腐らせた奴らに……この獲物の命を口にする資格なんざ、爪の先ほどもねえよ」
「そ……そんな……っ!」
「自業自得だ。自分たちのケツは自分たちで拭け。……エドガー、お前らの荷物袋に詰まってる魔石でも齧って、王都まで這って帰るんだな」
ティオも、シェリルも、ニーナも、エドガーたちに視線を向けることは二度となかった。
自分たちの手で命を受け止め、自分たちの知恵で勝ち取った至高の晩餐。
泥濘の焦土に、圧倒的な断絶と、因果応報の結末が冷酷に突きつけられていた。命を蔑ろにする者には、一口のスープすら許されないのだ。




