第045話:重厚な黒曜甲羅の外し技と、純白の天然ラード出現
「さあ、ここからが本当の仕事だぞ」
泥濘の上に安らかに横たわる15トンの《黒曜甲羅の断頭亀》。
その巨躯の前に立ち、バルツは腕まくりをして、腰のツールホルダーから【骨割り剛刀】と幅広の【肉削ぎ平刀】を抜き放った。
弟子たち三人も、手際よく背嚢から道具を展開する。
ティオは大剣の泥を拭い、シェリルは杖を構えて肉の冷却準備を整え、ニーナは清潔な麻布と陶器の壺を大岩の上に並べて待機した。
「おっちゃん、この甲羅……どうやって外すんだ? 大岩よりも硬い黒曜石だぞ。上から叩き割ろうとしたら、俺の大剣だって刃こぼれしちまう」
ティオが巨大な漆黒の甲羅を見上げながら尋ねた。
エドガーたちの魔導剣すら粉々にへし折った、絶対の防御壁。
だが、バルツは笑って首を横に振った。
「叩き割る必要なんざねえよ。亀の甲羅ってのはな、背中の『背甲』と、腹側の『腹甲』の二枚の皿が合わさってできてるんだ。背甲は肋骨と背骨が板状に癒合した骨板で、腹甲は鎖骨や腹肋骨が融合したもんだ。そして、その二枚の皿を繋ぎ止めているのは、側面のわずか数センチの『橋部軟骨』だけだ」
バルツの指先が、巨亀の胴体の側面――前足と後ろ足の間のくびれを指し示した。
黒曜石の硬質な板と板の間に、わずかに走る灰色の筋。
「ここが、背甲と腹甲の接合部だ。生きている間は強靭な腹斜筋と腱で固く閉じられているが、脳締めで全身が脱力した今なら、軟骨の隙間がフッと緩んでいる。ティオ、お前の大剣の切先を、この隙間に斜めで滑り込ませろ」
「はいッ!」
ティオは深呼吸し、大剣の切先を側面の灰色の筋へと慎重に当てた。
力を込めるのではない。
大剣の自重と、梃子の支点を意識する。
スッ……と、切先が軟骨の継ぎ目へと二尺ほど吸い込まれた。
「よし、そこだ。大剣の柄を、下から上へとゆっくり持ち上げろ。梃子の原理だ。お前の体重を全部、柄の後端に乗せろ」
「せーのっ……ふんぬッッッ!!!!」
ティオが腰を落とし、丹田に力を込めて大剣の柄を押し上げた。
その瞬間――。
パキィィィッ……メキメキメキッ……!!
心地よい乾いた音が響き渡り、数100年間決して開くことのなかった絶対防御の黒曜甲羅が、まるで巨大な宝箱の蓋のように、ゆっくりと持ち上がった。
側面の軟骨が綺麗に外れ、背甲が泥の上にゴトリと開かれる。
その瞬間――。
ポワァァァァッッッ…………!!
焦土の腐敗臭を一瞬で吹き飛ばすかのような、信じられないほど甘く清々しい香気が、甲羅の内側から溢れ出した。
それは、清流のせせらぎと、野生の木の実の芳醇なナッツのアロマが混ざり合った、大自然の生命の結晶の香りだった。
「「「うわあああああああっっっ……!!!!」」」
ティオ、シェリル、ニーナの三人が、同時に感嘆の声を上げた。
甲羅の内側に広がっていた光景。
それは、泥まみれの兇悪な外見からは想像もつかないほど、息を呑むほど神々しい「純白の楽園」だった。
甲羅の内壁一面に、厚さ十数センチにも及ぶ、雪のように真っ白な脂肪層がぎっしりと敷き詰められていた。
わずかの濁りもない、透き通るような純白。
朝日の光を浴びて、まるで削りたての最高級のバターのように、しっとりと艶やかな光沢を放っている。
指先で軽く触れるだけで、人肌の体温でジュワッと透明なオイルとなって溶け出し、サラサラと指の腹を滑り落ちていく。
これこそが、数百年の歳月をかけて底なし沼の清らかな水生植物と薬草を喰み、体内に蓄積され続けた至高の宝――【黒曜断頭亀の天然純白ラード】だった。
「き、綺麗ニャ……! まるで、降り積もったばかりの粉雪みたいニャ……!」
ニーナが目を輝かせ、陶器の壺を抱きしめた。
さらに、その純白の脂肪層の下からは――。
鮮やかな桜色をした、極上の赤身ヒレ肉の塊が姿を現した。
筋肉の繊維は驚くほどきめ細かく、一切の筋張った硬さはなく、まるで極上のマグロのトロのようにしっとりと瑞々しい。
血抜きが一瞬で完了しているため、ドリップは一滴もなく、赤身肉の表面はみずみずしく光を反射していた。
「す……げえ……こんな綺麗な肉、見たことねえ……」
ティオが呆然と呟いた。
昨日の猪肉も極上だったが、この亀の肉と脂は、さらにその遥か上を行く「神話の領域の食材」だった。
「これが、百年に一度しか手に入らねえ魔境の至宝だ」
バルツが満足そうに頷き、【肉削ぎ平刀】で純白のラードを四角いブロック状に切り出していく。
サクッ、サクッ、と心地よい音を立てて切り分けられる純白の塊。
「この脂はな、通常の豚や牛の脂と違って、融点が極めて低い。人肌の温度で完全にサラサラの液体になるから、いくら食べても胃にもたれねえし、血管にコレステロールが溜まることもねえ。それどころか、極上の不飽和脂肪酸と滋養強壮成分が凝縮されていて、一口舐めるだけで疲労が一瞬で吹き飛ぶ特効薬だ。……ギルドに持っていきゃあ、この脂だけで小瓶一杯で金貨十枚の値がつくぞ」
「金貨……!? この小瓶一杯でニャ!?」
ニーナの耳がプロペラのように回転した。
目の前に広がる純白のラードの量は、壺にして数十杯分はある。
これだけで、すでに金貨数分の価値があった。
「お……おい……」
その時、泥の中に這いつくばっていたエドガーが、震える声で呻いた。
泥炭に汚れた顔を上げ、信じられない目でバルツたちの作業を見つめている。
その後ろでは、右腕を骨折した重装歩兵や治癒師の少女が、漂ってくる甘く清らかな香りに喉を鳴らし、呆然と唾を飲み込んでいた。
『あんなに凶暴だった怪物の体の中に……こんなに美しい宝物が眠っていたなんて……』
王都のエリートたちが信じていた「力による征服」の虚しさが、この芳醇な香りの前に音を立てて崩れ去っていた。
「てめえら……正気かよ……? あんな……あんな恐ろしい化け物の死骸を切り刻んで……その油を壺に詰めて……まさか、食う気なのか……!?」
エドガーの震える問いに、ニーナがピョンと振り返り、腰に手を当てて勝ち誇るように胸を張った。
「当たり前ニャ! こんな極上の天然ラードと桜色の赤身肉、あんたたちみたいな『命を捨てるド素人』にゃ、一生味わえない至高の宝物ニャ!!」
「な……っ!?」
「エドガー様たちにとっては、魔石だけをくり抜いて捨てていく『ゴミ』だったんでしょうね」
シェリルが冷ややかに微笑み、樫の木の杖で切り分けられた純白のラードに極小の冷気を纏わせ、保存の魔法をかけた。
「でも、命を尊び、骨の隙間に刃を滑らせる狩人にとっては……これは世界で一番贅沢な、神様からの贈り物ですわ」
「う……ぐ……っ……」
エドガーは言葉に詰まり、泥の中に顔をうずめた。
自分たちが金儲けのために焼き捨て、命を冒涜してきた浅瀬の森。
その森の主が、今、自分たちが見下していた落ちこぼれたちの手によって、最高の極上飯へと生まれ変わろうとしていた。
その圧倒的な格の違いに、エリートたちのプライドは、完全に再起不能の灰へと化していた。
「よし、切り分け完了だ!」
バルツが立ち上がり、大きな鉄鍋を焚き火の上に据え付けた。
「ティオ、火を熾せ! シェリル、香草の準備だ! ニーナ、深底のボウルを出せ! ……浅瀬の主の命をいただく、極上の【天然純白ラードの厚切り肉コンフィ】の調理開始だ!!」
「「「はいッッッ!!!!」」」
朝の原生林に、最高の歓声が高らかに響き渡った。美味しい時間の始まりだった。




