第044話:神速の脱力一刀! 逆刃が捉えた第三軟骨
音が、消えた。
木々の梢を揺らす風も、足元で跳ねる泥水の雫も、すべてが極限まで引き延ばされた時間の中で、一枚の絵画のように静止していた。
伸び切った《黒曜甲羅の断頭亀》の巨大な首。
黒曜石の甲羅の防壁から解き放たれ、朝日の淡い光の中に晒されたその首筋には、数百年もの歳月が刻み込んだ硬質な蛇腹状の鱗が波打っていた。
並の鋼の剣なら、その鱗を撫でただけで刃こぼれを起こす。
王立魔導院の大砲のような破壊魔法ですら、鏡面結晶に弾き返されて消滅する。
だが――。
スッ……。
その神話級の首筋へと、音もなく間合いを詰める影があった。
老狩人、バルツ。
泥濘を踏む足音はない。
筋肉の緊張もない。
呼気すらも森の大気と完全に同調し、殺気や敵意といった感情の波紋は、微塵もその全身から発せられていなかった。
その手にあるのは、愛刀《黒喰》。
かつて20年前、魔境最深部「世界樹の心臓」で散った先遣隊の仲間たちの遺志と、神話竜の骨片が鍛え込まれた漆黒の片刃刀。
獲物は、敵ではない。
憎むべき怪物でも、征服すべき恐怖の対象でもない。
ただ、この魔境の原生林で命を育み、巡り巡って己の糧となる「大自然の恵み」そのもの。
命への絶対的な敬意と畏怖。
その境地に達した老狩人の前では、15トンの災害獣すら、自らの命を預けるかのように静かに首を差し出していた。
(……第三頸椎と、第四頸椎の隙間)
バルツの双眸が、首筋の鱗のわずかな歪みを正確に捉えていた。
背中の三本の古傷が、熱い脈動と共にその座標を脳裏へと克明にフィードバックしている。
甲羅の内側へと首を格納するための蛇腹構造。
その伸縮を可能にするため、第三頸椎と第四頸椎の間には、衝撃を吸収するための極めて柔らかい「半月軟骨輪」がリング状に存在している。
装甲の隙間。
骨の隙間。
そこには、脳からの運動命令を伝える極太の脊髄神経束と、心臓から脳へと血液を送り届ける二本の主頸動脈が、何重もの防壁を解いて無防備に重なり合っていた。
バルツは愛刀《黒喰》を、右手の中でスッと半回転させた。
刃を上に向けた――【逆刃】の構え。
なぜ逆刃なのか。
刃を表に向ければ、骨の表面を削り、切先が骨膜に引っかかって抵抗を生んでしまう。
だが、逆刃にして刀身の丸みを帯びた背(峰)を骨の面に沿わせれば、刃先は骨膜を傷つけることなく、軟骨の柔らかい組織の隙間だけに自然と誘導されていくのだ。
「骨を断つな」
かつて20年前、魔境最深部で命を落とした仲間たちと共に磨き上げた、狩人の究極の教え。
「骨と骨の隙間に、刃の重みを落とせ。力で切り裂こうとするな。刃が自然に吸い込まれたがっている『道』を、ただ通してやるだけでいい」
バルツの右腕が、滑らかに動いた。
居合のような鋭い抜刀ではない。
剣客の振るう神速の太刀筋とも違う。
まるで、熟練の料理人が長年使い込んだ包丁で、完熟した果実のヘタを静かに切り落とすかのような――どこまでも自然で、どこまでも脱力した、流れるような一刀。
スゥッ…………。
風が擦れるような、微かな音。
《黒喰》の漆黒の切先が、第三頸椎の軟骨輪の隙間へと、吸い込まれるように滑り込んだ。
抵抗感、ゼロ。
まるで、温かいスープの中に銀のスプーンを差し入れたかのように、漆黒の刀身は音もなく肉の奥深くへと沈み込み――そして、手首のわずか数ミリの回転と共に、反対側へとすっと抜けた。
チクリ。
切断されたのは、脊髄の中枢神経束と、左右の頸動脈の基部のみ。
首の太い筋肉も、頑丈な外骨格も、何一つ無駄に傷つけられていない。
外見上は、首筋に一本の髪の毛ほどの極細い赤い線が走っただけ。
血の一滴すら、外へ吹き出さない。
悲鳴の一つすら、上がらない。
「グル…………?」
巨亀の小さな黄金色の瞳が、一度だけ、不思議そうに瞬いた。
激痛はない。
何が起きたのか、巨獣の脳は理解していない。
ただ――全身を駆け巡っていたあの激しい怒りと、焦土のヘドロに対する苛立ちが、まるで夕暮れの湖のようにスーッと静まり返っていく感覚。
四肢を支えていた莫大な力が、砂の城が崩れるように解けていく。
ズズウウウウウウウン…………。
15トンの巨体が、泥濘の中へと静かに沈み込んだ。
倒れたのではない。
まるで、長旅を終えた旅人が、温かいベッドの中に身を横たえるかのように。
四本の巨足が泥の上にふわりと投げ出され、巨大な頭部が、ティオたちの足元へと安らかに接地した。
フシュー…………と、鼻孔から温かい白い呼気が一度だけ漏れ出し、そして、止まった。
完全なる沈黙。
完全なる絶命。
苦痛なき即殺。
肉を一切傷つけず、血を体内に滞留させず、獲物の命を最高の状態で昇華させた、神話級モンスターに対する「完全無欠の解体一刀」だった。
「す……げえ……」
ティオは息を呑み、大剣を両手で握りしめたまま立ち尽くしていた。
胸の奥底が、熱い衝撃で震えていた。
破壊ではない。暴力でもない。
獲物の身体の理に寄り添い、最小限の刃で命を眠らせる神技。
これこそが、バルツが自分たちに教えようとしていた「魔物解体」の究極の到達点なのだと、魂の底から理解できた。
シェリルもニーナも、その美しすぎる一刀に目を奪われ、手を胸の前で合わせたまま動けなくなっていた。
「……あ……あ……」
一方、泥の中に這いつくばるエドガーの口からは、掠れた呻き声しか漏れ出さなかった。
白目を剥き、顎がガクガクと震えている。
横に倒れていた治癒師の少女も、骨折した重装歩兵の巨漢も、呼吸を忘れてその光景を凝視していた。
体長8メートル、重さ15トンの動く要塞。
王都の精鋭たちが壊滅させられた絶対の災害種が――。
使い古された革エプロンを着た無精髭の老狩人の、たった一度の、力すら入っていない一刀で。
血の一滴も流さず、泥水一つ跳ね上げずに、眠るように息を引き取ったのだ。
(嘘だ……嘘だろ……!? 俺たちが信じてきた魔導大剣は……王立学院の最高峰の魔法理論は……一体何だったんだ!? 力任せに殴りかかって腕を折られ、盾を砕かれた俺たちは……このジジイから見れば、ただの赤ん坊の癇癪だったっていうのか……!?)
エドガーのプライドも、傲慢さも、すべてが粉々に粉砕されていた。
足腰が完全に抜けて立ち上がることもできず、ただ泥の中でガタガタと震えることしかできない。
重装歩兵の巨漢は、折れた右腕を抱えながら、老狩人の背中に向けてまるで神仏を拝むかのように両手を合わせていた。
エリートと落ちこぼれの立場は、この一瞬で完全に逆転していた。
バルツは《黒喰》の刀身を麻布で静かに拭い、カチリと鞘へと納めた。
そして巨亀の頭部にそっと右手を置き、目を閉じて無言の祈りを捧げた。
数秒後、弟子たちの方へとゆっくりと振り返り、いつものように無精髭を顎先で撫でた。
「ふう……あたた、腰にくるぜ。……三人とも、怪我はねえな?」
「「「はいッッッ!!!!」」」
ティオ、シェリル、ニーナの瞳には、師に対する無限の畏敬と、やり遂げた誇りが満ち溢れていた。
落ちこぼれたちの奇跡の連係と、伝説の老狩人の神技的一刀。
魔境の朝霧を切り裂いて、圧倒的な勝利の光が、焦土の大地を温かく照らし出していた。
「よし、感傷に浸るのは後だ。心臓の微弱な拍動が残っているうちに、甲羅を外して天然ラードを取り分けるぞ。……ティオ、道具を出せ!」
老狩人の明るい号令が、奇跡の朝の原生林に高らかに響き渡った。




