第042話:バルツの前進「おい若造、大声を出すな。亀が興奮する」
「ヒィィィィッッ! 来る! 嘴が来るぞおおおっ!!」
エドガーが泥の中に頭を抱えて悲鳴を上げた。
頭上から迫る黒曜石の巨大な嘴。
油圧ジャッキのように開かれたその漆黒の刃は、大岩すら一瞬で噛み砕く破壊力を孕み、空気を切り裂く重苦しい風切り音を立てて下降していた。
嘴の噛み合わせの隙間から漏れ出す、地熱のような生温かい呼気。
巻き起こる突風が泥水を激しく吹き飛ばし、エドガーの顔面に容赦なく叩きつけられる。
焦土に散らばる炭化した木片がカタカタと震え、大気そのものがミシミシと軋みを上げていた。
絶体絶命。
どんな大盾も魔法も意味を成さない。
誰もが死を覚悟した、まさにその瞬間だった。
サクッ、サクッ……。
泥濘を踏みしめる、驚くほど軽やかな、そして場違いなほど呑気な足音が響いた。
ティオたちの前に、のそのそと進み出てきた一人の男がいた。
使い古された革エプロン。
無造作に伸ばされた白髪交じりの髪と、濃い無精髭。
猫背で、片手を腰の古傷に当て、まるで近所の裏山にキノコ狩りにでも出かけるかのような完全な脱力状態の佇まい。
老狩人、バルツだった。
「お、おいジジイ! 何やってんだ、早く逃げ……」
泥の中から喚き散らすエドガーの言葉は、最後まで続かなかった。
バルツが、ちらりとエドガーを見下ろしたからだ。
その瞳。
普段の眠たげで締まりのない光は消え去り、そこにあったのは、深海の底のように冷徹で、底知れない闇を湛えた狩人の眼光だった。
「……うるさいぞ、若造」
バルツの低く乾いた声が、エドガーの耳朶を打った。
怒鳴っているわけではない。
だが、その声には、荒れ狂う暴風雨すら一瞬で静まり返らせるような、絶対的な支配力が宿っていた。
「大声を出すな。獲物が無駄に興奮するだろ」
「は……? こ、興奮……? 何を言って……」
「獲物が興奮して暴れ回ると、全身の筋肉にアドレナリンと乳酸が充満するんだよ。そうすりゃあ肉の水素イオン指数(pH)が急激に低下して保水性が失われ、せっかくの肉の繊維がパサパサの酸っぱい生ゴミになっちまう。それだけじゃねえ。甲羅の内側に詰まった極上の天然ラードの融点が上がり、甘いナッツのような風味が焦げた獣臭さに変わっちまうんだ。……静かにしてろ。俺たちの極上サバイバル飯を不味くするな」
「しょ……食材……!? サバイバル飯だと……!?」
エドガーの顎が外れそうになった。
食材? サバイバル飯?
今、この老いぼれ狩人は、目の前の化け物を何と呼んだ?
体長8メートル、全高4メートル、推定重量15トン。
王都の名門パーティー「金色の暁」を一撃で壊滅させ、鋼鉄のタワーシールドを紙のように噛み砕いた、浅瀬の災害級モンスター《黒曜甲羅の断頭亀》。
遭遇すれば即座に撤退すべき絶対の死神を――。
「食材」だと?
肉が酸っぱくなるから興奮させるなだと?
「狂ってる……! 正気じゃねえ……! あんな化け物に敵うわけねえだろ! 王都のSランク冒険者ですら、こんな化け物を前にしたら死に物狂いで剣を構えるぞ……! なのに、なんでこのジジイは……夕飯の献立でも考えてるような顔をしてやがるんだ!?」
エドガーの背筋に、モンスターの巨躯を見上げた時とは全く質の異なる、底知れない戦慄が走った。
それは、常識の外側に生きる「本物の怪物」を目の当たりにした人間の本能的な恐怖だった。
エドガーの横で泥にまみれていた治癒師の少女や重装歩兵の巨漢も、涙と泥に汚れた顔を上げ、呆然と老狩人の背中を見つめていた。
『あのおじさん……誰なの……? ギルドのFランクのただの解体屋じゃなかったの……?』
誰一人として、その背中から目を離すことができなかった。
その背中から漂うのは、王都の騎士団のような華美な威圧感ではない。
ただ自然の法則をありのままに受け入れ、数千頭の生命の脈動を見届けてきた者だけが持つ、大自然そのもののような静寂だった。
「勝つ、負けるじゃねえんだよ」
バルツはエドガーたちの動揺を完全に無視し、革エプロンの腰紐をキュッと締め直した。
そして、腰のツールホルダーから一本の研ぎ澄まされた解体小刀――【骨筋測り小刀】を抜き放ち、左手で軽く構えた。
「俺たちがやるのは、いつだって『解体』だ。命をいただくための、正しい手順を踏むだけの話だ。どんなに強大な魔物だろうが、息をして血を巡らせている以上、骨があり、筋があり、呼吸の合間がある。力任せに殴りかかるから返り討ちに遭うんだ。解剖学の理に従えば、15トンの巨体だろうが、リンゴの皮を剥くのと何ら変わりはねえ」
その背中。
革の上着越しに、背骨の左脇を走る三本の古傷が、衣服を透かして見えるほど赤熱し、激しく脈打っていた。
20年前、魔境最深部「世界樹の心臓」で、暴走した神話竜の爪によって刻まれた、地脈との共鳴傷。
その古傷が、目の前の断頭亀の体内を流れる魔力の奔流と、骨格の微細な歪みを、バルツの脳内へと克明にフィードバックしていた。
(……見えている。大地の魔力を吸いすぎて、第三頸椎の軟骨輪にわずかな鬱血があるな。焦土の酸毒を吸い込んで呼吸が浅くなっている。首を引っ込めるための頚長筋の緊張度はおよそ七割。……解体するには、絶好のコンディションだ)
バルツは愛刀《黒喰》の漆黒の柄に、静かに右手をかけた。
カチリ。
親指で鯉口を切る。
その微かな金属音が響いた瞬間――。
頭上で口を開けていた《黒曜甲羅の断頭亀》の動きが、ピタリと静止した。
黄金色の巨大な双眸孔が、キュッと収縮する。
15トンの巨獣の全身を覆う剛毛と皮膚が、本能的な悪寒に震えたのだ。
目の前に立つ、小さな二本足の老いた生物。
魔力の発露は何もない。
怒りも、殺気すら放っていない。
だが――その男の全身から漂っているのは、過去数百年、この浅瀬の主として君臨してきた巨獣が、一度も嗅いだことのない「絶対的な捕食者の匂い」だった。
「グルルルルッ……!!」
断頭亀が、警戒の唸り声を漏らした。
大木のような巨足が泥濘を踏みしめ、黒曜石の甲羅が防御態勢へと角度を変える。
モンスター側が、一人の老狩人に対して「警戒」を露わにし、後ずさりしたのだ。
「う、嘘だろ……あの亀が……後ずさりした……?」
泥の中に這いつくばるエドガーが、ガチガチと歯の根を鳴らしながら呟いた。
理解の範疇を遥かに超えた光景。
王都のエリートたちの常識が、木っ端微塵に粉砕されていた。
「ティオ、シェリル、ニーナ」
バルツの低く穏やかな声が、弟子たちに届いた。
「はいッ!」
「準備完了しています!」
「いつでもいけるニャッ!」
三人の返事に、微塵の恐れもなかった。
整然と並び立ち、それぞれの武器を構える落ちこぼれカルテット。
ティオは大剣の平を斜めに傾けて光の反射角を計算し、シェリルは杖の切先を泥へと沈めて極小の冷気粒子を紡ぎ、ニーナは身軽に泥炭の盛り土へと跳躍して投石の軌道を測っていた。
互いの信頼と、師から受け継いだ技術。
そのすべてが、若者たちの瞳を澄んだ黄金の炎で満たしていた。
「呼吸を合わせろ。相手の目を引くのはティオだ。足元の摩擦を奪うのはシェリル。そして耳の後ろの感覚を狂わせるのはニーナだ。……お前たちの手で、あの巨大な首を空中に引っ張り出せ」
「「「了解ッ!!!!」」」
老狩人と落ちこぼれたちの、神話級モンスターに対する前代未聞の「解体授業」が、今、泥濘の焦土で幕を開けた!




