第041話:エドガーの醜態「おい! そこのクズども、肉壁になれ!」
「て……ティオ……!? てめえ、なんで生きてやがるッ!?」
泥炭にまみれ、股間を濡らして這いつくばっていたエドガーの口から、掠れた絶叫が漏れた。
自分の眼前で、身の丈の大剣を背負って堂々と立つ少年の姿。
それは、数日前にギルドの裏路地で腰を折られ、冷たい雨水の中で涙を流しながら見捨てたはずの、あの無能な荷物持ちティオその人だった。
あの日――エドガーは、泥の中にうずくまるティオの背中を踏みつけながら、こう言い放ったのだ。
『おいゴミ、立てよ。立てねえのか? ぎっくり腰くらいで泣き喚きやがって、本当に使えねえ奴だな! エリートの俺たちが浅瀬の雑魚の肉なんか運ぶわけねえだろ! 重い荷物を運ぶことしか能がねえ癖に、その腰が壊れたなら、お前はただの粗大ゴミだ! ギルドの裏路地で野垂れ死ね!』
ティオのわずかな所持金を奪い、大剣の柄で腹を蹴り上げ、雨の中に置き去りにしたあの日。
エドガーにとって、ティオは道端に転がる小石以下の存在であり、二度と視界に入るはずのない「終わった人間」だったはずだった。
だが、今、目の前に立つ少年の姿は、かつての怯えた負け犬のそれとは根本的に違っていた。
膝に一切の揺らぎはなく、背筋は天を突くように真っ直ぐに伸び、身の丈の大剣の重みを手足の重心と丹田の呼吸で完璧に制御している。
その瞳の奥には、15トンの災害級モンスターを前にしても微動だにしない、静謐な狩人の光が宿っていた。
「……エドガー」
ティオの口から、低く澄んだ声が落ちた。
憎しみや怒りを剥き出しにするわけではない。
ただ、目の前の泥濘に転がる哀れな男を、冷徹に観察するような視線。
その侮蔑すら含まない淡々とした視線が、エドガーのズタズタに引き裂かれたプライドを猛烈に逆撫でした。
「な……なんだその目はッ!? 荷物持ちのFランクのクズの分際で、この俺を見下すんじゃねえッ!!」
エドガーは泥の中から這い上がり、折れた魔導剣の柄をティオへと突きつけた。
恐怖と屈辱で顔面をドス黒く歪ませ、口角から汚い泡を飛ばしながら喚き散らす。
「おいティオ! ちょうどいい、てめえが前に出ろ! その身の丈の大剣を構えて、あの亀の前に立ち塞がれ! 肉壁になって、俺たちが立ち入り禁止区域から逃げ出すための時間を稼ぐんだよ!!」
「肉壁……だと?」
「当たり前だろッ! 俺は王都の名門ギルドから推薦されたエリート冒険者だぞ!? 将来はSランクに登り詰める器なんだ! お前みたいな辺境のゴミが、俺の身代わりになって死ねるんだから光栄に思えッ! ギルド規約でも、下位ランクは上位ランクの撤退を支援する義務があるはずだ!!」
エドガーの喚き声は、もはや人間の言葉というよりは、追い詰められた害獣の狂乱の悲鳴だった。
その後ろでは、右腕をへし折られた重装歩兵の巨漢が、呆然とした目でリーダーを見つめていた。
『エドガー様……俺たちを見捨てて、自分だけ逃げる気ですか……?』
だがエドガーは、手負いの仲間の訴えなど一顧だにせず、泥の中に倒れる治癒師の少女を足蹴にして怒鳴り散らした。
『うるさい! 手負いのゴミは置いていく! 俺さえ生き残れば、パーティーなんざ王都でいくらでも再結成できるんだよ!』
仲間への敬意も、リーダーとしての責任も、人間としての最低限の倫理すら完全に破綻した、底なしの浅ましさ。
それだけではない。
エドガーの血走った視線は、ティオの背後に控えるシェリルとニーナへと向けられた。
「おい、そこのエルフ! 突っ立ってないで全魔力を使って氷壁を作れ! あの亀の足を止めろ! そっちの猫耳のクズ! お前は身軽なんだから、反対側に走って亀の視線を引きつける囮になれ! 早くしろ、俺の命令が聞けないのかッ!!」
自分は指一本動かさず、ただ他人を犠牲にして自分だけが生き延びようとするエドガーの醜悪な怒号。
その言葉に、シェリルは冷たい侮蔑の視線を向け、樫の木の杖の切先を微かに下げた。
「……王都の魔導学院にも、あなたのような手合いがたくさんいましたわ。他人のマナや努力を平気で踏み躙り、自分だけが特別だと信じ込んでいる愚か者。……虫酸が走ります」
「ふにゃっ! 誰が猫耳のクズニャ! あんたなんかのために囮になるくらいなら、カニミソのお雑炊をもう一杯食べた方が1000000倍マシニャ!!」
ニーナがペロッと舌を出し、大きな耳をパタパタと振ってエドガーを完全に嘲弄した。
エリート冒険者として崇められてきたエドガーにとって、落ちこぼれの少女たちから向けられたその歯牙にもかけない態度は、殴られるよりも耐え難い屈辱だった。
「て、てめえら……っ! エリートの俺の命令に逆らう気か!? ギルドに告発して、冒険者資格を剥奪してやるぞッ!! いいから前に出ろ、ティオ! 盾になれえええッ!!」
激昂したエドガーが泥を蹴り、ティオの胸倉を掴もうと右手を伸ばした。
だが――。
パシッ。
乾いた音が、朝霧の森に響いた。
ティオの左手が、エドガーの伸ばされた右手首を、寸分の狂いもなく掴み取っていた。
力任せに握り潰すのではない。
橈骨と尺骨の隙間、腱鞘の急所へと指先をスッと添え、相手の突進のベクトルを外側へとわずかに逃がす――バルツに教わった、脱力の生体力学制御。
それだけで、エドガーの全体重は前のめりに空転し、その場に再び膝をつく羽目になった。
「が……っ!? な、なんで……手が……動かねえ……!?」
「……エドガー」
ティオは、足元で呻くエドガーを静かに見下ろした。
その瞳には、もはや過去のトラウマも、恐れも、復讐心すら残っていなかった。
ただ、哀れな亡霊を見るかのような、どこまでも透明で深い静寂。
「断る」
ティオの唇から、毅然とした二文字が紡がれた。
「あんたらの身代わりになるために、俺はこの大剣を背負ってるんじゃない。……あんたらが切り捨てた獲物の命を受け止め、仲間を守るために、俺はこの大剣を持っているんだ」
「な……何を言ってやがる……!? 獲物の命だと!? そんな下らないことのために、エリートの俺を見殺しにする気かッ!?」
「命を粗末にする奴は、必ず森から特大のしっぺ返しを食らう。……おっちゃんが言っていた通りだ」
ティオはエドガーの手首をパッと放した。
エドガーは泥の中に無様に尻餅をつき、信じられないものを見るかのようにティオを見上げた。
あの日、雨の中で泣き叫んでいた弱虫の少年は、もうどこにもいなかった。
自然の掟を学び、命の尊さを魂に刻み込んだ一人の「狩人」が、泥濘の大地にしっかりと根を張って立ち塞がっていた。
「俺たちは、逃げない。……だが、あんたのために戦うんじゃない。この森の命を汚したツケを、ちゃんと清算するために戦うんだ。獲物をいただく責任を、俺たちが果たしてみせる」
ティオの力強い言葉に、背後のシェリルとニーナが誇らしげに頷いた。
そして――。
「グルオオオオオオオオオッッッッ!!!!」
人間の言い争いに苛立ちを募らせたかのように、背後にそびえ立つ《黒曜甲羅の断頭亀》が、天を衝く咆哮を上げた。
周囲の泥水が津波のように波打ち、大気そのものがビリビリと共鳴して破壊の衝撃波を放つ。
黒曜石の巨大な甲羅から青黒いマナの火花がパチパチと飛び散り、15トンの巨体が前進を開始した。
大木のような巨足が泥濘を踏み砕き、鋼鉄をも容易に両断する油圧ギロチンの嘴が、今まさに、全員をまとめて噛み砕かんと大きく開かれた!




