第040話:エリートパーティー「金色の暁」の壊滅と敗走
「ヒッ……ヒイイイイッッ! 来るな、来ないでくれえええッ!!」
深い朝霧を突き破って、焦土の泥濘へと転がり出てきたのは、かつて王都で「将来を嘱望された俊英たち」と持て囃されていたエリート冒険者パーティー「金色の暁」の無残な成れの果てだった。
まばゆい白銀の輝きを放っていたはずの特注の高級甲冑は、見る影もなくドロドロの赤黒いヘドロに塗れ、あちこちが飴細工のように無惨にひしゃげている。
王立魔導院特製の高価な防護結界が付与されていたはずのシルクの魔導マントは、ボロボロの雑巾のように引き裂かれ、泥水を吸って重苦しく足首に絡みついていた。
「助けて……エドガー様、助けてぇぇぇッ!」
パーティーの専属治癒師の少女が、銀の杖を泥の中に放り出し、顔から突っ伏して泣き叫んでいた。
その後ろでは、重装歩兵の巨漢が、自慢の鋼鉄製タワーシールドを真っ二つに叩き折られ、右腕を骨折してだらりと垂らしながら、白目を剥いて泥の上を這いずり回っている。
前衛も後衛も、陣形も規律も、エリートとしての矜持も何一つ残っていなかった。
そこにあるのは、死の恐怖に理性を完全に破壊された、哀れな敗残兵たちの無様な逃走劇だけだった。
ほんの三十分前まで、彼らは勝利を確信していたのだ。
浅瀬のモンスターを手当たり次第に焼き払い、金になる魔石だけを袋いっぱいに詰め込んでいたエドガーたちは、さらなる大物を求めて立ち入り禁止区域の境界へと足を踏み入れた。
そこで遭遇したのが、底なし沼から這い上がってきた巨大な黒い影だった。
エドガーは嘲笑した。
『動きの鈍い亀なんざ、俺の極大火炎魔法の格好の標的だ! この甲羅ごと焼き尽くして、ギルドの特別懸賞金を独り占めにしてやる!』と。
だが、放たれた超高熱の紅蓮の業火は――黒曜石の甲羅に接触した瞬間、鏡面のような結晶構造によって四方八方へと完全に乱反射され、あろうことかエドガーたちの陣営へと跳ね返ってきたのだ。
自らの放った炎で仲間が火だるまになり、パニックに陥った前衛の重装歩兵が慌ててタワーシールドを構えたが、巨亀のギロチンのような鉄嘴が一閃――鋼鉄の盾ごと、右腕の骨を紙屑のように噛み砕かれた。
攻撃は一切通じず、反撃は一撃必殺。
力任せの破壊しか知らないエリートたちにとって、それは生まれて初めて直面した「絶対的な絶望」だった。
「クソッ、クソッ、クソがああああっ! なんで浅瀬なんかにあんな化け物がいるんだよッ!?」
そして――。
その先頭を、手負いの仲間を見捨てて我先にと這いずり逃げていた男こそが、リーダーの魔導剣士エドガーだった。
かつてティオを見下ろし、冷酷な嘲笑を浮かべながら「Fランクのゴミ」と罵倒して蹴り飛ばしていた、あの美男子の面影は微塵もなかった。
美しく整えられていた金髪は泥炭と脂汗で額にべったりと張り付き、鼻水を垂らし、血走った目は狂乱の色に染まっている。
その右手には、王都の最高級工房に金貨百枚を積んで特注させたという自慢の魔導大剣が握られていた。
だが、その刀身は――亀の甲羅に力任せに叩きつけた反動で、根元から無残にボキリとへし折れ、ただの鉄の棒と化していた。
「おい、お前ら! 俺を置いて逃げるな! 壁になれ! エリートの俺が死んだら王都のギルドが黙っちゃいないんだぞ! 早く俺を庇えええええッ!!」
エドガーは泥の中に足を取られて転倒すると、後ろから必死に追ってくる仲間の治癒師の足首を掴み、自分が前に出るための踏み台にしようと引き倒した。
仲間への敬意も、リーダーとしての責任も、人間としての最低限の倫理すら投げ打った、醜悪極まりない本性。
だが、そんなエドガーの絶叫すら、背後から迫る圧倒的な「破壊の地鳴り」にかき消された。
――ズズウウウウウウウンッッッッ!!!!
焦土の地面が、大きく十数センチも跳ね上がった。
霧を切り裂いて、森の巨木を何十本も一瞬で粉砕しながら姿を現したその影。
それを見上げた瞬間、エドガーの喉から「ヒッ……」と空気が抜けるような音が漏れ、股間からじわりと生温かい液体が泥へと滴り落ちた。
失禁。
人間の本能が、絶対的な捕食者を前にして、完全な敗北と死を悟った時に見せる生理現象だった。
そこにそびえ立っていたのは――生きた漆黒の要塞だった。
体長8メートル、全高4メートル、推定重量15トン。
背負っているのは、磨き抜かれた黒曜石の鏡面のように光を反射する、巨大な甲羅の山。
その表面には、数百年をかけて地脈から吸い上げた高密度の魔力が青黒い稲妻のような幾何学紋様を描いて明滅しており、周囲の空気を歪ませるほどの重圧を放っている。
《黒曜甲羅の断頭亀》。
浅瀬の最深部、底なし沼に君臨する神話級の怪物が、今まさに、焦土の泥の上にその巨足を踏み下ろしていた。
「グルオオオオオオオオッッッ……!」
地底のマグマが噴き出すかのような、地響きを伴う重低音の唸り声。
巨亀の頭部は太古の恐竜のように巨大で、首の周りは何層もの硬質な鱗と分厚い筋肉で覆われていた。
そして何より恐ろしいのは、その口元だった。
唇にあたる部分は存在せず、鋼鉄をも凌駕する硬度を持つ黒曜石の「嘴」が、まるで巨大な油圧ギロチンの刃のように上下に噛み合わされていた。
その嘴の一撃は、あらゆる大盾を一撃で両断し、重装歩兵の胴体を紙のように切断する。
ゆえに名付けられた――「断頭亀」。
巨亀の小さな黄金色の双眸が、足元で這いずり回るエドガーたちを冷酷に見下ろした。
自らの住処である底なし沼を、腐敗した死骸の酸毒で汚された自然の主の、容赦のない怒り。
巨亀が、大木ほどの太さを持つ前足をゆっくりと持ち上げた。
その蹄の裏には、先ほど踏み潰されたのであろう魔導剣の破片が、泥と共にこびりついている。
踏み下ろされれば、エドガーの体など一瞬で泥濘の赤い染みと化す。
「嫌だ……死にたくない……! 誰か……誰か助けてくれえええええええッッッッ!!!!」
エドガーが両手で頭を抱え、泥の中に顔を埋めて泣き叫んだ、まさにその時だった。
「――おい。見苦しいぞ、エリート様」
霧の立ち込める森の縁から、静かな、しかし驚くほどよく通る少年の声が響いた。
エドガーが涙と泥にまみれた顔を恐る恐る上げると――。
そこには、かつて自分が「役立たずのゴミ」と呼び、大剣の重みで腰を折って追放したはずの少年、ティオが立っていた。
身の丈の大剣を背負い、微動だにせず、静かに巨亀を見据える凛とした立ち姿。
その双眸には、恐怖も動揺も一切なく、澄み切った狩人の光が宿っていた。
「て……ティオ……!? な、なんでお前がここに……!?」
エドガーの顎が外れそうにガクガクと震えた。
腰を折られてギルドの裏路地で野垂れ死んだはずの無能な荷物持ち。
その隣には、樫の木の杖を構えた気品あるエルフの少女シェリルと、二本の小刀を逆手に持った身軽なフェネックの少女ニーナ。
さらにその後ろには――使い古された革エプロンを身につけ、退屈そうにあくびを噛み殺している無精髭の老狩人、バルツの姿があった。
泥まみれで這いずり回るエリートたちの無様な姿と、整然と立ち並ぶ落ちこぼれたちの凛々しい姿。
その圧倒的なコントラストが、焦土の朝霧の中に鮮烈に浮かび上がっていた。
そして巨亀の巨大な黄金色の瞳が、ゆっくりと、足元の這いずる虫けらから、静かに立ち塞がる四人へと向けられたのだった。




