第039話:泥濘を揺らす重低音! 浅瀬の主の覚醒
東の地平線が、薄墨色の夜空をゆっくりと白茶色に染め上げていく。
原生林の夜明け。
だが、その朝の訪れは、小鳥のさえずりや爽やかな朝露の輝きとは無縁の、陰鬱で息苦しい重圧に満ちていた。
湿地帯特有の朝霧が、まるで乳白色の重油のように低く垂れ込め、水面を音もなく這い回っている。
木々の梢を渡る風は完全に止まり、森全体が息を殺して、これから訪れる破壊の主の足音に怯えているかのようだった。
「三人とも、パッキングは完了したか?」
バルツの静かな声が、夜明けの冷気を切り裂いた。
弟子たちは無言で頷き、背嚢の革ベルトをしっかりと締め直した。
手入れを終えた寸胴鍋はティオの背中に頑丈に括り付けられ、昨夜煮込んだ猪のバラ肉から切り分けた保存用の干し肉と、シェリルが煎じた野草の滋養強壮薬が各自の腰袋に収められている。
武器の整備も完璧だった。
ティオの大剣の腹には猪の純白ラードが薄く塗り伸ばされ、シェリルの樫の木の杖は朝露を拭われて澄んだ魔力を宿し、ニーナの七本の解体小刀は砥石で産毛すら剃れるほどに研ぎ澄まされていた。
「……ドシン…………ドシン…………」
夜半から響き続けていた不気味な地鳴りは、夜が明けるにつれてその間隔を狭め、一打ごとに大地を直接揺らす衝撃波となって、川辺の野営地へと届いていた。
浅瀬の清流の水面が、まるで太鼓の皮のように規則正しく波紋を描き、岸辺の小石がカタカタと跳ねる。
「おじちゃん……! 霧の向こうから、ものすごいプレッシャーが押し寄せてくるニャ……!」
ニーナが焚き火の灰の横で身を縮め、フェネックの大きな耳を真横に伏せていた。
瞳は恐怖で揺れているが、その背筋はしっかりと伸びている。
昨夜の角煮で完全に体力を回復した少女の身体には、昨日のような絶望の竦みはなかった。
ニーナの鋭敏な感覚器官は、霧の向こうに蠢く怪物の詳細なデータを正確に捉えていた。
「距離、約! 体長は……8メートル以上! 重量は……10トン……ううん、15トンは軽く超えてるニャ! 一歩踏み出すたびに、原生林の大木がマッチ棒みたいにバキバキへし折られてるニャ……!」
「15トン……」
ティオが大剣の柄を握る手に力を込めた。
昨日仕留めた《青首突進猪》が。
それですら人間の常識を遥かに超えた質量だった。
15トンといえば、その20倍近く。
もはや生物というよりは、動く要塞、巨大な岩山そのものだった。
「エルフの古い書物にも記されています……」
シェリルが樫の木の杖を胸元で構え、硬い声で言った。
その翡翠の瞳には、学者肌のエルフらしい詳細なモンスター知識の記憶が浮かんでいた。
「浅瀬の最深部、第二層との境界にある『底なし沼』に眠る主……《黒曜甲羅の断頭亀》。火山地帯の冷えた黒曜石と高密度のマナを数百年かけて甲羅と同化させた、絶対の防御力を誇る災害種。並の刃物や矢など一切通さず、上位の攻撃魔法すらその甲羅の反射角で無効化してしまう……。ギルドでは、遭遇したら即座に撤退すべき『初心者キラーの頂点』として指定されています」
「そうだ。本来なら、浅瀬の浅い泥濘なんぞに這い上がってくるような奴じゃねえ」
川辺の大岩の上に腰を下ろしていたバルツが、ゆっくりと立ち上がった。
使い古された革エプロンの紐を結び直し、七本の解体小刀が収まった腰のツールホルダーをカチリと鳴らす。
その背中――上着の下の三本の古傷は、今や赤熱した鉄のように熱を放ち、バルツの神経系に地脈の激痛をダイレクトに伝えていた。
「腐乱した死骸の山から染み出した酸毒と、地脈の魔力汚染が、底なし沼の主の縄張りを直撃したんだ。何十年も泥底で微睡んでいた巨獣が、ヘドロの悪臭に叩き起こされ、激怒して浅瀬へ這い上がってきてる。……そして、その進路の先には」
「……『金色の暁』の連中がいる……!」
ティオが息を呑んだ。
バルツの言葉に、すべてが繋がった。
森の生態系を無視し、魔石だけを抜いて数十頭もの死骸を焼き捨て、放置していったエリートたち。
彼らが浅瀬の奥でさらに獲物を乱獲しようとした結果、眠れる災害級の主の逆鱗に触れたのだ。
「自業自得、因果応報ってやつだな」
バルツは冷淡に言い放ち、腰から愛刀《黒喰》を抜いた。
朝の薄暗い光の中で、漆黒の刀身が吸い込まれそうな深い闇を宿して光る。
前夜、丁寧に研ぎ澄まされ、猪の純白ラードで拭き上げられたその刃には、分子の隙間すら存在しないかのような鋭利な緊張感が漂っていた。
「だが、あいつらがどうなろうと知ったこっちゃねえが、あの亀をこのまま暴れさせておくわけにはいかん。浅瀬の生態系が壊滅すりゃ、下流の砦や街道まで魔物の大群が押し寄せることになるからな」
「おっちゃん……まさか、あの15トンの化け物を、俺たちで狩るのか……!?」
ティオが緊張に声を震わせた。
恐れているのではない。
かつてなら逃げ出すことしか考えられなかった巨大な脅威に対し、今のティオの胸の奥底には、狩人としての武者震いが走っていた。
「狩る? 人聞きの悪いことを言うな」
バルツは呆れたように片眉を上げ、いつものように無精髭を顎先で撫でた。
「俺たちがやるのは、いつだって『解体』だ。どんなにデカかろうが、亀は亀だ。呼吸器があり、関節があり、甲羅と首の隙間には必ず神経の通り道がある。力で甲羅を叩き割る必要なんざ、最初からどこにもねえんだよ」
「解体の理……!」
「そうだ。あの亀の甲羅は、三層構造になってる。表面は鏡面のように磨かれた黒曜石層、中間は蜂の巣状の気泡を含む衝撃吸収層、そして内側は肋骨と背骨が融合した強靭な骨板だ。王都のエリートどもは、あの甲羅を力任せに魔法や大剣でブッ叩こうとするから、武器をへし折られて返り討ちに遭う。……だがな、亀が頭や足を出し入れする時、甲羅の縁と首の境目――第三頸椎の付け根には、衝撃を吸収するための『軟骨の輪』が必ず露出する。そこを狙えば、力なんざリンゴを剥く程度で十分だ」
バルツの解剖学講義に、シェリルが目を見張った。
どんな災害級の怪物であっても、生物である以上、骨と関節の隙間は必ず存在する。
弱点のない生物など、この世界には存在しないのだ。
「さらに、あの亀の体内には、数百年かけて蓄積された純白の『天然ラード』が山のように詰まってる。甲羅の内側の脂肪層は、どんな高級牛のサシをも凌駕する極上の美味だ。……仕留めりゃあ、肉も油も骨も、すべてがギルドで金貨何十枚にも化ける宝の山だぞ」
「金貨何……! 極上の天然ラード……!」
ニーナの耳がピクンと跳ね、ティオの瞳に闘志が宿った。
恐怖の化け物が、バルツの一言で「極上の食材」と「巨大なご馳走」へと認識を塗り替えられていく。
「行くぞ。足音を殺し、風下を取れ。気根の硬い部分だけを選んで歩けよ。……命を粗末にした連中が、魔境からどんな授業料を請求されているか、特等席で見物しに行ってやる」
老狩人の号令と共に、四人は霧深い原生林の奥へと足を踏み出した。
ブッシュクラフト歩行により、泥を踏む音一つ立てずに進む。
やがて、西の森の開けた空間――昨日目撃した、あの死骸の焦土が見えてきた、まさにその瞬間だった。
――バキバキバキィッッッッ!!!!
大気を引き裂く破壊音と共に、霧の向こうから、絶望に満ちた男の悲鳴が木霊した。
「誰か……! 誰か助けてくれえええええええッッッッ!!!!」
それは、かつてティオを「役立たずのゴミ」と罵倒し、蹴り飛ばして追い出したエリート魔導剣士、エドガーの泣き叫ぶ声だった!




