第004話:ガス欠エルフの行き倒れと、理性を溶かす黄金蜜パン
冒険者ギルド「竜哭の砦」へと続く大通りの並木道。
色づいたポプラの葉がハラハラと舞い落ちる石畳の上に、明らかに周囲の風景から浮きまくっている物体が転がっていた。
「……ううっ……もう、一歩も……動けません……」
倒れていたのは、一人の少女だった。
月光をそのまま紡いだような、輝く銀髪。尖った長い耳が、落ち葉に埋もれて力なく垂れ下がっている。
森のエルフ族――しかも、身にまとっているのは王都の最高学府「王立魔導学院」の特待生にしか下賜されない、上質な濃紺の絹の魔導ローブだった。
名を、シェリル(十七歳)。
本来であれば、王都の宮廷魔導師として華々しいエリート街道を歩んでいるはずの才女だった。
だが今、彼女は泥のついた落ち葉の上にうつ伏せで倒れ、ピクピクと痙攣していた。
「お、お腹が……減りすぎて……目の前が、真っ白です……。誇り高き大樹の民が……こんな辺境の道端で、餓死するなんて……」
ぐうううううううぅぅぅぅぅぅぅぅ……!
シェリルの腹から、まるで地底の巨大モンスターが唸りを上げたかのような、凄まじい飢餓の咆哮が鳴り響いた。
彼女がこの無様な姿を晒している理由は、極めて単純であり、同時に致命的だった。
シェリルの魔力特性は「規格外の瞬間超出力」。
一度魔法を放てば、通常の魔導師の10倍以上の熱量と規模を誇る上級魔法を軽々と発動できる。
だが――その燃費が、壊滅的に悪すぎた。
一発、上級魔法を放っただけで、体内の魔力回路はおろか、筋肉に蓄えられたブドウ糖と生命力まで一瞬で根こそぎ空っぽになってしまうのだ。
いわゆる「瞬間ガス欠体質」。
学院の模擬戦では、開始三秒で相手の防壁を粉砕したものの、その直後に極度の低血糖と脱力によって白目を剥いて気絶。
『戦場で一発撃って昏倒する魔導師など、ただの的だ』
『美しいだけの欠陥品』
そう冷酷に烙印を押され、学院を中退・追放されたシェリルは、自らの体質を改善する手がかりを求めて、太古の魔力が色濃く残るこの辺境の「竜哭の砦」まで流れ着いたのだった。
だが、砦に着いた初日。
ギルドの登録試験で実力を示そうと、張り切って中級火炎魔法を一発ぶっ放した結果――
案の定、その場で魔力と体力を完全燃焼。
報酬を受け取るどころか、ギルドの門を出たところで力尽き、三日三晩何も口にできないまま、行き倒れてしまったのである。
「もう……ダメです……。お母様……お父様……シェリルは、落ち葉のベッドで……永遠の眠りにつきます……」
視界が暗転しかけ、意識が心地よい虚無へと落ちていきそうになった、その時だった。
ふわ……り。
冷たい秋風に乗って、並木道の奥から、暴力的なまでに甘美で、濃厚で、香ばしい香気が漂ってきた。
「――っっっ!?!?」
シェリルの尖った耳が、ビクンッ!と直立した。
暗闇に沈みかけていた脳細胞が、強烈な電気ショックを受けたかのように覚醒する。
それは、焦がしバターの芳醇な香りだった。
熱せられたフライパンの上で、黄金色のバターが泡立ち、ナッツのような香ばしさを放ちながら何かの肉を包み込んでいる匂い。
そして、それに重なるように漂ってくる、濃厚極まりない甘い蜜の香り。
ただの砂糖の甘さではない。大自然の原生林に咲き乱れる無数の花の精霊たちが、百年の年月をかけて凝縮させたかのような、深みのある野生の蜂蜜の香り――!
「な……な、なんですか……この、理性を直接殴りつけてくるような……破廉恥極まりない匂いは……!?」
シェリルはゾンビのようにガバッと上半身を起こした。
銀髪をボサボサに乱し、血走った青い瞳で、匂いの発生源を睨みつける。
並木道のすぐ脇、ギルドの裏庭へと続く小路。
そこにある小さな野外調理台の前で、無精髭の冴えない中年男――バルツが、鉄のフライパンを振るっていた。
その隣には、大剣を背負って元気に薪をくべている茶髪の少年ティオと、尻尾をブンブン振ってフライパンを見つめている猫耳の少女ニーナの姿があった。
「よし、火加減はこんなもんだな。ティオ、薪はそれ以上足すな。弱火で余熱を通す」
「はいッ、おっちゃん!」
「ニーナ、パンは焼けたか?」
「ふんす! 炭火でこんがりキツネ色に焼けたニャ! 外側カリカリニャ!」
フライパンの中でジュウジュウと音を立てていたのは、親指ほどの大きさをした、ぷっくりと白く透き通る楕円形の塊――《蜜溜まり大蜂》の幼虫だった。
バルツは自生する有塩バターの塊を落とし、弱火でじっくりとソテーしていた。
幼虫の表面が薄い黄金色に色づき、パンパンに張った薄皮の隙間から、まるで極上のミルクのような甘い油が滲み出ている。
バルツは焼き上がった平焼きの丸パンを皿に並べると、その上にソテーした蜂の子を豪快に盛り付けた。
そして仕上げに――
木の器から、琥珀色に輝く【完熟の巣蜜】を、木べらでたっぷりとすくい上げた。
蜜蝋の六角形の巣ごと、トロリと熱々の蜂の子とパンの上へ垂らす。
ジュワッ……!
熱いバターと冷たい蜂蜜が触れ合った瞬間、立ち上る白い湯気。
焦がしバターの塩気と、完熟蜂蜜の濃厚な甘美が混ざり合い、もはや周囲の空気を歪ませるほどの香気となって炸裂した。
「ほ……ほ、ほ……っ!」
シェリルは四つん這いになっていた。
エルフの高貴なプライドなど、猛烈な胃袋の叫びの前に塵芥となって消え去っていた。
ガサガサと落ち葉をかき分け、涎を垂らしながら、吸い寄せられるように調理台へと這い寄っていく。
「ほ……『蜂の子』……ですって……!? エルフの……エルフの私が、虫など……そんな野蛮なものを……口にするわけが……わけが……!」
「おや、客か?」
バルツが気づいて視線を向けた。
足元に這いつくばり、青白い顔でフライパンを凝視している銀髪のエルフ少女。
その腹が、再びぐうううううっ!と爆音を轟かせた。
「おいおい、すごい音だな。姉ちゃん、行き倒れか?」
「だ、誰が行き倒れですか……! 私は……王都王立魔導学院の……首席……候補……うっ、めまいが……」
「魔力欠乏(ガス欠)だな。顔が真っ青だ。体内の糖分も魔力もスッカラカンじゃねえか。……ほら、座れ。死なれたら寝覚めが悪い」
バルツはシェリルの襟首をひょいと掴むと、丸太の椅子の上に座らせた。
そして、出来立ての【アンバー・ホーネットの蜂の子ソテー&黄金巣蜜がけパン】の皿を、シェリルの目の前へトンと置いた。
「た、食べませんよ……! 言っておきますが、私には選ぶ権利が――」
「冷めるとバターが固まるぞ。熱いうちにいけ」
目の前に突きつけられた、黄金の皿。
カリカリに焼けたパンの上で、ぷるぷると震える蜂の子。
溶け出したバターと蜂蜜が混ざり合い、黄金色のソースとなってパンの生地へとジュワジュワ染み込んでいる。
暴力的な甘い香りが、シェリルの鼻孔を直接蹂躙した。
喉が、ゴクリと激しく鳴る。
指先が、勝手に動いていた。
「あ、あ、頭が……勝手に……手が……っ!」
シェリルは震える指先で、蜂の子が乗ったパンの一角を千切り取った。
そして――目を固く閉じたまま、口の中へと放り込んだ。
瞬間。
チュドンッ!!!!!!
シェリルの脳内で、特大の爆発魔法が炸裂したような衝撃が走った。
「――っっっ!?!?!?!??!?!」
プチンッ!
前歯で噛んだ瞬間、蜂の子の極薄の皮が弾けた。
中から飛び出してきたのは、生臭さなど微塵もない、驚くほど濃厚でクリーミーな「甘いミルクの塊」だった。
白子とエビを掛け合わせ、そこに最高級の生クリームを溶かし込んだかのような、圧倒的なコクと旨味。
そして、そこに間髪入れずに襲いかかってくる、焦がしバターの芳醇な塩気と、完熟巣蜜の濃密な甘美!
熱々のソースをたっぷりと吸い込んだパン生地が、噛むたびにジュワッ、ジュワッと極上の甘じょっぱい旨味を口内へ溢れ出させる。
蜜蝋のサクサクとした心地よい食感が、単調になりがちな甘みの中に最高のアクセントを加えていた。
「な……ななな、なんですか、これはぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!?!?!?」
シェリルは目を見開き、椅子から飛び上がった。
虫!? これが虫ですって!?
王都のどんな高級パティスリーの菓子よりも、宮廷料理人の作るどんなテリーヌよりも、遥かに高貴で、遥かに暴力的で、魂が震えるほどに美味い!!
さらに、飲み下した瞬間――
カアアアアッ!と、体内の魔力回路が、眩い光を放って再起動した。
蜂の子が蓄えていた高純度の生命エネルギーと、世界樹の原生林の花々から集められた完熟蜂蜜の超濃縮糖分。
それが干からびていたシェリルの魔力プールへダイレクトに注ぎ込まれ、干上がった大地に大雨が降るかのように、全身へ魔力が満ち満ちていく。
指先の痺れが消え、視界の白みが吹き飛び、青白かった頬が瞬く間に桜色へと染め上がった。
「ふにゃあああああああああんっっっ……!!!」
シェリルの口から、エルフの淑女が決して出してはならない、情けない嬌声が漏れた。
理性が、完全に融解した。
両手でパンを鷲掴みにし、大きな口を開けてかぶりつく。
モグモグ、ハフハフ、ゴクン!
口の周りに黄金色の蜂蜜とバターをつけながら、夢中で皿の上のご馳走を平らげていく。
「おいしい……っ! おいしいです、これ……っ! 甘くて、しょっぱくて、クリーミーで……私、こんな美味しいもの、生まれて初めて食べましたぁぁぁ……っ!!」
あっという間に平らげ、皿の底に残った蜂蜜のソースまで、指ですくってペロリと舐め尽くす。
最後の一滴を味わい尽くすと、シェリルはトロンとした至福の瞳で、ぽわんと熱い息を吐き出した。
「ふふ……ふふふ……。天国です……。ここは天国だったのですね……」
「天国じゃなくてギルドの裏庭だ。……綺麗に食ったな、姉ちゃん」
バルツが木椀に入れた温かい茶を差し出す。
シェリルは両手でお茶を受け取り、ズズッとすすって一息ついた。
そして、ハッと我に返り、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「し、失礼いたしました……! 私としたことが、取り乱してしまい……! し、しかし、感謝いたします! このご恩は必ず――」
「恩なんていいよ。お前さん、魔力の使い方が極端すぎるんだ。放出するばかりで、補給の仕方を知らねえ」
「えっ……補給……?」
「強力な魔法を撃つってことは、それだけ自分の身体の脂と糖を燃料にしてるってことだ。空っぽの胃袋で魔法を撃ちゃ、倒れるのは当たり前だろ。魔力を補給したいなら、高濃度の魔力を蓄えた魔物を、正しく調理して胃袋に届けてやらなきゃならん」
バルツは煙草をふうと吐き出し、シェリルをまっすぐに見つめた。
「お前さんの魔力は欠陥なんかじゃない。ただ、燃費に見合う『極上のメシ』を食ってこなかっただけだ」
――欠陥なんかじゃない。
王都で誰一人として言ってくれなかった言葉。
「無能」「出来損ない」と切り捨てられた自分の力を、この男は、あっさりと肯定してくれたのだ。
シェリルの青い瞳に、じわりと大粒の涙が浮かんだ。
そして――
「あ、あのっ!」
「ん?」
「お、おかわりは……ありますでしょうか……!?」
「……そっちかよ」
バルツが盛大にずっこけた。
こうして、破れた毛皮の猫耳少女、ぎっくり腰の大剣使い少年に続き、極度のアホの子エルフ魔導師までもが、バルツの胃袋掌握の網にかかったのである。




