第003話:骨を継ぐ豚骨シチューと、少年が流した大粒の涙
木椀の縁から、熱々の白い液体が唇を潤した瞬間。
ティオの全身の産毛が、一斉に逆立った。
「――っっっ!!!!」
ズズッ、と一口すすっただけだった。
それなのに、口の中に広がる世界の濃度が、これまでティオが生きてきた16年間の食事とまるで違っていた。
舌の上に広がるのは、暴力的とすら言える濃厚な獣骨の旨味。
青首突進猪の極太の大腿骨――魔境の過酷な泥濘を時速で疾走するために極限まで鍛え上げられたその骨の空洞には、純度の高い骨髄がぎっしりと詰まっている。
それを3時間、灰汁を丁寧に掬い取りながら強火で煮立たせることで、骨のカルシウムとコラーゲンが完全に乳化し、まるで生クリームのようにクリーミーで濃密な白湯スープへと昇華していた。
しかも、嫌な獣臭さは欠片もない。
スープの中に散らされた、野生の野蒜の若葉。シャキシャキとした爽快な歯ざわりと、ピリッとしたネギ科特有の辛味が、濃厚な豚骨の脂を完璧に包み込み、後味を驚くほど清涼なものに仕立て上げていた。
「な……なんだこれ……! うまっ……うまい……ッ!!」
ティオはもう、止まらなかった。
椀に顔を突っ込むようにして、ゴクゴク、ゴクゴクとスープを喉へ流し込む。
熱い液体が食道を通って胃袋へ落ちるたび、冷え切っていた腹の底から、カッと炎が燃え上がるような熱気が広がっていく。
手足の先の冷えがみるみるうちに温かい血で満たされ、麻痺しかけていた指先に力強い感覚が戻ってくるのが分かった。
「慌てるな、噛んで食え。中に角煮も沈めてあるぞ」
隣でバルツが、煙草を燻らせながら穏やかに笑う。
ティオはスープの中に沈んでいた、拳大もある巨大な塊肉を木のスプーンで掬い上げた。
飴色に輝く、分厚い角煮。
赤身と脂身が美しい三層の縞模様を描いており、スプーンを軽く押し当てただけで、繊維がほろりと崩れ落ちそうになっていた。
「こ、これ……こんなでっかい肉、俺なんかが食っていいのかよ……!?」
「いいから口に放り込め。肉の繊維ってのはな、煮込む前に筋膜を丁寧に外してやれば、歯がいらないくらい柔らかくなるんだ。煮崩れさせずに芯まで熱を通すのが、解体士の腕の見せ所よ」
ティオは角煮を口いっぱいに頬張った。
ハフッ、ジュワッ!
前歯を立てる必要すらなかった。
唇で挟んだ瞬間、表面の脂身が体温でトローリと溶け崩れ、極上のナッツのような芳醇な甘みとなって舌の上を滑り落ちていく。
そして赤身。幾重にも重なった肉の繊維の隙間から、閉じ込められていた肉汁と、岩塩と香草酒のタレが、洪水のように溢れ出してきた。
噛むごとに、肉が解けていく。
繊維の一本一本に豚骨スープの旨味がしっかりと染み込んでおり、脂の甘み、赤身の力強いコク、そして野蒜の爽やかな風味が、完璧な三重奏を奏でて脳天を突き抜けた。
「ふぐっ……んんんんんーーーーーーッッッッ!!!!」
ティオの喉から、声にならない絶叫が漏れた。
あまりの美味さに、全身が震えた。
王都にいた頃、貴族の館で出されたどんな贅沢な料理よりも、いまこの泥だらけの路地裏で貪っている一杯のスープの方が、遥かに、圧倒的に美味い。
命そのものを胃袋に直接流し込まれているような、圧倒的な活力の奔流。
さらに、驚くべき変化がティオの肉体に起きていた。
スープを飲み干し、角煮を最後の一欠片まで飲み下したその時――
ジーン……と、激痛で動かせなかった腰の奥深くが、温かい脈動を打ち始めたのだ。
「あれ……? 腰が……?」
ティオがおそるおそる手を伸ばし、激痛が走っていた背骨の根元に触れる。
熱い。まるで良質な温泉に浸かっているかのように、患部がポカポカと温まり、痙攣していた筋肉の強張りがスルスルと解けていく。
骨と骨がギシギシと擦れ合っていた嫌な軋みが消え、関節の間に分厚いクッションが滑り込んだかのように、痛みが急速に引いていったのだ。
「驚いたか? それが『豚骨』の力だ」
バルツは空になった木椀を受け取ると、懐から手ぬぐいを出してティオの泥だらけの額をポンポンと拭ってやった。
「青首突進猪ってのはな、毎日あの硬い泥地を猛スピードで走り回ってる。だから関節を守るための軟骨成分と、骨を強化するためのコラーゲンが、他のモンスターの10倍以上凝縮されてるんだ。それを正しい下処理で抽出し、胃袋に届けてやれば、人間の壊れかけた関節の隙間を埋める最高の特効薬になる」
「特効薬……! 薬草風呂なんかより、ずっと効いてる……!」
「当たり前だ。外から撫で回すより、腹の中から治すのが一番早い。生き物の身体ってのは、食べたものでしか作られないんだからな」
バルツの言葉が、ティオの胸に深く、深く突き刺さった。
『金色の暁』にいた頃、エドガーたちはいつも言っていた。
「メシなんてポーションと乾パンで十分だ」「時間を無駄にするな、ダンジョンへ潜れ」と。
固い乾パンを水で流し込み、腹が減れば粗悪な栄養剤を煽って、ただがむしゃらに大剣を振り回していたティオ。
だから骨が痩せ細り、筋肉が悲鳴を上げ、たった一度の激突で腰を壊してしまったのだ。
ティオの肉体を壊したのは、モンスターではない。
無知と、食事を軽視する傲慢さだった。
「おっちゃん……俺……俺さ……」
ティオの視界が、ぐしゃりと歪んだ。
痛みが引いたはずなのに、今度は胸の奥が熱くて苦しくて、どうしようもなくなった。
ボロボロと、大粒の涙が止まらなくなる。
泥だらけの頬を涙が筋を作って流れ落ち、石畳を濡らした。
「エリートたちに、荷物持ちって馬鹿にされて……腰を壊したらゴミみたいに捨てられて……。俺、もう冒険者なんてやめるしかないって……ここで野垂れ死ぬんだって思ってた……ッ! 悔しくて……情けなくて……っ!」
ティオは両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
誰にも言えなかった絶望。父の名誉を取り戻したかった焦り。努力がすべて無駄になったという虚無感。
そのすべてが、一杯の温かい豚骨スープによって溶かされていく。
「泣く暇があったら、立ち上がってみな」
バルツが静かに言った。
ティオは涙をぬぐい、おそるおそる地面に両手をついた。
さっきまでは、ピクリと動かすだけで激痛が走っていた腰。
だが今は――スッと、何の引っかかりもなく、背骨が立ち上がった。
足に力を入れる。
グッと踏みしめた足裏から、大地の感覚が力強く伝わってくる。
立てた。
痛みはない。むしろ、スープを飲む前よりも、下半身の芯にドシリとした重厚な安定感が宿っていた。
「た……立てた……! 俺、立てたよ、おっちゃん……!」
「おう。だが、まだ完治したわけじゃねえぞ。急激に栄養が行き渡っただけだ。あと三日は無理な素振りをすんな。大剣は……そうだな、背負うくらいなら問題ねえ」
バルツは泥水の中に落ちていたボロボロの大剣をひょいと拾い上げた。
身の丈ほどもある重厚な鉄の塊。男二人分以上の重量がある剛剣を、バルツはまるで軽い木の枝でも扱うように片手で持ち上げ、鍔の獅子の紋章に一瞬だけ目を留めた。
だが、何も言わず、ティオの背中へと手渡した。
「ほら、お前の相棒だろ。泥を拭いてやれ」
「う、うん……!」
大剣を背負ったティオの心に、一つの確信が宿っていた。
このおっさんは、ただの解体屋じゃない。
エドガーたちのような、表面だけの派手なスキルを振りかざす連中とは次元が違う。
骨の仕組み、筋肉の仕組み、そして命の巡りを誰よりも知り尽くした、本物の達人だ。
ティオは石畳の上に両膝をつき、深々と頭を下げた。
「おっちゃん! お願いだ、俺に弟子入りさせてくれ!!」
「はあ? また弟子かよ……」
バルツが心底めんどくさそうに顔をしかめた。
だが、ティオは顔を上げ、燃えるような眼差しでバルツをまっすぐに見つめた。
「俺、強くなりたい! 誰かに押し付けられた力じゃなくて、自分の骨と筋肉で、本物の強さを身につけたいんだ! 大剣の振り方も、飯の食い方も、獲物の捌き方も、全部おっちゃんから学びたい! 荷物持ちでも雑用でも薪割りでも、何でもやるから……お願いだ、俺を弟子にしてくれ!!」
真摯で、愚直な叫び。
裏庭の樫の木が、秋風にサワサワと葉を揺らした。
バルツは無精髭をぽりぽりと掻き、やれやれと長いため息を吐き出した。
「昨日も変な猫耳の小娘に同じこと言われたばっかりなんだがなあ……。ったく、なんでこう、落ちこぼればっかり俺のところに集まってくるんだか」
「えっ、猫耳の小娘……?」
「まあいいや。薪割りならちょうど手が足りてねえ。腹が減ったら作業小屋に来な。……ただし、飯の好き嫌いは許さんぞ」
「はいッ! よろしくお願いします、師匠!!」
「師匠はやめろ、背中が痒くなる。『おっちゃん』で十分だ」
バルツは空の木椀を小脇に抱え、のんびりとした足取りで裏庭へと歩き出した。
ティオはその背中を、憧れと熱情に満ちた目で見送った。
だがその時、二人はまだ知らなかった。
砦の正面大通りで、さらにもう一人の「規格外の落ちこぼれ」が、飢餓と絶望の淵で行き倒れているということを――。




