第036話:野蒜(のびる)の香草仕立てと、とろ火の煮込み準備
清流のせせらぎが心地よく響く川沿いの土手。
そこには、秋の豊かな実りをたたえた野生のハーブや山菜が、群生を作って青々と茂っていた。
冷たい川風が土手を撫でるたび、スーッとするような清涼な香りと、大地の力強いアロマが鼻腔をくすぐる。
「シェリル姉ちゃん、見て見て! ここ、すっごくたくさん生えてるニャ!」
ニーナが草むらに顔を突っ込み、フェネックの大きな耳をピコピコと揺らしながら手招きした。
ニーナの指先が指し示していたのは、細長い青ネギのような葉の根元――土を軽く掘り返すと現れる、親指大の白く丸い鱗茎だった。
野生の野蒜。
ニンニクとタマネギを足して二で割ったようなツンと心地よい刺激臭を持ち、熱を通せば濃厚な甘みと旨味へと変化する、山野の天然のスパイスだ。
「まあ、立派な野蒜ね! 土が柔らかいから、球根が傷つかずに綺麗に掘り出せるわ」
シェリルが細い指先で丁寧に土を払い、真っ白な野蒜の根元を麻袋へと収めていく。
バルツから教わった知識が、シェリルの頭に浮かんでいた。
野蒜に含まれる特有の辛味成分『アリシン』は、強力な殺菌作用を持つだけでなく、豚肉や猪肉に豊富に含まれる『ビタミンB1』と結合してアリチアミンとなり、体内への吸収率を10倍以上に跳ね上げるのだ。
激しい戦いで酷使したティオの腰の筋肉や、自分たちの疲労回復には、これ以上ない最高の天然サプリメントだった。
さらにその隣には、鮮やかな緑色をした野生のクレソンと、節くれだった黄金色の根を持つ野生のショウガモドキが群生していた。
ショウガモドキの根を爪で軽く削ると、ピリッとした爽快な芳香が立ち上り、鼻の奥を心地よく刺激する。
「野蒜にショウガモドキ、それにこの清流クレソン……! バルツ先生が言っていた通り、脂の乗った猪肉の臭みを消して、旨味を何倍にも引き立ててくれる最高の薬味たちが揃ったわね」
「うんニャ! おじちゃんに言われた分、いっぱい採れたニャ! 早く戻ってお肉を煮込もうニャ!」
二人が戻った川辺の野営地では、すでにティオとバルツによって、肉の下準備が完璧に整えられていた。
河原の平らな大岩の上に、5センチ角のサイコロ状に切り分けられた猪のバラ肉のブロックが、整然と並べられている。
赤身と脂身が美しい三層のグラデーションを描き、切り口からは澄んだ肉汁がキラキラと光を反射していた。
ティオの手際が見事だった。
筋膜の走行を見極め、繊維を断ち切るように垂直に刃を入れているため、煮込んだ時に熱が芯まで均一に通り、肉がホロホロに崩れやすくなる工夫が施されていた。
「おう、いい薬味を採ってきたな」
バルツが焚き火の熾火を平らにならし、その上に大きな黒塗りの鋳鉄寸胴鍋を据え付けた。
まずは鍋を空焚きし、鍋肌から煙がうっすらと立ち上った瞬間――。
ジュウウウウウウウッッッッ!!!!
ティオが切り分けた猪のバラ肉のブロックが、鍋底へと投入された。
激しい音と共に、濃厚な獣脂の香ばしい蒸気がブワッと広がる。
油は一切引いていない。
猪肉自身の分厚い皮下脂肪から、まるで透明な蜜のようにサラサラとした天然のラードが溶け出し、鍋肌を滑らかに満たしていく。
香ばしい焼き色が、肉の六面全体に均一についていく。
「表面を強火でサッと焼き固める。これが第一の関門だ」
バルツが長い鉄の箸で肉をリズミカルに転がしながら解説する。
「メイラード反応ってやつだな。肉の表面のアミノ酸と糖が熱で結びつき、香ばしい焼き目を作る。この焼き目が壁となって、肉の内部にある旨味成分のアデノシン三リン酸(ATP)やグルタミン酸がスープの中に逃げ出すのを防ぎ、ジューシーさを閉じ込めるんだ」
全面にきつね色の美しい焼き色がついたところで、バルツは一旦火から鍋を外した。
そして、底に溜まった余分な脂を別の陶器の壺へと手早く移す。
この透明な脂は、冷えれば最高級の純白ラードとなり、今後の料理や保存食の炒め油として重宝するのだ。
無駄なものは一切捨てない。
「よし、煮込みに入るぞ。シェリル、清流の水を鍋に注げ」
「はいッ!」
シェリルが手桶から汲んできた冷たい雪解け水を、ザバッと鍋に注ぎ入れる。
さらに、先ほど採ってきたばかりの野蒜の白い鱗茎を丸ごと放り込み、スライスしたショウガモドキ、乾燥ローリエに似た原生林の香草葉、そして大粒の天然岩塩をパラパラと振り入れた。
極め付けは――バルツが懐から取り出した、飴色のガラス瓶だった。
「おっちゃん、その酒は?」
「俺特製の【熟成香草酒】だ。麦の蒸留酒に、魔境の高山にしか咲かねえ薬草の根と、野イチゴの果実を三年漬け込んだもんだ。……こいつをひと回し入れる」
トクトクトク……と琥珀色の酒が注ぎ込まれた瞬間、湯気の色が一変した。
アルコールが熱で蒸発するのと共に、猪肉の野性味とハーブの清涼感、そして熟成酒の芳醇な甘い果実香が完璧に一体となり、暴力的なまでの食欲をそそる香気が立ち上った。
「うわあああ……っ! まだ煮込んでないのに、もう美味しそうニャ……!」
「ここからが本番だ。……シェリル、お前の出番だぞ」
バルツが鍋の蓋をしっかりと閉め、シェリルを手招きした。
「猪のバラ肉は、コラーゲン(膠質)の塊だ。これを柔らかくゼラチン化させるには、長時間の熱が必要だが……決してグラグラと沸騰させちゃいけねえ。強火で煮立てると、赤身のタンパク質が急激に収縮してゴムまりのように硬くなり、水分を全部吐き出してパサパサになっちまう」
「はい! 弱火の極意ですね!」
シェリルは胸を張り、樫の木の杖を鍋底の熾火へと向けた。
あの野営地で会得したで会得した「マナブレス調和呼吸」。
シェリルは杖を通じて、熾火の温度を感知する。
強すぎず、弱すぎず。
鍋の内部の温度がおよそ八十五度から――沸騰直前の「とろ火」の状態を、極小のマナで完全にコントロールする。
フツ、フツ、フツ……と、鍋肌から小さな気泡が静かに立ち上るだけの、完璧な弱火。
煮込み始めて三十分ほど経つと、スープの表面にわずかな灰汁が浮いてきた。
それを見逃さず、ニーナが木のお玉ですくい取っていく。
「アクは、肉の中に残っていた余分な血液や不純物ニャ。こまめにすくってあげると、スープが濁らず、すっきり透き通った味になるニャ!」
「よく覚えてるな、ニーナ。その几帳面さが料理を一段上に引き上げるんだ」
バルツに褒められ、ニーナは照れくさそうに笑いながら、熱心にアク取りを続けた。
ティオはその間に、焚き火の周りに人数分の丸太の椅子を並べ、深底の木製ボウルとスプーンをピカピカに磨き上げて待機している。
「この火加減を維持したまま、じっくり3時間煮込む。……コラーゲンが完全に溶け出し、赤身の繊維の隙間にゼラチンが染み渡るのを待つんだ」
「お任せください、バルツ先生! この火の番、絶対に途切らせません!」
シェリルが真剣な翡翠の瞳で火を見守る。
西の空が茜色から深い藍色へと移り変わり、森に夕闇が降りてくる。
原生林の夜風は冷え込みを増していたが、小川のほとりの野営地には、焚き火の温かなオレンジ色の光と、鍋の隙間から漏れ出す極上の甘辛い香りが、幸せそうに立ち込めていた。
お腹を空かせた弟子たちの期待が、夜空の星のようにキラキラと輝く中――。
3時間が経過した。
バルツが立ち上がり、革の手袋をはめて寸胴鍋の重い蓋の取っ手に手をかけた。
「よし……時間だ。三人とも、器を構えろ」
待ちに待った奇跡の晩餐の幕が、今、静かに上がろうとしていた。




