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第035話:雪解け水での急速放血と、分厚い筋膜の削ぎ落とし

戦闘の余韻が冷めやらぬ焦土から、わずか数10メートル離れた場所。

 そこには、北嶺の雪山から原生林へと注ぎ込む、透き通った清流の浅瀬が広がっていた。

 水底の丸石が数えられるほど澄み切ったその水は、手を浸せば数秒で指先がかじかむほどに冷たく、水温はおよそ四度。

 この冷たさこそが、猪肉を極上の食材へと昇華させるための、自然がくれた最高の天然冷蔵庫だった。


「三人とも、よくやった。まずはこれを一杯飲んで、息を整えろ」


 バルツは焚き火の温かい湯沸かし鉄瓶から、野草茶を木製カップに注ぎ分けて手渡した。

 カモミールと自生ミントがふわりと香る温かい湯気が、張り詰めていた三人の神経を優しく解きほぐしていく。


「ふう……っ、温かいニャ……生き返るニャ……」

「戦いの直後はアドレナリンで痛みを感じねえが、筋肉には微細な筋断裂が起きている。温かい水分で老廃物を流し、冷水で手首や足首を冷やす。自分の体をメンテするまでが狩人の仕事だ」


 弟子たちの体調を確かめると、バルツは腕まくりをして清流の縁に立った。


「よし、体を休めたら運搬だ。獲物の体温が逃げ切る前に、冷水へ沈めるぞ」

「せーのっ、よいしょおおおっ!」


 ティオが太い丸太をテコにし、身の丈の大剣の平を滑り止めにしながら、五百キロの巨猪を軽々と引き上げた。

 そこへシェリルが杖をひと振りし、猪の胴体の下に厚さ数センチの滑らかな「氷のソリ」を瞬時に生成する。

 摩擦を失った巨猪は、小川の浅瀬へとツルツルと滑り落ち、ジャブンと音を立てて清流に浸かった。


「ふう……! 重い荷物も、テコの原理とシェリル姉ちゃんの氷があれば、力を使わずに運べるんだな!」

「ええ! 私の氷が、こんな風にお肉の運搬に役立つなんて思いもしなかったわ!」

「大したもんだ。段取り八分、仕事二分ってな。狩りと同じで、運搬も知恵を使えば腰を痛めずに済む」


 バルツは長靴を清流に浸し、腰の道具袋から取り出したのは、刃渡り20センチほどの細身で鋭利な【放血小刀】と、一本の太い竹筒だった。

 竹筒の先端は斜めに鋭く削がれている。

 バルツは横たわる猪の胸元にしゃがみ込み、前足の付け根と首の境目――胸骨の窪みを指先でトントンと叩いた。


「三人とも、よく見ろ。ここが獲物の命を『料理』に変える一番の分かれ道だ」


 バルツの声に、ティオ、シェリル、ニーナの三人が身を乗り出して覗き込んだ。


「ニーナの脳締めで中枢神経は切断されたが、獲物の心臓はまだ完全に停止したわけじゃねえ。自律神経の微弱な拍動――最後の痙攣のような収縮運動が、あと数分間だけ体内で続いている。……この微弱なポンプ運動が残っているうちに、血を抜き切るんだ」

「心臓が動いているうちに……ですか?」


 シェリルが尋ねる。


「そうだ。心臓が完全に止まっちまうと、血は全身の毛細血管の中にドロドロに滞留し、肉の繊維の奥深くに赤黒く固まっちまう。血の中に含まれるヘモグロビンと鉄分が酸化すると、肉のミオグロビンと反応して、あの耐え難い『獣臭さ』と『生臭さ』を生み出すんだ。エリートどもの雑な狩りじゃ、獲物をその場で放置するから血が抜けず、どんなに高級な調味料を使っても泥臭い肉にしかならねえ。……だが、今ここで頸動脈と大静脈を開通させれば、心臓自身の最後の収縮力で、全身の血が外へと綺麗に押し出される」


 バルツは放血小刀の切先を、胸骨の窪みから斜め上――心臓と首を繋ぐ血管のジャンクション(分岐点)へとスッと差し込んだ。

 骨と筋肉の隙間に刃が吸い込まれ、手首をキュッと半回転させる。

 次の瞬間、切開口からトクトクと勢いよく赤黒い血が溢れ出した。

 バルツは即座に斜めに削った竹筒を切開口へと差し込み、血の噴流を誘導した。

 噴き出した血は、竹筒を通って直接清流の急流へと注ぎ込まれ、透き通った水に薄められて下流へと瞬時に押し流されていく。

 周囲の泥や肉の表面を汚すことは一切ない。


「さらに、この雪解け水で冷やすのが肝心だ。猪の体温はおよそ三十九度。そのままにしておくと、分厚い皮下脂肪に熱がこもり、肉が己の体温で蒸れて酸化しちまう。いわゆる『肉の焼け』だ。だが、この水温四度の清流に浸しながら血を抜けば、外側からも内側からも一気に冷却され、肉の繊維がギュッと引き締まり、脂の融点が下がって臭みが完全に消える」


 わずか五分ほどで、竹筒から流れ出る液体は透明な組織液へと変わり、放血が完全に終了した。

 猪の皮膚を触ると、先ほどまで熱を帯びていた筋肉が、まるで冷たい絹のようにひんやりと引き締まっていた。


「血抜き完了だ。……次は、鎧の皮剥ぎだぞ」


 バルツが道具袋から抜き放ったのは、三日月の形をした幅広の刃を持つ【皮剥ぎ半月刀】だった。

 泥と松脂でガチガチに固まった猪の皮膚。

 普通ならノコギリでも使わなければ切れないような分厚い皮だが、バルツは下腹部の皮膚の薄い部位にチョンと切れ込みを入れると、半月刀の丸みを帯びた刃を、皮と筋肉の間にある「白い筋膜の層」へと滑り込ませた。


 スーッ……。


 耳に心地よい、絹を裂くような微かな音。

 バルツの手首はほとんど動いていない。

 刃の重みと、筋膜の繊維が自然に裂けたがっている方向へと小刀を預けているだけ。

 すると、まるで糊付けされた上質紙を剥がすかのように、あのゴムタイヤのように硬かった分厚い剛毛の皮が、ペラリと一枚のシートとなってめくれ上がっていった。


「「「うわああっ……!」」」


 三人の口から、感嘆の息が漏れた。

 剥がされた皮の下から現れたのは――泥まみれの獰猛な外見からは想像もつかないほど、息を呑むほど美しい「肉」の姿だった。


「き、綺麗ニャ……! これ、本当にさっきの泥猪のお肉ニャ!?」


 ニーナが目を丸くして身を乗り出した。

 透き通るような純白の皮下脂肪。

 その下には、まるで咲き誇る桜の花びらのように鮮やかなピンク色の赤身肉が広がり、筋肉の繊維の間には、細やかな白い網目状のサシ(霜降り)が美しく入り込んでいた。

 ドリップ(肉汁の滲み出し)は一滴もなく、表面はみずみずしく光を反射している。

 泥臭さなど微塵もない。

 森の木の実や自生ハーブをたっぷりと喰んで育った健康な猪特有の、甘く清々しい野性のナッツのような香りが、冷たい川風に乗ってふわりと漂っていた。


「これが、極上の猪のバラ肉とロース肉だ」


 バルツが満足そうに頷き、半月刀の背で脂身を軽く叩いた。

 プルンと弾力のあるゼラチン質が震える。


「泥濘の冷たい泥に耐えるために、この猪は上質の脂をたっぷりと蓄えている。特にこのバラ肉の肉……赤身と脂身が綺麗な三層になってるだろ? こいつを分厚く切り出して、じっくり煮込んでやりゃあ……歯が要らねえくらいトロトロの角煮になるぞ」

「か、角煮……ッ!」


 ティオの喉が、ゴクリと激しく鳴った。

 シェリルもニーナも、お腹の虫が「ぐううぅぅぅ」と合唱を始めている。

 過酷な戦いを終えた弟子たちの胃袋は、極上の獲物を前にして、すでに限界まで刺激されていた。


「さあティオ、肋骨の間の切り分けをやってみろ。【骨割り剛刀】の切先で骨の軟骨結合部を探れ。力で叩き切るなよ」

「はいッ! 骨の隙間に、刃を落とす……!」


 ティオが剛刀を構え、肋骨の継ぎ目に刃をスッと添えると、驚くほど抵抗なくサクッと軟骨が外れ、大きな骨付きバラ肉のブロックが切り出された。

 切り口からは美しいピンク色の肉汁が滴り、脂の甘い香りが立ち上る。


「よし、完璧だ。肉の切り出しはティオ、お前に任せるぞ。シェリルとニーナは、土手に行って『香草』と『薬味』を採ってこい。……今日の晩飯は、原生林の恵みを丸ごと煮込んだ特製シチューだ!」

「「「はいッ!!」」」


 泥濘の森に、再び落ちこぼれたちの明るい笑顔が弾け飛んだ。

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