第037話:【実食】青首突進猪のゴロゴロ角煮と野蒜のタレ煮込み
パカッ……。
重厚な鋳鉄寸胴鍋の蓋が、バルツの手によってゆっくりと持ち上げられた。
その刹那――。
ボワッッッッッッ!!!!
夜の原生林の静寂を吹き飛ばすかのような、圧倒的な香気の爆風が立ち上った。
それは、ただの料理の湯気ではなかった。
3時間もの間、弱火でじっくりと凝縮され続けた猪の極上バラ肉の獣脂の香ばしさ、野蒜のツンとした食欲を刺激するアロマ、ショウガモドキの爽快な刺激、そして三年熟成の香草酒が醸し出すドライフルーツのような芳醇な果実香。
四重奏のように複雑に絡み合った至高の香気が、夜の冷気を一瞬で黄金色の熱気へと塗り替えた。
「「「う、うわああああああああっっっっ……!!!」」」
ティオ、シェリル、ニーナの三人が、同時に身を乗り出して鍋の中を覗き込んだ。
焚き火の炎に照らされた鍋底に広がっていたのは、まさに神の祝福を受けた奇跡の光景だった。
そこにあったのは、艶やかな飴色に輝く、5センチ角の巨大な角煮の山だった。
透き通るような飴色の皮下脂肪は、まるで高級な琥珀のゼリーのように光を反射し、鍋がわずかに揺れるだけで、ぷるん、ぷるん、と艶かしく波打っている。
その下にある赤身肉は、煮汁の深い旨味を芯まで吸い込み、木目のように繊細な繊維が今にも自重でほどけそうに緩んでいた。
丸ごと煮込まれた野蒜の白い鱗茎は、黄金色のタレを纏ってトロトロの半透明に透き通り、スープの表面には極上の純白ラードが宝石のような油滴となってキラキラと浮かんでいた。
「な……なんだこれ……! こんな角煮、王都の高級料理屋でも見たことねえぞ……!」
ティオが唾をゴクリと飲み込み、喉を激しく上下させた。
手にした深底の木製ボウルを差し出すと、バルツが大きな木のお玉で、ゴロゴロと巨大な角煮の塊を三つ、そしてトロトロの野蒜と濃厚な煮汁をたっぷりと注ぎ分けた。
仕上げに、先ほど清流の土手で摘んできたばかりの新鮮な野生クレソンを、青々としたアクセントとして山盛りに添える。
「さあ、冷めねえうちに食え。お前たちが自分の腕と知恵で勝ち取った、極上の獲物の命だ」
「「「いただきますッ!!!!」」」
三人の声が重なり、待ちきれないように木のスプーンが角煮へと伸ばされた。
ティオは、ボウルの中央に鎮座する一番大きな角煮のブロックに、スプーンの先を当てた。
力を入れる必要など、微塵もなかった。
スプーンの重みだけで――スッ……と、刃物のように角煮が真っ二つに割れた。
抵抗感ゼロ。
断面から、閉じ込められていた熱々の肉汁がジュワッと溢れ出し、濃厚な香草酒の香りが再び鼻腔を直撃する。
ティオはその半分をスプーンに乗せ、大きく開けた口の中へと放り込んだ。
「――――ッッッ!?」
その瞬間、ティオの瞳が見開かれ、全身が雷に打たれたかのように硬直した。
噛む必要すらなかった。
舌の上に肉が乗った瞬間、人肌の体温によって、ぷるぷるの脂身が一瞬でジュワッとサラサラの甘い蜜のように溶け広がったのだ。
脂っこさなど、微塵もない。
清流の雪解け水で急速冷却され、完全に血を抜き切った極上のラードは、驚くほど軽やかで、ナッツのような上品なコクだけを残して喉の奥へと滑り落ちていく。
そして赤身肉――。
3時間の弱火によって完全にコラーゲンがゼラチン化した赤身は、舌と上顎で軽く押し潰すだけで、ホロホロと繊維がほどけていく。
ほどけた繊維の一本一本から、野蒜の甘みと熟成酒のフルーティーな酸味、そして岩塩によって極限まで引き出された猪肉自身の野生の旨味爆弾が、怒涛の勢いで味蕾を蹂躙した。
「うっっっっっっっっっっっま!!!!!!!!」
ティオが頭を抱えて叫んだ。
「うまい! うますぎる!! なんだこれ、肉が……肉が舌の上で溶けて消えたぞ!? 角煮ってこんなに柔らかいものなのか!? 甘い脂とホロホロの赤身が混ざり合って、噛むたびにジュースみたいに肉汁が溢れてくるッ!!」
「ふにゃああああああっっっっ!! お、おじちゃん、これ、反則ニャーーッ!!」
隣でニーナが、フェネックの大きな耳をパタパタと狂ったように羽ばたかせながら、涙目で悶絶していた。
トロトロに煮込まれた野蒜の球根を口に含んだニーナは、あまりの甘さに尻尾を抱えて転がりそうになっている。
「野蒜が……野蒜がトロットロで、お芋みたいに甘いニャ! でも後からピリッと爽やかな辛味が来て、お肉の脂と一緒に食べると、いくらでもお腹に入っちゃうニャ! このクレソンのシャキシャキした苦味も最高ニャ! 無限に食べられるニャーッ!!」
「はふっ、ほふっ……んんん〜〜〜っっっ!!」
そしてシェリルは、もはや言葉を失っていた。
普段の気品あるエルフの魔導師の面影はどこへやら、両手で木製ボウルを抱え込み、熱々の角煮をハフハフと息を吹きかけながら夢中で頬張っている。
銀色の長髪が乱れるのも構わず、口の周りを艶やかなタレでいっぱいにしながら、琥珀色の角煮を次々と胃袋へと流し込んでいた。
「美味しい……! 生きててよかった……! 私、こんなに美味しいお肉、エルフの森の宮廷料理でも食べたことないわ! 弱火の魔力調整を頑張って本当によかった……! このトロトロのゼラチン、お肌がツルツルになっちゃう……!」
さらに、ティオが飯盒の蓋を開けた。
中には、清流の水でふっくらと炊き上げられた麦飯が、真っ白な湯気を上げて輝いている。
ティオは茶碗に麦飯を山盛りに装うと、その上に角煮を二切れ、そして鍋底からすくった黄金色の濃厚な煮汁をお玉一杯分、上から豪快にぶっかけた。
【特製・猪角煮丼】の完成である。
「うおおおおおおっっっ!! これだ! これをやりたかったんだ!!」
ティオは角煮を箸で軽く崩し、タレが染み込んだ熱々の麦飯ごと、口いっぱいに掻き込んだ。
米の一粒一粒に、肉汁と野蒜のタレが絡みつき、口の中で爆発的な至福を生み出す。
米を噛み締めるたびに、炭水化物の甘みと角煮の塩気と脂が融合し、脳の奥から快楽物質がドバドバと溢れ出てくる。
「かぁぁぁーーーっっっ!! 飯が進む!! 茶碗十杯いけるぞこれ!!」
「ティオ君ずるい! 私にもそのご飯とお肉乗っけてちょうだい!」
「あたしもニャ! タレ多めでお願いするニャーッ!!」
三人は木のスプーンを激しく動かし、巨大な寸胴鍋の角煮と飯盒の麦飯を、ものすごい勢いで平らげていった。
おかわり、おかわり、またおかわり。
五百キロの猪から切り出された数キロもの極上バラ肉が、若者たちの底なしの胃袋へと吸い込まれていく。
「がっつり食えよ」
バルツは角煮の小皿を肴に、熟成香草酒のグラスを傾けながら、目を細めた。
「猪のバラ肉の豊富なビタミンB1と、野蒜のアリシンが結びつけば、筋肉の疲労物質である乳酸は一晩で完全に分解される。さらに煮汁に溶け出した濃厚なゼラチン質は、ティオ、お前の腰の椎間板軟骨や関節包の潤滑油にそのまま変わる。……明日の朝には、背骨のバネが見違えるほど強くなってるはずだ」
「おっちゃん……! 飯を食うこと自体が、体を作る特訓になってたんだな……!」
「当たり前だ。狩人の体は、喰った獲物の命でできてるんだからな」
戦いの疲労も、過去の心の傷も、明日の不安も――そのすべてが、温かく濃厚な角煮の煮汁の中に溶け去り、明日への力強い活力となって満ちていく。
やがて全員の腹がぽんぽこりんに膨らみ、満ち足りた吐息が焚き火の周りに漏れ出した。
命を奪い、命を尊び、命を血肉に変える。
狩人として最も美しく、最も尊い時間が、秋の原生林の夜空の下で、温かく流れていた。




