第033話:ニーナの急所刺し! 耳の後ろの神速ピンポイント
「グルルルルッ……ブモオオオッ!」
泥の中に顎から突っ込んだ巨猪が、狂乱の形相で泥炭を吐き出しながら、四肢を激しくバタつかせていた。
時速の慣性で顎を強打したとはいえ、相手は体重五百キロを誇る魔境の巨獣。
その生命力と骨の頑丈さは尋常ではない。
黒い泥水を周囲十数メートルに撒き散らしながら、強靭な首の筋肉を強引に持ち上げ、再び四つ足で立ち上がろうと身悶えしていた。
もしここで立ち上がられれば、足元をすくわれた屈辱と怒りでさらに凶暴化し、手のつけられない暴走状態に突入してしまう。
だが――。
その巨猪の頭上、わずか数メートルの空間に、風を裂いて舞い降りる小さな影があった。
「タァァァッ!!」
フェネック獣人の斥候、ニーナだった。
小柄な体をキュッと丸め、大きな三角の耳を風になびかせながら、まるで梢から獲物を狙うヤマネコのように、無駄のない放物線を描いて巨猪の首筋へと音もなく着地した。
五百キロの巨獣の背中に乗った瞬間、猪が激しく体を震わせてニーナを振り落とそうと暴れる。
だが、ニーナの足裏の肉球は、泥で濡れた剛毛をガッチリとグリップし、荒れ狂う波に乗るように猪の背中の揺れを軽やかにいなしていた。
(慌てちゃダメニャ……! 力で刺そうとしたら、刃が滑って弾かれるニャ!)
ニーナは逆手に握った二本の【解体小刀】の柄を、指先でそっと確かめた。
脳裏に、かつてギルドで受けた屈辱の記憶がかすめる。
フェネック獣人族の少女。
華奢な骨格、成人男性の半分にも満たない腕力、短いリーチ。
エリート冒険者たちからは、いつだって冷笑されていた。
『おい猫耳、お前の細腕で何ができるんだ?』
『小刀なんかで突進猪の皮が切れるわけねえだろ! お前は罠の囮になって走ってりゃいいんだよ!』
初めて出会ったあの日、破れた兎の毛皮を抱えて泣いていたあの日。
自分は一生、誰かの足手まといのまま、森の片隅で野垂れ死ぬのだと本気で絶望していた。
だが――あの日、バルツは言ってくれたのだ。
『力がないなら、骨の隙間に刃を滑らせりゃいい。怪力で肉を叩き切るなんざ、ド素人の猿真似だ。身体の構造さえ知っていりゃ、小刀一本でどんな巨獣だって眠らせられる』と。
通常、《青首突進猪》の皮膚は、硬化した泥と松脂、そして密集した剛毛が何層にも重なり合い、まるで分厚いゴムタイヤのような防御力を誇っている。
並の冒険者がロングソードを力任せに叩きつけたところで、刃がボロボロに欠けるか、毛皮の表面で滑って弾き返されるのがオチだった。
ましてや、ニーナが持っているのは刃渡り15センチほどの薄身の解体小刀だ。
そんな小さな刃で、五百キロの巨獣の分厚い脂肪と筋肉を貫いて心臓を突くことなど、物理的に絶対に不可能だった。
だが――バルツの解剖学は、常識の斜め上を遥かに飛び越えていた。
「――生き物にはな、どんなに皮膚が硬かろうが、絶対に装甲をつけられねえ『隙間』がある」
老狩人の低くしゃがれた声が、ニーナの耳の奥で鮮明に再生される。
「猪の頭蓋骨は鉄のように分厚いが、首の骨――第一頸椎(環椎)と頭蓋骨の後頭顆の継ぎ目だけは、首を上下に動かすために必ず骨の隙間が空いてるんだ。場所は、耳の付け根の真後ろ。指で触ると、親指の爪ほどの小さな窪みがある。そこには頑丈な骨の盾がなく、延髄――脳と全身の神経を繋ぐ中枢が、無防備に露出してやがる」
さらにバルツは、その解剖学の神髄をこう教えていた。
「心臓を力任せに突いて殺せば、獲物は激痛で何分も暴れ狂う。すると全身の筋肉に乳酸が回り、旨味の元であるグルタミン酸やアデノシン三リン酸(ATP)が全部破壊されて、肉が酸っぱくパサパサになっちまう。……だが、延髄を一瞬で突けば、獲物は自分が死んだことすら気づかねえ。苦痛も恐怖も感じず、全身の筋肉がフッと脱力して即死する。死後硬直を遅らせ、肉の瑞々しさを完璧に閉じ込める……それが狩人の『脳締め』だ」
耳の付け根の、真後ろの窪み。
首を上下に動かすための、骨の継ぎ目。
ニーナの鋭敏な指先が、猪の右耳の裏側の剛毛をサッと掻き分けた。
あった。
激しく蠢く青い鱗状の筋肉の谷間に、わずか親指の先ほどの、プニリとした柔らかい窪み。
激怒した猪が頭部を持ち上げようとした瞬間、その窪みが、パカッと微かに開いたのだ。
頭蓋骨と第一頸椎の隙間――延髄へと直通する、神の定めた急所の門。
「ここニャッ!!」
ニーナは右手の解体小刀を、腕力で力任せに突き刺すのではない。
手首のスナップを完全に脱力させ、小刀の自重に自分の体重の落下エネルギーをわずかに添えるだけ。
スッ……と、切先をその窪みへと滑り込ませた。
ゴツンという骨の抵抗感は、一切なかった。
まるで、温かいバターの中に熱した銀の針を差し込むかのように――刃渡り15センチの研ぎ澄まされた刀身が、音もなく猪の後頭部の奥深くへと吸い込まれていった。
チクリ。
その瞬間、暴れ狂っていた五百キロの巨猪の動きが、ピタリと止まった。
ビクンッ! と一度だけ、全身の筋肉がピンと硬直する。
そして――。
フシュー……。
鼻孔から長い安らかな吐息が抜け出ると同時に、猪の全身を覆っていた猛烈な怒りと緊張が、まるで魔法が解けたかのようにスーッと消え去っていった。
四肢から完全に力が抜け、巨大な頭部が泥の上に静かに横たわる。
血の一滴すら外へ吹き出さない。
悲鳴の一つすら上げない。
苦痛に悶えて泥を掻きむしることもなく、まるで春の陽だまりの中で心地よい昼寝に落ちていくかのように――《青首突進猪》は、静かにその生命活動を停止させた。
「……ふうニャ」
ニーナは小刀をスッと引き抜き、刃先についたわずかな体液を腰の麻布で手早く拭った。
完璧な「脳締め(即殺法)」。
延髄と中枢神経を一瞬で切断したため、猪の脳は自分が傷ついたことすら認識していない。
恐怖も、苦痛も、怒りも感じていないため、筋肉に乳酸が回ることはなく、血管が破裂して肉が内出血で赤黒く濁ることもない。
命を奪うことに対する、狩人の究極の技術。
それは、獲物に対する最大の敬意であり、同時に肉の旨味を極限まで保つための最高峰の解体技術だった。
「おじちゃん! シェリル姉ちゃん! ティオ! あたしも上手にできたニャーッ!!」
絶命した巨猪の頭の上にちょこんと乗ったまま、ニーナはフェネックの大きな耳をピンと立て、両手でピースサインを作って満面の笑みを弾けさせた。
自慢げにパタパタと振られるフサフサの尻尾。
かつてギルドの片隅で、破れた兎の毛皮を抱えて泣いていた落ちこぼれの少女が、今や危険度Cランクの巨獣を一撃で無力化する一流の斥候へと成長していたのだ。
「うおおっ、ニーナすげえええっ!!」
右側で構えていたティオが、思わず歓声を上げた。
シェリルも杖を両手で掲げ、「素晴らしいわ、ニーナちゃん! 完璧な急所刺しよ!」と拍手を送っている。
「へへっ、骨の隙間さえ見えりゃ、どんな大物だって手玉に取れる。……よくやったぞ、ニーナ」
赤杉の巨木の陰から見守っていたバルツが、満足そうに顎髭を撫でながら目を細めた。
だが、その視線はすぐに右側の焦土へと鋭く向けられた。
「さあ、残るはあと一頭だ! ティオ、シェリル、ニーナ! 最後の獲物を三人で完璧に仕留めてみせろ!」
「「「おーッ!!」」」
三人の声が、今、完璧な一つの意志となって響き渡った。
恐怖に怯える新米たちは、もうどこにもいなかった。
互いの背中を信じ、技術と知識で自然の脅威に立ち向かう、真のパーティーがそこにいた!




