第032話:シェリルの足止め! ミリ単位の氷結トラップ
「ブシャアアアアッッッ!!」
左右から同時に迫る二頭の《青首突進猪》。
右から迫る一頭に対し、ティオはすでに大剣を構え直して重心を沈め、先ほどと同様の受け流しの体勢に入っていた。
だが、左から迫るもう一頭――体重五百キロを優に超える雄猪が、無防備なティオの左側腹部を狙って一直線に突進してくる。
二股の蹄が泥を激しく蹴り上げるピッチは狂気じみており、泥煙を巻き上げながら、あと数秒でティオを横合いから串刺しにする勢いだった。
左右からの同時攻撃。
いかにティオが大剣の受け流しを会得したとはいえ、一度に二方向からの突進を一人で捌き切ることは物理的に不可能だった。
「ティオ君の背中は、絶対に渡さないわ!」
凛とした鈴を転がすような声が、焦土の張り詰めた空気を切り裂いた。
赤杉の巨木の陰から、風を孕むような滑らかな足取りで前に進み出たのは、白銀の長髪をなびかせたエルフの魔導師、シェリルだった。
その両手には、青い魔導宝玉が嵌め込まれた樫の木の杖。
エルフの尖った耳が風の微小な乱れを捉え、翡翠の瞳には、かつてないほど鋭い集中力の光が宿っていた。
普段のシェリルなら――王都のエリート魔導学院にいた頃の彼女なら、ここでどうしていただろうか。
恐怖と焦燥に駆られ、教科書通りの大仰な古代語の詠唱を叫び、全身の魔力を一度に限界まで搾り出していただろう。
『我が前に顕現せよ、天を衝く氷の絶対城壁!《グランド・アイス・アイギス》!!』と。
学院の教官たちは、いつだってそう教えていた。
「魔導師の価値は、放つ魔力の総量と破壊力で決まる」「敵が巨大であればあるほど、より巨大な魔法で圧殺せよ」と。
だが、その結果はどうだったか。
莫大なマナを無理やり体内から引きずり出した反動で、シェリルの細い魔力管は焼き切れそうになり、出現させた氷壁は五百キロの突進力で呆気なく粉々に砕け散り、シェリル自身は一瞬で全魔力を枯渇させて「ガス欠」になり、その場に白目を剥いてぶっ倒れていたのだ。
そして学院からは「膨大なマナを持ちながら制御もできない欠陥品」「すぐに腹を空かせて倒れる無駄飯食いの落ちこぼれ」の烙印を押され、辺境へと追放されたのだった。
(でも……今の私は、あの頃の無駄飯食いの私じゃないわ!)
シェリルは深く、静かに息を吸い込んだ。
鼻孔から吸い込んだ秋の冷たい大気が、喉を通り、肺の隅々を満たし、丹田の奥底へと落ちていく。
先日の野営地で、バルツから徹底的に叩き込まれた「弱火の呼吸法(マナブレス調和呼吸)」。
火熾しをした時の記憶が、鮮やかに蘇る。
お湯を沸かす時、最初から薪を山積みにして強火でガンガン焚き付ければ、薪は一瞬で燃え尽き、鍋底は真っ黒な煤だらけになり、せっかくの繊細なスープは沸騰して吹きこぼれ、台無しになってしまう。
本当に旨い出汁を取るためには、熾火の微かな熱を、風の通り道を作って静かに育て、必要な場所にだけ、必要な分だけ、極小の熱を伝え続けなければならないのだ。
魔法も、全く同じだった。
「――魔力は、爆発させるものじゃない」
耳元で、バルツのあの煙草を燻らせながらの気のない声が蘇る。
「巨大な氷の壁を作ってどうする? 相手は五百キロの鉄塊だぞ。壁を作れば、衝突の衝撃を全部お前の魔力核が受け止める羽目になる。……そんな無駄な力を使うな。相手が滑って転ぶだけの『バナナの皮』を一枚、足元に敷いてやりゃいいんだよ」
バナナの皮。
老狩人が口にしたその突拍子もない比喩が、今、シェリルのエルフとしての高度な物理計算と完全に一致していた。
(相手の前足を止める必要はない。踏み込みの摩擦係数を、ほんの一瞬、ゼロにしてあげるだけでいい……!)
シェリルは樫の木の杖の切先を、突進してくる左の猪へと向けた。
だが、猪の全身を狙いはしない。
猪の太い胴体でも、凶悪な鉄牙でもない。
シェリルの翡翠の瞳が捉えていたのは――猪が次に踏み込むであろう、泥濘の上の「たった一点」だった。
猪の左前足が、泥炭から離れて宙に浮いている。
時速の速度。
一歩の歩幅にして約1メートル20センチ。
次にその二股の頑丈な蹄が着地する予定の泥のくぼみ――そこには、深さ数センチの浅い水たまりが広がっていた。
「――《氷結》」
シェリルの唇から静かに紡がれたのは、エルフ族の初等学校で幼子が水遊びの延長で習う、最低位の生活魔法の詠唱だった。
杖の宝玉から放たれたのは、わずか綿毛ひとすじ分、蝋燭の炎ほどの淡い青い光粒。
シェリルの体内に満ちる莫大なマナプールの、わずか1パーセントのそのまた十分の一にも満たない、極小の冷気粒子だった。
その光粒が、矢のような精度で泥濘の水たまりへと着弾した。
ピシリ……。
耳を澄まさなければ聞こえないほどの、極小の氷結音。
水たまりの表面張力を利用し、泥炭と水の界面にだけ、極薄の氷の結晶が瞬時に網目状に広がった。
その厚さ、わずか2ミリ。
面積にして30センチ四方。
泥の上に敷かれた、極薄の氷のシート。
その表面は、泥の水分が瞬間凍結したことで、鏡のように滑らかな「摩擦ゼロの滑走面」へと変貌していた。
そこへ――。
時速で疾走してきた五百キロの巨猪の左前足が、全体重の推進力を乗せてドスンと踏み下ろされた。
「ブモッ!?!?」
次の瞬間、喜劇の舞台のように劇的な光景が展開した。
本来ならぬかるんだ泥炭に蹄が深く食い込み、力強いグリップ力を生み出すはずだった着地点。
そこにあったのは、鏡のようにツルツルに凍りついた極薄の氷板だった。
全体重を預けた左前足が、何の手応えもなくツルリと前方にすっぽ抜けたのだ。
摩擦を完全に失った左前足は、漫画のように前へと滑り出し、逆に右前足は泥に深く突き刺さったまま。
時速の運動エネルギーを抱えたまま、左右の脚部にかかるトルクが完全に崩壊し――。
ズデエエエエエエンッッッッ!!!!
五百キロの巨体が、己の突進の慣性を殺しきれず、顎から泥濘へと前のめりに激突した。
まるで凍結した湖の上で足を滑らせた牛のように、猪は四肢を無様に広げ、顎の先端をソリのようにして泥の上を10メートル近くもズザーッと滑走していった。
跳ね上がる大量の泥炭。
口の中に泥と腐葉土を無理やり詰め込まれ、「グエーッ! ゲホッ、ゲホッ!」と目を白黒させながら悶絶する巨猪。
立ち上がろうともがくが、首周りの重い筋肉のせいで首を捻ることができず、亀のように泥の中でバタバタと足を空転させるだけだった。
「……できた……! 本当にできたわ、バルツ先生ッ!!」
シェリルは杖を胸に抱きしめ、パッと顔を輝かせて飛び跳ねた。
頭上のエルフの長い耳が、嬉しさのあまりピコピコと激しく揺れている。
体内のマナプールは、ほぼ100パーセント満ちたままだ。
息切れも、めまいも、立ちくらみも、お腹の虫の鳴き声すら何一つ起きていない。
かつてなら一回の魔法で気絶していた自分が、わずか生活魔法一発で、危険度Cランクの凶暴な巨獣を完全に転倒させ、無力化してしまったのだ。
「消費魔力わずか三マナ……! 大魔法で無理やり吹き飛ばさなくても、足元の摩擦をほんの数ミリ奪うだけで、五百キロの怪物が勝手に自分の力で転んでくれるなんて……! あはっ、魔法って……こんなにスマートで、こんなに楽しかったのね!!」
シェリルの歓喜の叫び。
それは、王都の魔導学院の堅苦しい理論に縛られ、「出力こそが正義」と信じ込まされて挫折した少女が、真の「自然の理と魔法の調和」に目覚めた瞬間だった。
「へへっ、上出来だ、シェリル嬢ちゃん!」
赤杉の根元でバルツが片手を上げてニヤリと笑う。
「必要最小限の力で、最大の効果を引き出す。それが本物のプロの技術だ。……さあ、ニーナ! 転がった獲物のトドメはお前の仕事だぞ!」
「任せるニャッ!!」
シェリルの氷で無様に転倒した猪の頭上へ、一陣の疾風のように小さな影が跳躍した。
二本の解体小刀を逆手に構えたフェネック少女、ニーナの出番だった!




