第031話:大剣は力で振るうな! 重心移動の「受け流し」
ゴオオオオッッッ……!
それは、突進する巨獣が空気を猛烈に圧縮して放つ、大砲の砲弾にも似た重苦しい衝撃波だった。
焦土の泥を激しく跳ね上げながら、八百キロの《青首突進猪》が猛スピードで迫り来る。
二股に分かれた頑強な蹄が泥炭を抉るたび、ドス、ドス、ドス、と心臓を直接揺さぶるような重低音が響き渡る。
距離にして30メートル、20メートル、10メートル――。
人間がまばたきを二度するほどの刹那の間に、巨猪の巨大な質量はティオの鼻先へと到達しようとしていた。
鼻孔から激しく吹き出す高熱の呼気。
大岩をも一撃で粉砕する、鈍い鉄色に輝く二本の凶悪な鉄牙。
その牙の先端には、かつて多くの冒険者や原生林の獲物を串刺しにしてきた黒ずんだ血痕がこびりつき、異様な殺気を放っていた。
「ティオ君っ……!」
背後の赤杉の根元から、シェリルの悲鳴に近い叫びが上がった。
常識で考えれば、そこに突っ立っているティオの姿は、暴走する巨大な荷車の下に自ら身を投げ出す狂人にしか見えなかった。
突進猪の速度は時速を超えている。
真正面から激突すれば、ティオの体など木っ端微塵に跳ね飛ばされ、内臓を破裂させて即死するはずだった。
だが――。
その嵐のただ中に立つティオの表情は、驚くほど静まり返っていた。
(……見えてる。全部、はっきりと見える)
ティオの脳内で、時間の流れが極限まで引き延ばされていた。
いわゆる「死線」を潜り抜ける狩人だけが到達する、極限の集中状態――ゾーンの感覚。
猪の四肢の連動、泥を踏みしめる二股の蹄の沈み込みの角度。
首の周りの青い鱗状の筋肉が、直進の推進力を生み出すためにギチギチと収縮し、頸椎を鉄の棒のように固定している様子。
そして、突進の頂点にある頭部の位置――。
かつてのティオなら、ここで全身の筋肉を硬直させ、歯を食いしばり、大剣の柄を力任せに握りしめていた。
そして「うおおおお!」と叫びながら、己の体重と腕力だけで、この暴走する質量を真正面から押し止めようとしていた。
結果はどうだったか。
骨が砕け、腰が折れ、大剣を弾き飛ばされて泥の中に這いつくばったのだ。
エドガーたちの嘲笑が耳の奥で木霊する。
『肉壁の分際で受け止めきれねえのかよ!』
『お前の大剣はただの重りだな!』
違う。そうじゃなかったんだ。
(力で受け止めようとするから、骨が折れるんだ。力と力が正面からぶつかれば、重い方が勝つのは当たり前だ……! 跳ね棘兎の骨を抜いた時、おっちゃんは何て言った? 『刃の切先で骨を断つな。骨と関節の隙間に、刃の腹を滑らせるんだ』って……縞川魚の泥腺を抜く時、おっちゃんは何て言った? 『力任せに引きちぎるな。組織が自然に剥がれたがっている方向へ、指を添えるだけでいい』って……!)
全部、同じだった。
料理も、解体も、狩猟も、戦いも。
自然の理に逆らって力任せにねじ伏せようとすれば、必ず反作用で己の肉体が破壊される。
だが、相手の骨格と重心の流れを理解し、その流れに刃を寄り添わせれば――相手の力そのものが、相手を解体するエネルギーに変わるのだ。
ティオは、全身の力をすっと抜いた。
肩の怒り肩を落とし、肘を柔らかく曲げ、息を腹の底(丹田)へと静かに沈める。
大剣を力で「構える」のではない。
身の丈を超える鋼鉄の大剣――その重厚な自重を、両手と両足の母指球(親指の付け根)で「支えている」だけの状態。
大剣はティオの腕力で保持されているのではない。
大剣自体の重さが大地へと向かって自然に落ちようとする引力の中に、ティオの骨格が一本の滑らかな柱となって寄り添っているだけだった。
「――大剣の腹を見せろ」
耳の奥で、バルツの低く穏やかな声が響いた。
「刃で叩き切るんじゃない。鉄の板を一枚、空間に斜めに置いてやるだけでいい。……お前の大剣は、ただの『滑り台』だ」
距離、残り3メートル!
巨猪が、ティオの胸板を鉄牙で貫かんと、頭部をわずかに上方へと突き上げた。
突進のエネルギーが、頭部の先端へと完全に凝縮された、まさにその瞬間――。
スッ。
ティオは、右足を軸にし、左足を半歩だけ後ろへと引いた。
腕の力は一切使わない。
骨盤のわずかな回転。
丹田を中心に腰をミリ単位でひねることで、両手に預けていた大剣の刀身が、自然と斜めの傾斜を描いて前方へと滑り出した。
刃の切先ではなく、分厚く平らな鋼鉄の「腹」が、巨猪の鼻先へと差し出される。
それは、突進の軌道に対して直角に立ち塞がる「壁」ではない。
突進の直線のベクトルを、そのまま外側へと受け流すための、滑らかな「傾斜面」だった。
前夜、バルツの指導で丁寧に拭き上げた猪油の皮膜が、鋼鉄の表面でしっとりと濡れたように光っていた。
ズザアアアアッッッッ!!!!
激突の瞬間、鳴り響いたのは、骨や金属が砕け散るような激突音ではなかった。
まるで、巨大な砥石の上を濡れた鉄柱が滑り抜けるような――ヌルリとした、滑らかな摩擦音だった。
巨猪の左側の鉄牙と強靭な鼻先が、ティオの大剣の腹へと接触した。
だが、その八百キロの猛烈な運動エネルギーは、大剣を押し潰す力にはならなかった。
斜めに傾けられた大剣の平の上を、巨猪の頭部がツルリと滑ったのだ。
大剣の表面の油膜と、ティオの絶妙な脱力によって、突進の凄まじい衝撃波は、大剣の腹を伝ってそのまま右斜め後方の空間へと綺麗に受け流された。
「ブモッ!?!?!?」
巨猪の赤い瞳が、信じられないものを見たかのように見開かれた。
正面に立ち塞がる獲物を粉砕するはずだった自慢の突進。
その全エネルギーが、何の手応えもなく空振りに終わり、あろうことか自身の頭部が右斜め下へと強引に引き倒されたのだ。
首が横に曲がらない《青首突進猪》にとって、頭部の向きが狂うことは、全身のバランスの完全な崩壊を意味していた。
ドズウウウウウウウンッッッッ!!!!
八百キロの巨体が、時速の慣性を保ったまま、焦土の泥炭層へと前のめりに突っ込んだ。
二本の強靭な前足はぬかるんだ泥を深く掘り返したが、横方向の遠心力に耐えられるはずもなく、右肩から泥の海へと派手に横転した。
まるで脱線した装甲列車のように、巨猪は泥を巻き上げながら何回転も転がり、そのまま水たまりへと頭から突っ込んで動けなくなった。
跳ね上がった黒い泥水が、雨のように周囲十数メートルへと降り注ぐ。
その横で――。
ティオは、大剣の切先を地面の泥にスッと突き立て、微動だにせず立っていた。
息一つ乱れていない。
両腕に痺れはなく、背骨にも腰にも、一切の衝撃は走っていなかった。
かつて自分を絶望の淵へと叩き落としたあの恐ろしい突進を、ティオはたった一人で、しかも指一本傷つくことなく、完璧に「無力化」したのだ。
「……うそ……あんなの、あり得ないわ……」
赤杉の根元で、シェリルが呆然と呟いた。
エルフの瞳が、驚愕と感動で見開かれている。
力でねじ伏せたのではない。
相手の体重と速度を、相手自身の自爆装置に変えてしまった。
それは、どんな強力な防御魔法よりも洗練された、美しい「生体力学の勝利」だった。
「す……げえ……」
ティオは、自分の両手を見つめた。
手のひらに激痛はない。
腰の奥にあるはずの古傷も、温かい血流が巡っているだけで、微塵の違和感もなかった。
重厚な大剣が、まるで自分の腕の延長のように馴染んでいる。
あの日、ぎっくり腰で泣き叫び、エリートたちに見捨てられた惨めな少年は、もうここにはいなかった。
解体の理を学び、重心の奇跡を知った新しい狩人が、泥濘の上に凛として立ち上がっていたのだ。
「へっ……見事な受け流しだ、バカ犬」
背後から、バルツの楽しげな笑い声が届いた。
だが、老狩人の声はすぐに低く引き締まった。
「だが、見とれてる暇はねえぞ! 残りの二頭が来る!」
焦土の左右から、取り巻きの二頭の突進猪が、リーダーの無残な転倒に激昂して咆哮を上げた。
五百キロの巨体が二頭、左右からティオを挟み撃ちにせんと、同時に泥を蹴り出したのだ!
一頭は左から、もう一頭は右から。
左右同時に迫る二本の鉄塊の挟撃。
だが、ティオの瞳に、もう恐怖の色は微塵もなかった。
なぜなら――自分には、背中を預けられる最高の仲間がいることを知っていたからだ!




