第030話:青首突進猪の群れ! かつてのトラウマとの対峙
「ブモオオオオオオオオッッッッ!!」
耳朶を震わせる咆哮と共に、先頭の巨大な突進猪が、前足の蹄でぬかるんだ泥を猛烈に掻きむしった。
跳ね上がった泥炭の塊が、数10メートル先の立ち木に弾丸のように突き刺さり、樹皮を派手に削り取る。
体長3メートル半、体重にして優に八百キロを超えるその巨躯は、まさに生きている攻城槌だった。
青銅色の鱗状の筋肉が首周りを鎧のように覆い、頭部から突き出た二本の鉄牙は、先ほどへし折られた大木の樹液と泥でドス黒く光っている。
その左右には、一回り小ぶりとはいえ五百キロは優に超える二頭の取り巻きが控えており、三頭が横一列に並ぶだけで、湿原の視界の半分が青黒い筋肉の壁で埋め尽くされていた。
「フシューッ! フシューッ!」
三頭の鼻孔から、高圧蒸気のような白い鼻息が激しく噴き出していた。
その瞳は濁った赤褐色に血走り、焦土に漂う腐敗ガスと焦げた獣脂の臭いに完全に理性を狂わされている。
リーダー格の巨猪が、鼻先を焦土の中央に積み上げられた死骸の山へと向けた。
そして――巨大な鉄牙を一振りするや、十頭近くの魔物の死骸が、まるで紙屑のように虚空へと撥ね飛ばされた。
ドサドサと泥の上に落ちる肉塊。
だが、その狂乱の視線は死骸に留まることはなかった。
リーダー猪の小さな赤い眼球が、風下の赤杉の根元――気根の陰に潜むバルツたち四人を、正確に捉えたのだ。
「グルルルル……ッ!」
消臭泥炭で体臭を消してはいた。
だが、ティオが背負う身の丈の大剣――その重厚な鋼鉄が放つ微かな金属の気配を、鉄牙を持つこの魔物は本能的に嗅ぎつけたのだ。
巨猪の前足が、再び泥を蹴った。
突進の助走に入る前の、破壊の予備動作。
「ひぃ……っ、見つかったニャ……!」
ニーナが小さな手を口に当てて息を呑んだ。
シェリルもまた、杖の柄を握る指先を白く染め、呼吸を乱している。
エルフの教科書に記された《青首突進猪》の危険度は「Cランク」。
だが、浅瀬という足場の悪い泥濘地帯において、その突進力はBランクの魔物すら一撃で粉砕する。
通常、このモンスターを狩るためには、重装歩兵が頑丈なバリケードを何重にも築き、後方から弓兵と魔導師が数百本の矢と魔法を浴びせて体力を削り殺すのがギルドの定石だった。
新米の落ちこぼれカルテットが、こんな開けた平地で正面から出くわして生還できる相手ではない。
「……っ……ぁ……」
そして何より、ティオの足が、泥に縫い付けられたように動かなくなっていた。
心臓が早鐘のように胸板を打ち鳴らし、耳の奥でドクドクと血流が逆流する音が響く。
視界が狭窄し、目の前の巨猪の鉄牙だけが、恐ろしいほどの巨大さで迫ってくる。
腰の奥が、ズキリと疼いた。
あの日。
エドガーたちに命令され、震える腕で大剣を構え、真正面から突進を受け止めようとしたあの日。
大剣の腹に鉄牙が激突した瞬間の、あの「ゴキリ」という背骨の軋む音。
全身の神経を焼き尽くすような激痛と、口から噴き出した血の味。
泥の中に這いつくばり、二度と立ち上がれなくなった絶望。
(また……折れる……? 俺の腰が……今度こそ粉々に……砕け散るのか……?)
恐怖が、ティオの膝から力を奪おうとした。
大剣の重みが、かつてないほど重苦しい鉄の枷のように感じられた。
逃げ出したい。
大剣を放り出して、一目散に森の奥へ逃げ出したい――そんな弱気な思考が、泥水のように脳内を侵食しかけた、その時だった。
トン。
ティオの左肩に、乾いた音がして手が置かれた。
重くもなく、軽くもない。
無造作で、使い古された革手袋の感触。
「……ティオ」
低く、いつものようにどこか呑気で、しかし不思議と胸のざわめきを凪がせる声が耳元に届いた。
バルツだった。
老狩人は、ティオの隣に並び立ち、目の前で地響きを立てる三頭の巨猪を、まるで八百屋の店先に並んだカブでも品定めするかのような、気のない目で見つめていた。
「深呼吸しろ。肺の底に溜まった古い空気を全部吐き出して、腹の底に新しい風を入れろ」
「お……おっちゃん……でも、あいつ……俺の腰を折った……あの猪なんだ……! 真正面から受け止めたら、また……!」
「誰が真正面から受け止めろと言った?」
バルツは呆れたように片眉を上げた。
「お前はまだ、あのエリートの糞ガキどもの馬鹿げた命令を引きずってんのか? 突進してくる八百キロの鉄塊を、人間一人の筋力で正面から受け止めるなんざ、戦術でもなんでもねえ。ただの自殺志願者の曲芸だ」
「え……?」
「よく見ろ、ティオ。目を逸らさずに、あの猪の『骨格』と『筋肉の走り方』を観察しろ」
バルツの指先が、リーダー猪の頭部から肩にかけてのラインを空中でなぞった。
「あの猪の首回りに巻かれた青い鱗状の筋肉……あれは《胸鎖乳突筋》と《板状筋》が異常発達して硬化したもんだ。正面からの衝撃には無類の硬さを誇るが、その代償として、首の頸椎が完全に固定されてやがる。つまり――あいつは、突進中に首を左右に振ることができねえ」
「首を……振れない……?」
「そうだ。さらに四肢の構造を見ろ。あいつの前足は太いが、関節の可動域が前後にしか動かねえ構造になってる。時速で直進している最中に進路を変えようとしたら、外側の蹄を泥に深く突き刺して、全身を強引に傾けてブレーキをかけるしかねえんだ。……分かるか?」
ティオの脳裏に、バルツの言葉が電撃のように走った。
首が曲がらない。
前足が横に動かない。
直線の力は神話級の破壊力を持っていても――。
「横への軌道修正は、ド素人の荷車よりも鈍いってことだ」
バルツがニヤリと笑った。
「直線の力は最強だが、横への力はゼロ。なら、お前の大剣は何のためにある? 壁になるためか? 違うだろ。……お前の大剣は、ただの『滑り台』だ」
「滑り台……!」
「相手の突進のベクトルを、ほんの五度、十度だけ斜めに逸らしてやるだけでいい。刃の腹に相手の鼻先を滑らせて、相手の持っている八百キロの運動エネルギーをそのまま泥沼に捨ててやるんだ。力比べをするな。相手の力を、相手自身の墓穴に変えてやれ」
さらにバルツは、ティオの腰の帯を軽くポンと叩いた。
「足元を見ろ。お前が立っている場所は、わずかに泥が固い盛り土の上だ。そして奴が走ってくるルートには、水たまりと柔らかい泥炭層が広がっている。膝を軽く曲げ、踵ではなく親指の付け根(母指球)に体重を乗せろ。丹田――へその下三寸に息を落とし、大剣の切先を相手の視界の下に隠せ。力で構えるな。大剣の『自重』に体を預けるんだ。大剣が勝手に落ちていく軌道の上に、猪の鼻先を誘い込めばいい」
「大剣の自重に……体を預ける……」
「そうだ。跳ね棘兎の骨抜きでも、蔦蛇の皮剥ぎでも、お前は道具の重みと刃の角度で肉を分ける感覚を覚えたはずだ。巨大な猪だろうが、基本は同じだ。『刃の隙間に骨を滑らせる』。その延長線上に、この大剣の技がある」
バルツの手が、ティオの肩から静かに離れた。
その瞬間、ティオの足から震えが完全に消え去っていた。
腰の疼きも、過去の惨めな記憶も、心地よい緊張感へと塗り替えられていた。
見えている。
今のティオの瞳には、目の前の巨獣がただの「暴れる怪物」ではなく、骨と関節と筋肉の連動によって動く「一つの巨大な構造体」として、克明に見えていた。
「シェリル、ニーナ。お前たちも準備しろ」
「は、はいッ!」
「いつでもいけるニャ!」
二人の声にも、もはや怯えはなかった。
バルツの指導によって、自分たちの役割が明確に理解できていたからだ。
シェリルは杖の切先を地面の泥へと向け、極小のマナを指先に集め始めた。
ニーナは腰の二本の解体小刀を逆手に構え、いつでも跳躍できるよう重心を低く沈めている。
「よし。ティオ、行ってこい。お前の大剣の本当の重さを、あの猪に教えてやれ」
「――はいッ!!」
ティオは赤杉の気根を蹴り、泥濘の焦土へと力強く躍り出た。
湿った空気を胸いっぱいに吸い込み、大地をしっかりと踏みしめる。
その姿を認めた瞬間――リーダー格の巨猪が咆哮を上げ、大地を揺るがしながら猛然と突進を開始した!
時速の鉄塊が、泥煙を巻き上げて迫り来る。
だが、ティオの瞳は、静まり返った湖面のように澄み渡っていた。




