第029話:泥濘の奥から響く地鳴り! 暴走の足音
ズズズ……と、足元のぬかるんだ泥が波紋を描いて震えていた。
水たまりに張った油膜が細かく震え、焦土に突き刺さっていた炭化の木片がカタカタと乾いた音を立てて転がる。
原生林の奥深くから伝わってくる振動は、秒を追うごとにその振幅を増し、まるで地底で巨大な心臓が狂ったように脈打っているかのようだった。
「ひゃあ……っ! じ、地面が揺れてるニャ……!」
ニーナが思わず尻尾を丸め、その場に四つん這いになった。
獣人族の鋭敏な器官は、大地を通じて骨に直接響く超低周波の音を、全身の毛穴が逆立つような恐怖のシグナルとして捉えていた。
「慌てるな! 全員、風下の巨木の影へ身を滑らせろ! 泥濘の真ん中に突っ立ってる奴から真っ先に挽き肉にされるぞ!」
バルツの低く鋭い号令が飛んだ。
呑気なおっさんの姿は完全に消え去り、その眼光は熟練の狩人のそれだった。
四人は焦土の中央を離れ、風下側に位置する樹齢五百年を超える巨大な赤杉の根元へと素早く身を滑り込ませた。
大人の背丈ほどもある板状の気根(板根)が四方に張り巡らされたこの巨木は、正面からの突進に対する天然の防壁となる。
バルツは懐から即座に調合済みの【消臭泥炭】を取り出し、三人の衣服と露出した肌に薄く塗りたくった。
腐葉土と木酢液を練り合わせたこの泥炭は、人間の体臭と魔力放出の気配を完全に遮断するサバイバルの必須アイテムだった。
「息は鼻から細く長く吐け。シェリル、杖の魔力光を完全に遮断しろ。ティオ、大剣の切先を地面の泥に埋めろ。金属の反射光は獲物の眼球を刺激する」
「は、はいッ!」
「了解です……!」
三人はバルツの指示に寸分の狂いもなく従い、気根の隙間に息を潜めた。
その直後――原生林の頭上から、バタバタバタッ! と凄まじい羽音が降り注いだ。
見上げれば、梢を埋め尽くしていた無数の野鳥たちが、狂乱したように一斉に空へと飛び立っていくところだった。
湿原ツバメ、森鳩、極彩色のオウムたちが、群れの境界すら忘れ、ただ西の深林から逃れようと東の空へ殺到している。
それだけではない。
足元の泥濘を、無数の小動物たちがパニック状態で駆け抜けていった。
先ほどまで美味しくいただいていたはずの跳ね棘兎、体長数メートルの泥トカゲ、樹上性のモモンガまでもが、捕食者と被食者の関係を完全に忘れ、ただ一直線に逃走していた。
中には、気根の間に隠れるティオの足を踏んづけていく兎すらいたが、ティオに噛みつく余裕すらなく、悲鳴のような鳴き声を上げながら泥の海を跳ね去っていった。
「森の動物たちが……みんな逃げていく……」
シェリルが青ざめた唇で呟いた。
エルフの伝承にある「大崩壊の前兆」。
生態系の上位に君臨する巨大な捕食者が暴走した時、森の全生命がその圧倒的な暴力から逃れるために見せる集団パニック現象だった。
「ニーナ、耳を板根の樹皮に当てろ。振動の波形を読め」
「う、うんニャ……!」
バルツに促され、ニーナはフェネックの大きな耳を、赤杉の硬い樹皮へとピタリと押し当てた。
耳をピクピクと細かく動かし、地面を通じて伝わる衝撃波の周期を研ぎ澄まされた聴覚で解析する。
「……ト、ト、ト、ト……ドシン! ドシン! ……速いニャ! ものすごいスピードでこっちに向かって一直線に走ってくるニャ!」
「何頭だ? 足音の重なりを聞き分けろ」
「足音は……重いのが三つ! ううん、違うニャ、先頭に巨大なのが一頭、そのすぐ後ろに左右に二頭……合計三頭の群れニャ! でも、重さが尋常じゃないニャ……! 一頭あたり、少なくとも……いや、先頭の奴は八百キロ近くあるニャ!!」
「……!?」
ティオの喉がヒクリと鳴った。
八百キロといえば、成人の大人が以上集まった重量だ。
それが、時速を超える猛スピードで突進してくるのだ。
ぶつかれば、軽装の冒険者など骨ごと粉々に粉砕され、肉の塊となって泥に散る。
「……間違いないな」
バルツは愛刀《黒喰》の鯉口を親指で静かに切った。
カチリ、と硬質な音が響く。
「《青首突進猪》だ。それも、ただの個体じゃねえ。あの焦土の腐敗臭と、地脈の魔力汚染に当てられて脳の血管が沸騰した『狂乱個体』の群れだ」
「青首……突進猪……ッ!」
その名前を聞いた瞬間、ティオの全身に雷が落ちたような衝撃が走った。
ティオの手が、無意識のうちに自分の腰へと伸びる。
ぎっくり腰を起こし、ギルドの裏路地で雨に打たれながら動けなくなっていたあの日。
自分をその絶望の淵へと叩き落とした元凶。
それこそが、この《青首突進猪》だったのだ。
――『おいティオ! 正面から受け止めろ! お前の身の丈ほどの大剣は何のためにあるんだ!』
――『壁になれ! エリートの俺たちが魔法を唱える時間を稼ぐのが、Fランクのお前の唯一の存在価値だろうが!』
エドガーの怒号に背中を押され、逃げ場を失ったティオは、身の丈を超える重厚な大剣を両手で構え、突進してくる猪の巨体を正面から力任せに受け止めようとした。
激突の瞬間――耳を劈く金属音と共に、大剣の切先から伝わった凄まじい衝撃波がティオの両腕を痺れさせ、背骨を通り抜け、腰の椎間板を一瞬で圧迫骨折させた。
大剣は無残に弾き飛ばされ、ティオの体は泥の上を10メートルも転がった。
激痛で悲鳴を上げるティオを見下ろし、エドガーたちは「役立たずのゴミが!」と唾を吐き捨てて去っていったのだ。
「あ……あいつが……また……」
ティオの呼吸が浅くなり、額から冷たい脂汗が吹き出した。
大剣の柄を握る両手が、ガチガチと小刻みに震え始める。
恐怖。
正面から激突した時の、あの骨が折れる鈍い感触が、肉体の記憶として蘇っていた。
だが――。
「ティオ」
その震える右手を、温かい大きな掌が包み込んだ。
バルツだった。
老狩人はティオの震える手の上から、優しく、しかし確固たる力で大剣の柄を握らせた。
「お前の腰は、もうあの時とは違う。豚骨のスープでゼラチンとカルシウムを補い、関節の油を差した。何より……お前はもう、力任せにぶつかるだけの馬鹿じゃねえはずだ」
「バルツのおっちゃん……」
「大剣の重み、重心の掛け方、相手の力の流し方。全部、頭と体に叩き込んできたはずだ。……獲物が走ってくるなら、走らせておけばいい。お前が壁になる必要なんざ、最初からどこにもねえんだよ」
バルツの穏やかな声が、ティオの凍りつきかけた思考を解きほぐしていく。
そうだ。
自分はもう、エリートたちの盾にされるだけの『肉壁』ではない。
解体の理を知り、相手の骨格と筋肉の動きを見極める『狩人』なのだ。
「……はいッ! 俺……逃げません!」
「よし。いい返事だ」
バルツがニヤリと笑った、その瞬間だった。
――バキバキバキィッッッッ!!!!
原生林の深部で、直径1メートルを超える巨木が、まるでマッチ棒のようにへし折られる凄まじい破壊音が炸裂した。
舞い上がる大量の土煙と、千切れ飛ぶ枝葉。
薄暗い霧を切り裂いて、焦土の開けた空間へと躍り出たのは――巨大な暴威の塊だった。
「グオオオオオオオオオオッッッッッ!!!」
大地を揺るがす獰猛な咆哮。
全身を分厚い青黒い泥と強靭な剛毛で覆った、体長3メートルを超える巨獣。
首の周りには、まるで青銅の鎖帷子のように硬化した青い鱗状の筋肉が隆起している。
そして何より――その口元から上空へ向かって湾曲して突き出た、巨大な二本の牙。
鈍い鉄色に輝くその牙は、大岩すら一撃で粉砕するほどの凶悪な質量を誇っていた。
《青首突進猪》。
浅瀬の生態系において最強の破壊力を誇る突進モンスターが、血走った赤い瞳を爛々と輝かせ、狂乱の鼻息を白く吹き上げながら、泥濘の焦土にその姿を現したのだ!




