第028話:バルツの静かな怒り「命を粗末にする奴は、必ずしっぺ返しを食らう」
鼻を突く腐敗臭と焦げた獣脂の煙が立ち込める中、老狩人バルツは、山と積まれた死骸の前に静かに膝をついた。
無造作に伸びた白髪交じりの前髪が、灰色の冷たい風に揺れる。
バルツは両手を泥に汚れた革エプロンの上で軽く合わせ、瞳を閉じた。
言葉には出さない。
だが、そのわずか数秒間の無言の祈りには、荒野で40年間獲物の命を奪い、その命を喰らって生き長らえてきた老狩人特有の、深く重い敬意が込められていた。
「先生……」
シェリルが胸の前で杖を握りしめ、おずおずと声をかけた。
普段は「あたた、腰が痛え」とぼやいてばかりいるバルツの背中から、今まで一度も感じたことのない、底知れない冷気のような気迫が立ち上っていたからだ。
それはエルフの鋭敏な魔力知覚をチリチリと刺激し、触れれば魂ごと凍りついてしまいそうなほどの、静謐で圧倒的な「怒り」の波動だった。
バルツはゆっくりと目を開けると、腰のベルトから一本の細身の小刀――骨の間を測るための【探り小刀】を抜き放った。
銀色に研ぎ澄まされた切先を、腹を抉り取られて放置された湿原鹿の肋骨の断面へと滑らせる。
「見てみろ、三人とも。これが『命を奪うこと』をただの作業だと思っている手合いの仕事だ」
バルツの声は低く、平坦だった。
声を荒らげているわけではない。
しかし、その一言一言が、氷の楔のように三人の耳の奥へと突き刺さった。
「肋骨の裏側……胸膜の表面を見てみろ。魔石を取り出そうとナイフを力任せに突き刺したせいで、骨の裏に何十本もの無駄な傷がついている。骨に刃を当てる角度が狂っていやがるんだ。魔石の周囲には、心臓から伸びる太い魔力動脈がある。そこを綺麗に結紮して切り離せば、魔石は傷一つなく、濁りもない最高品質の状態で手に入る」
バルツは探り小刀の切先で、黒ずんだ魔力動脈の残骸を指し示した。
「だがこいつらは、動脈ごと魔石を無理やり引きちぎった。そのせいで魔石の中に残っていた高純度のマナが体内に逆流し、内臓全体をドス黒く焼き焦がしちまってる。……結果、どうなると思う? 手に入れたはずの魔石の表面にも無数の微細なクラック(ひび割れ)が入り、市場に出せば二束三文に買い叩かれる。手に入る金は半分以下、残された肉は全滅。無駄に殺し、無駄に損をしている。プロから見りゃ、ド素人の猿真似以下の大間抜けだ」
「……エドガーたちは、いつだってそうでした」
ティオが俯き、唇を噛み締めながら言った。
「『魔石の質なんかどうでもいい、数さえ集めりゃギルドの納入ノルマは達成できる』って……いつも俺に、割れた魔石を袋に詰め込ませていました。『傷がついているのは荷物持ちの運び方が悪いからだ』って、俺の報酬から勝手に罰金を差し引いて……」
「そうだろうな。自分の腕の未熟さを、全部他人のせいにして歩くのが、この手の連中の常套手段だ」
バルツは立ち上がり、足元の焦土をブーツの先で軽く掘り返した。
掘り返された黒い土からは、ぬるりとした赤黒いヘドロが湧き出し、鼻が曲がるほどの毒ガスがプツプツと泡立っていた。
「だがティオ、問題はあいつらの財布の軽さじゃねえ。……この森の『循環』をぶち壊したことだ」
「循環……ですか?」
シェリルが小首を傾げた。
バルツは周囲の枯れ果てた木々を見渡しながら、静かに語り始めた。
「魔境の森ってのはな、ひとつの巨大な生き物なんだよ。兎が草を喰い、蛇が兎を喰い、猪が蛇を喰う。そして老いた獣や傷ついた魔物が死ねば、その死骸を甲羅蟹やカラス、無数のスカベンジャー(屍肉食者)や地中の微生物が喰らい尽くす。綺麗に骨だけになった骸は、森のバクテリアによって何ヶ月もかけて分解され、豊かな腐葉土となり、大地の魔力脈へと還っていく。これが、何万年も続いてきた『森の息吹』だ」
バルツの言葉に、シェリルはハッと目を見開いた。
高位の自然魔導師であるエルフにとって、それは教科書で学ぶ理屈であると同時に、肌で感じてきた世界の真理そのものだった。
「だけど……こんな風に、高熱の魔法で土ごと焼き払い、毒素に汚染された死骸を一度に何十頭も放置したら……」
「ああ。分解が追いつかねえんだ」
バルツの顔が、険しく引き締まった。
「腐った内臓と酸毒が泥に染み込み、大地の呼吸を塞ぐ。土が窒息し、木々が枯れ、周囲の自生ハーブは全滅する。それだけじゃねえ。この強烈な腐臭は、風に乗って十数キロ先まで届く。……どんな奴が、この臭いに引き寄せられると思う?」
「……! 深層の、凶暴な肉食獣……!」
ニーナが耳をピンと立て、恐怖に怯えた声を上げた。
「その通りだ、ニーナ。浅瀬の穏やかな草食獣や小動物は、この悪臭を嫌って逃げ出す。そして空いた縄張りに、普段は第二層や第三層の深い暗がりに潜んでいる、血に飢えた肉食の怪物どもが『餌の山』を求めて一気に浅瀬へと這い上がってくるんだ。生態系のピラミッドが根底からひっくり返る」
バルツは愛刀《黒喰》の柄に手をかけた。
黒く煤けた鉄の鍔が、カチリと微かな金属音を立てる。
「狩人ってのはな、獲物の命を奪う代わりに、森の掟を守る番人でもなきゃならねえ。必要な分だけを狩り、苦しませずに息の根を止め、骨の髄まで綺麗に使い切って感謝を捧げる。命を粗末にする奴は、必ず森から、魔境から、特大のしっぺ返しを食らうことになる。……それも、近いうちに、最悪の形でな」
バルツの言葉は、単なる警告ではなかった。
それは、過去に何度も浅瀬の崩壊を目撃してきた老狩人だからこそ知る、冷徹な自然の因果応報の予言だった。
「……バルツのおっちゃん」
ティオが一歩前に進み出た。
その瞳から、先ほどまでの盲目的な私怨の炎は消え去っていた。
代わりに宿っていたのは、深く澄んだ覚悟の光だった。
「俺……今まで、あいつらのことがただ悔しくて、憎くてたまらなかった。なんで俺だけが馬鹿にされて、追い出されなきゃならなかったんだって、そればっかり考えてた。……でも、違ったんだな」
ティオは背負った大剣の柄を、ギュッと力強く握り直した。
「あいつらは、獲物への敬意も、森への畏怖も、何一つ持ってない。命を金に換えることしか頭にない連中だった。……俺は、あいつらの仲間じゃなくなって、本当によかった。おっちゃんに会えて、本当によかったよ。俺は……命を無駄にするような戦い方は、絶対にしない。この大剣で、命をちゃんと受け止められる狩人になりたいんだ」
「ティオ……」
ニーナが尻尾を微かに揺らし、感動した瞳でティオを見上げる。
シェリルもまた、静かに微笑み、杖を握る手に力を込めた。
「ふん……青臭いことを言うじゃねえか、バカ犬が」
バルツはふっと口元を緩め、いつものように無精髭を顎先で撫でた。
だが、その瞳には、弟子に対する確かな信頼の色が灯っていた。
「なら、その覚悟を忘れるなよ。獲物の命を背負うってのは、いつだって自分の命を秤にかけることと同義だ。……おっと」
その時だった。
バルツの言葉が、唐突に途切れた。
バルツの左手が、反射的に背中へと伸びた。
革の上着越しに、背骨の左脇を走る三本の古傷が、ドクン……! と激しく脈打ったのだ。
熱い。
まるで、皮膚の下でマグマが泡立っているかのような、激しい灼熱感。
「おじちゃん……?」
「……全員、息を殺せ」
バルツの声が、一瞬で極限の警戒レベルへと切り替わった。
バルツは身を屈め、泥の上に直接右手のひらをピタリと密着させた。
湿った大地を通して、骨へと伝わってくる微細な振動。
コト、コト、コト……。
それは、水底で小石が転がるような小さな音から始まった。
だが、その周期は狂ったように速く、そして一打ごとに、確実にその重みを増していた。
大地が、震えていた。
西の原生林の深部、立ち入り禁止区域の境界線の向こう側から――何百本もの木々をなぎ倒しながら、猛烈な勢いでこちらへと迫り来る、巨大な獣の足音が。
「来るぞ。……森の悲鳴に狂わされた、浅瀬の暴走だ」
老狩人の低く鋭い宣告が、焦土の森に響き渡った。




