第027話:踏み荒らされた原生林と、無残な死骸の山
湿原の清流から離れ、西の原生林へと歩みを進めるにつれて、空気の質が目に見えて悪化していった。
木漏れ日が泥濘を照らす穏やかな光景はどこへやら、頭上を覆う巨木たちの枝葉は不気味に絡み合い、差し込む日差しを拒絶するかのように重苦しい灰色の影を落としている。
足元を踏みしめるたび、グチャリとぬかるむ泥から、鼻腔を刺すようなツンとした刺激臭が立ち上った。
それは、腐葉土の自然な発酵臭ではない。
肉が腐敗して発生したガスと、高熱の魔法炎によって焼き焦げた毛皮の煤煙が混ざり合った、死の臭気だった。
「う……っ、く……っ」
ニーナが口元を両手で強く押さえ、その場にうずくまりそうになった。
獣人特有の鋭敏な嗅覚は、人間なら眉をひそめる程度の臭気でも、脳を直接殴られるような激痛として知覚してしまう。
大きな三角の耳をペタリと完全に倒し、涙目になりながら脂汗を流すニーナの肩に、バルツが素早く手を伸ばした。
腰の道具袋から取り出したのは、先ほど採取したばかりの自生ペパーミントとレモンバームの乾燥葉だ。
バルツはそれを指先で軽く揉み潰し、清涼なアロマオイルを滲ませると、薄い麻布に包んでニーナの鼻先に当てさせた。
「深呼吸するな、ニーナ。口呼吸で、この布越しに少しずつ空気を吸え。ハーブのメントール成分が嗅覚神経を一時的に麻痺させて、悪臭の受容体をブロックしてくれる」
「すぅ……はぁ……っ。ふにゃ……す、少し楽になったニャ……ありがとう、おじちゃん……」
「無理はするなよ。だが、鼻を塞いでも目は逸らすな。これが、魔境を汚す連中が残していく『爪痕』の現実だ」
バルツが視線を前方へ戻すと、先行していたティオとシェリルが、森の開けた空間の手前でピタリと足を止めていた。
二人の背中は、凍りついたように硬直している。
バルツがニーナの背中を支えながら追いつき、木々の隙間からその開けた空間を見下ろした瞬間――息を呑むような凄惨な光景が、四人の視界いっぱいに広がった。
「な……んだよ、これ……」
ティオの唇から、掠れた呟きが漏れ出た。
そこは、本来であれば樹齢数百年の大木が立ち並び、豊かな下草が茂る湿地帯のオアシスだったはずの場所だった。
だが今、そこに広がっているのは、まるで地獄の業火に焼き払われたかのような焦土だった。
数十本もの巨木が、根本から無残になぎ倒され、幹の表面は黒炭のように焼け焦げてくすぶっている。
地面の泥は高熱でガラス化し、赤黒い水たまりがあちこちに広がっていた。
そして――その焦土の中央に、うずたかく積み上げられていたのは。
数え切れないほどの魔物の死骸の山だった。
「ひどい……こんなのって、ないわ……」
シェリルが杖を抱きしめ、顔面を蒼白にして震えていた。
普段は冷静沈着なエルフの魔導師が、瞳に激しいショックと嫌悪感を宿らせている。
死骸の山を作っているのは、浅瀬に生息する小型から中型の魔物たちだった。
俊敏な跳ね棘兎、頑丈な角を持つ湿原鹿、そして甲殻を持つ大蟹や水棲のオオトカゲ。
少なくとも三十頭以上の魔物が、広範囲の無差別な殲滅魔法によって一網打尽に焼き殺されていた。
だが、問題はその殺し方だけではなかった。
「……腹だけが、抉り取られている」
バルツの低く冷ややかな声が、重苦しい静寂を切り裂いた。
死骸の山へ近づいたバルツは、膝を折って一体の湿原鹿の死骸を検分し始めた。
その鹿は、胸から腹部にかけてが鋭利な刃物で乱暴に切り裂かれ、内臓がドロドロに外へ引きずり出されていた。
そして、心臓の直上――体内で最も魔力が集まる『魔石』が存在する部位だけが、肉ごと強引にスプーンで抉り取られたように、巨大な穴となって空洞化していたのだ。
「魔石だけを抜いて……あとの肉も、骨も、角も、上質な毛皮も、全部そのまま放置してある……。なんて雑な解体だ。いや、解体とすら呼べねえ。ただの強盗の現場荒らしだ」
バルツの指先が、切り裂かれた鹿の断面をなぞる。
プロの狩人としての視線が、その無残な死骸の細部を容赦なく分析していく。
「見てみろ、ティオ。ナイフを肋骨の間に斜めに入れてねえ。力任せに腹膜を引き裂いたせいで、胃袋と胆嚢(苦玉)が破裂して、内容物が赤身肉全体にブチ撒けられてる。消化液の強酸と緑色の胆汁が肉の繊維に染み込み、腐敗が一気に加速してやがる。これじゃあ、周囲の肉はもう酸毒に侵されて、獣の餌にすらならねえ」
死骸からは無数の緑色のハエがブーンと羽音を立てて飛び交い、肉の表面はすでに白く濁った腐敗ガスで泡立っていた。
もし正しい解体手順を踏んでいれば、この一頭の湿原鹿からだけでも、数分の極上の赤身肉と、防具に加工できる強靭な革、そして高値で取引される薬効豊かな角が手に入っていたはずだった。
だが、ここにあるのは、ただ腐り果てて大地を汚すだけの、巨大な生ゴミの塊と化していた。
「……あいつらだ」
不意に、ティオの口から低く絞り出すような声が響いた。
ティオは焦土の縁に屈み込み、泥の上に残された一本の焦げ跡を見つめていた。
その焦げ跡は、扇状に広がる特殊な三叉の紋様を描いていた。
高純度の魔力付与が施された特注の魔法杖から放たれる、極大火炎魔法の着弾点に特有の焼き印。
「エドガーの杖の跡だ……! それに、この軍靴のスパイクの足跡……間違いねえ、『金色の暁』の連中だッ!!」
ティオの拳がギリギリと軋んだ。
爪が手のひらに食い込み、赤い血が泥の上に滴り落ちる。
脳裏に、かつて自分がそのパーティーで『荷物持ち』として虐げられていた日々の記憶が、鮮烈な炎となって蘇っていた。
――『おいティオ! グズグズするな、魔石を拾え!』
――『肉だの皮だの、そんな重くて2倍にしかならねえゴミを運ぶ暇があるなら、魔石袋をもう一つ背負え!』
――『エリートの俺たちが浅瀬の雑魚の肉なんか食うかよ! ギルドに戻って高級亭で酒を飲む方がよっぽど効率的だ!』
傲慢なリーダー、魔導剣士エドガーの甲高い笑い声。
火炎魔法でモンスターの群れを一瞬で炭に変え、ティオに命じて、まだ熱い死骸の腹からナイフで魔石だけを強引にえぐり出させていた。
ティオが「皮や肉も持って帰れば、街の職人や食堂が助かります」と進言した時、エドガーは大剣の柄でティオの腹を容赦なく殴りつけたのだ。
『荷物持ちの分際でエリートに指図するな! ギルドの査定で評価されるのは魔石の討伐証明だけだ! ゴミを運ぶ奴はゴミ箱に捨ててやるぞ!』と。
「あいつら……っ! 俺を追い出した後も……ずっとこんなことを続けてやがったのか……!!」
ティオの全身が、激しい怒りと悔しさで小刻みに震えていた。
大剣を背負う両腕の筋肉がバキバキと音を立て、瞳には紅蓮の怒気宿っている。
「浅瀬の魔物を手当たり次第に焼き殺して……金になる魔石だけを袋に詰めて……残りの命を、全部こんな風に焼き捨てていったんだ……! 肉を食うためでも、誰かの役に立つためでもねえ……! ただ自分たちのランクを上げて、手っ取り早く大金を稼ぐためだけに……ッ!!」
ティオの叫びは、焦土と化した森に虚しく木霊した。
かつてはその理不尽に耐え、命令に従うことしかできなかった。
だが、バルツと出会い、獲物の命を奪うことの重みを知った。
棘兎の一本の骨、縞川魚の一枚の鱗、蔦蛇の皮一枚に至るまで、丁寧に刃を滑らせ、余すところなく命をいただき、美味しく食べることで血肉に変えてきた。
命を尊ぶことを学んだティオだからこそ、目の前に広がるこの「命の冒涜」の光景が、魂を刃物で抉られるように耐え難かったのだ。
「許せねえ……! あんな奴ら……冒険者なんかじゃない……! ただの荒らし屋だ……!!」
ティオが激昂して大剣の柄に手をかけたその時。
背後から、静かな足音が近づいてきた。
無造作に歩み寄ってきたバルツが、ティオの肩にポンと大きな右手を置いた。
その手は、決して力が入っているわけではないのに、ティオの燃え盛る怒りの炎を、すっと押し鎮めるような不思議な重みと温もりを持っていた。
「落ち着け、ティオ。怒りで視界を曇らせるな。狩人が森で感情を剥き出しにすりゃ、最初に死ぬのは自分自身だ」
「で、でもバルツのおっちゃん……! こんなの、あんまりだろ!? あいつら、森の命をなんだと思ってるんだよ……!」
「ああ。分かってる」
バルツは短く答え、死骸の山の頂へとゆっくりと視線を向けた。
その横顔には、いつもの呑気で締まりのない笑みは微塵もなかった。
深い皺の刻まれた瞳の奥底に、底知れぬ静謐な冷たさと、古き狩人としての絶対の覚悟が宿っていた。
「あいつらは、まだ知らねえんだよ。命を粗末に扱った人間が、この魔境でどんな代償を支払うことになるかをな」
バルツの呟きと共に、湿地帯の奥深くから、ヒエッ……と冷え切った湿った風が吹き抜け、焦土の上に漂う悪臭の煙を揺らした。
それは、傷つけられた原生林が放つ、静かなる復讐の咆哮の前触れのようだった。




