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第026話:古傷の疼きと、湿地帯を渡る不穏な風

秋の陽光が西の空へと傾き始め、原生林の巨木たちが長い影を泥濘の上に伸ばしていた。

 木々の梢を渡る風は冷たさを増し、湿地帯特有の霧が、薄紫色のヴェールのように水面を覆い始めていた。

 腐れ沼のほとり。

 甲羅鍋の残骸を清流の水で綺麗に洗い清め、寸胴鍋を背嚢にしっかりと括り付けたティオとニーナが、満足そうに丸くなったお腹を撫でながら、焚き火の白い灰を湿った土で丁寧に埋めていた。

 煙を残せば、夜行性のモンスターを刺激する。これもバルツに教わった野営の基本作法だった。


「ふう、お腹いっぱい食べたね、ニーナ!」

「うんニャ! あたし、もう動けないくらい満腹ニャ! カニミソのお雑炊、夢に出てきそうニャ!」

「シェリル姉ちゃん、お茶のおかわり淹れてくれたよ。飲むかい?」

「いただくニャー!」


 若者たちの明るく無邪気な笑い声が、静かな湿原に響き渡っていた。

 だが――。

 その輪から少し離れた高台の縁に、一人、腕を組んで佇む男がいた。

 無精髭の老狩人、バルツ。

 普段の猫背でのんびりとした空気は完全に消え去り、その眼光は冷ややかに研ぎ澄まされ、西の原生林の深部――立ち入り禁止区域の方角をじっと見据えていた。


「……あたた。冷えるな」


 バルツは左手を背中に回し、革の上着越しに、背骨の左脇を強く押し当てた。

 ギチ、ギチ……と、皮膚の奥深くが不規則に脈打っていた。

 背中を斜めに走る、三本の太いケロイド状の古傷。

 20年前、魔境最深部「世界樹の心臓」で、暴走した神話竜の爪によって刻まれた傷痕だった。

 通常の傷であれば、とっくに治癒魔法で消え去っているはずのものだ。

 だが、この傷は違った。

 神代の魔力を浴びたその傷痕は、バルツの神経系と大地の地脈(レイライン)を分かちがたく結びつけてしまっていた。

 魔境の天候が激変する前触れ。

 モンスターたちが異常な狂乱を起こす予兆。

 そして――大地の魔力循環が不自然に破壊され、生態系が悲鳴を上げている時。

 バルツの背中の古傷は、まるで熱した針を突き立てられたかのように脈打ち、周囲の魔力の歪みを正確に感知する生体レーダーと化すのだ。


「……風が、腐ってるな」


 バルツは指先を唇に当てて湿らせ、風上へと掲げた。

 風は、西から東へ向かって吹いている。

 先ほどまでは、腐葉土の甘い樹液の匂いや、自生ハーブの清涼なアロマを運んできていた秋風。

 だが今、その風に乗って流れてきているのは――

 吐き気を催すほどの、酷い「焦げた肉の臭気」だった。

 さらに、何日も放置されて腐敗した獣の内臓の臭い。

 そして、空気を乾燥させ、木々を枯死させるような、不自然な高熱魔法の残留魔力粒子。


「バルツおじちゃん……?」


 トツ、トツ、と軽い足音が近づいてきた。

 ニーナだった。

 先ほどまでの無邪気な笑顔は消え去り、フェネックの大きな耳を真横に伏せ、青ざめた顔でバルツの革エプロンの裾をギュッと握りしめていた。


「ニーナ。お前の鼻にも、届いたか」

「……うんニャ。すっごく、嫌な匂いがするニャ」


 ニーナは震える声で、西の深い森を指差した。


「血の匂いニャ。それも……一匹や二匹じゃないニャ。何十匹もの獣が、苦しみながら焼き殺されたような……冷たくて、ドロドロした血の匂いがいっぱい流れてくるニャ……」

「ティオ、シェリル。片付けをやめて、こっちに来い」


 バルツの低い声に、作業をしていた二人が顔を上げた。

 いつもと違うバルツのただならぬ空気を察し、ティオは大剣を背負い、シェリルは杖を握りしめて駆け寄ってきた。


「おっちゃん、どうしたんだよ? 何か出たのか?」

「先生、魔力の流れが……西の方角で、酷く波打っています。まるで、何者かが大地の結界を強引に引き裂いたかのような不協和音が……」

「ああ。人間の仕業だ」


 バルツは煙草を取り出そうとして、やめた。

 道具袋から、最も重厚な【骨割り剛刀】と愛刀《黒喰》の柄の位置を確かめ、ベルトの金具を締め直す。


「この先は、浅瀬と第2層の境界地帯だ。本来なら、新米が立ち入っていい場所じゃねえ。……だが、放っておくわけにはいかん臭いがしてる」

「人間の仕業って……まさか、他の冒険者パーティーですか?」


 シェリルが不安そうに尋ねる。

 バルツは冷たい目で西の原生林を見据えた。


「高火力の攻撃魔法でモンスターの群れを一網打尽にし、金になる『魔石』だけを腹からくり抜いて、残りの死骸をその場に野焼きにして放置した跡だ」

「なっ……!?」


 ティオの脳裏に、かつて『金色の暁』にいた頃の苦い記憶がフラッシュバックした。

 エドガーたちは、いつだってそうだった。

 強力な火炎魔法で広範囲のモンスターを焼き払い、ティオに命じるのは「魔石を拾い集めること」だけだった。

 肉を回収しようとすれば「そんな重いゴミを運ぶ暇があったら、次の獲物を探せ!」と罵倒され、毛皮を剥ごうとすれば「時間の無駄だ!」と蹴り飛ばされた。

 ティオが運ばされていた大きな布袋の中には、金貨に換わる魔石だけがギッシリと詰め込まれ、背後にはいつも、黒焦げになった無数の魔物の死骸が煙を上げて放置されていたのだ。


「魔石だけ抜いて……肉も皮も、全部焼き払って捨てたってことか……!?」

「そうだ。金儲けしか頭にねえ王都の大手ギルドや、エリート気取りの連中がよくやる手口だ。魔石は軽くて高く売れるが、肉や皮を運ぶのは荷物持ちが要るし、解体に時間もかかるからな。『効率』を最優先にする奴らは、そうやって獲物の命をゴミのように焼き捨てていく」

「そんな……! あいつら……まだそんな真似を続けてやがったのか……!」


 ティオの拳が、白くなるほど強く握りしめられた。

 エドガーたちの冷笑が蘇る。

 『お前はただの肉壁だ』

 『効率の悪いゴミは切り捨てる』

 傲慢で、冷酷なエリートたちの理屈。


「森の命を奪っておいて、死骸を腐らせて放置すりゃ、どうなると思う?」


 バルツの声が、地を這うように低くなった。


「腐臭に引き寄せられて、深層から凶暴な肉食獣が浅瀬へ這い上がってくる。死骸のヘドロが地脈を汚し、生態系のバランスが崩壊して、最後にはモンスターたちの暴走(スタンピード)が起きる。……そのツケを払わされるのは、いつも現場の砦で暮らす人間たちだ」


 西へ向かう森の木々は、見る見るうちにその姿を変えていた。

 青々としていたシダの葉は黒く縮れ、巨木の幹からは濁った樹液が血のように滴り落ちている。

 地脈が汚染され、大地の呼吸が詰まっている証拠だった。

 バルツは背中の古傷をもう一度強く押さえ、足を踏み出した。


「行くぞ。何が起きてるか、この目で確かめる。……ティオ、大剣の切先を下げて歩け。シェリル、周囲の風を殺すな。ニーナ、風下の匂いを追え」

「「「はいッ!!」」」


 三人の返事に、迷いはなかった。

 るんるんピクニックの空気が一変し、四人は引き締まった表情で、腐臭の漂う西の深林へと足を踏み入れた。

 ティオは大剣の重みを両手に感じながら、前を見据えた。

 昨日まで、自分はただ「強くなりたい」と願うだけの無力な少年だった。

 だが今は違う。

 バルツから命の重みと解体の理を学び、仲間と共に美味しいご飯を分かち合ってきた。

 命を奪うことの意味を知ったからこそ、命を冒涜する行いに対して、胸の奥底から激しい義憤が湧き上がっていた。

 自分たちを捨てたエリートパーティー「金色の暁」の影。

 森を汚す者への、自然の怒り。

 そして、老狩人が最も忌み嫌う「命の冒涜」の惨状が、枯れ木の茂みの向こうで、その醜悪な口を開けて待ち構えていた。

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