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第020話:忍び寄る擬態の影! 香草蔦蛇の奇襲

翡翠川の清流を離れ、原生林の奥深くへと足を踏み入れた四人を迎えたのは、まるで緑の牢獄のような光景だった。

 頭上を覆い尽くす、幾重にも絡み合った巨大な蔓(ツル)植物のカーテン。

 湿地帯特有の生ぬるい風が吹き抜けるたび、太古の巨木の枝から垂れ下がった蔦が、まるで無数の蛇のようにゆらゆらと揺れ動いていた。

 足元は、足首まで埋まる黒い腐葉土の泥濘。

 踏み出すたびに、ズブッ……ジュポッ……と重い音が響き、油断すれば一歩ごとに体力を削り取られる過酷な地形だった。


「う……うにゃあ。足が抜けなくなっちゃうニャ……!」


 小柄なニーナが、泥に足を取られてよろめいた。

 ティオが素早く大剣の鞘を杖代わりに差し出し、ニーナの腕をグッと支える。


「大丈夫か、ニーナ! 泥の上に浮いてる木の根を踏むといいぞ。沈まないからさ」

「ありがとニャ、ティオ! ……でも、この森、なんか変な匂いがするニャ」


 ニーナが立ち止まり、フェネックの大きな耳をピンと立てて、鼻先をスンスンと鳴らした。

 腐葉土の生温かい泥の匂いの中に、混ざり合っていたのは――

 甘く、清涼感のある、不思議な芳香だった。

 まるで、王都の薬草園に迷い込んだかのような、濃厚なタイム、ローズマリー、そして野生のセージを混ぜ合わせたような爽快なハーブの香り。


「確かに……。空気がとても爽やかですね」


 シェリルが手帳を胸に抱き、木々の梢を見上げる。


「このあたりは『香草の蔦林』と呼ばれる特殊な植生地帯です。大地の魔力を吸い上げた希少な薬草類が樹上に寄生して花を咲かせるため、空気全体に自生ハーブのエキスが充満しているのだとか。……あ、見てください! あそこの太い蔦の枝に、薄紫色の綺麗な花が咲いています!」


 シェリルが無邪気に指差した先。

 巨木の枝から垂れ下がった、太さ腕ほどもある緑色の蔓。

 その表面には、小さな紫色の小花が無数に咲き乱れ、甘い蜜の香りを放っていた。

 シェリルが手帳に書き留めようと、無防備にその蔦の下へと歩み寄った、その時――。


「止まれ、シェリル!」


 背後から、低く鋭いバルツの怒号が飛んだ。

 だが、それよりも早く。

 ニーナの金色の瞳が、カッと見開かれた。


「――っ! シェリル、上ニャ!!」


 シュルルルルッ……!

 風の音ではなかった。

 紫色の花を咲かせていたはずの「太い蔦」の一部が、突如として意志を持ったかのように身をくねらせたのだ。

 緑色の樹皮に見えていたのは、精巧な菱形の鱗。

 花のように見えていたのは、獲物を誘い寄せるための擬態器官。

 体長およそ2メートル。

 木々の枝と完全に同化していたその怪物――《香草蔦蛇(ハーブ・バインスネーク)》が、頭上から音もなく滑り落ちてきたのだ!

 カパッ!と開かれた三角形の頭部。

 その口内からは、二本の鋭利な毒牙がギラリと光り、無防備なシェリルの細い首筋へと、電光石火の速度で牙を突き立てようと迫る!


「きゃああっ……!?」


 シェリルが息を呑み、足が竦む。

 魔法の詠唱など、一文字すら間に合わないゼロ距離の奇襲。

 だが――

 その牙がシェリルの柔肌に届くよりも、コンマ一秒早く。

 バシュッ!と、泥を蹴り上げる鋭い跳躍音が響いた。


「させるかニャーーーーーッ!」


 飛び込んできたのは、ニーナだった。

 フェネックの身軽さを極限まで活かした、低空の回転跳躍。

 逆手に握られた除腺小刀の刃先が、朝の木漏れ日を反射して一閃した。

 閃光のような軌跡。

 ニーナの小刀は、蛇の胴体ではなく、宙を舞う蛇の「首の付け根」――最も骨が薄く、毒腺と心臓を繋ぐ主動脈の集中する急所を、正確無比に一刀両断した!


 スパンッ!


 乾いた肉を断ち切る快音。

 空中で切り離された三角形の頭部が、クルクルと回転しながら泥の上へとポトリと落ちた。

 続いて、2メートル近い緑色の胴体が、ビクビクと二、三度痙攣した後、シェリルの足元の腐葉土の上へ力なく横たわった。

 血飛沫は、シェリルのローブに一滴すら飛んでいなかった。

 ニーナが猫のように四つん這いで着地し、フウッと荒い息を吐き出す。


「……ふ、ふんす! シェリル、怪我はないニャ!?」

「に、ニーナちゃん……! あ、ありがとうございます……! 私、全く気づきませんでした……!」


 シェリルはその場にへたり込み、胸を押さえて激しく呼吸を乱した。

 ティオも大剣を抜いて駆け寄り、切り落とされた蛇の頭部を警戒しながら睨みつける。


「すげえよニーナ! あんな一瞬で、頭上からの奇襲を見切って首を切り落とすなんて!」

「耳がピクッて動いたニャ。風の音とは違う、鱗が木肌を擦るシュルシュルって音が聞こえたニャ!」

「よくやった、ニーナ。満点の前衛の仕事だ」


 バルツが歩み寄り、泥の上に横たわる2メートルの蛇の胴体を、足先で軽く突いた。

 危険度Cランク指定の奇襲型モンスター、香草蔦蛇。

 通常の蛇と違い、このモンスターは毒牙に獲物を麻痺させる即効性の神経毒を含んでいるが、その生態は極めて特異だった。


「安心しろ、シェリル。首を落としたからもう毒は出ん。……それにしても、いい獲物を仕留めたな」

「えっ……獲物って、この蛇を食べるのですか……!?」


 シェリルがおそるおそる蛇の胴体を見つめた。

 普通なら、毒蛇の死骸など気味悪がって誰も近づかない。

 だが、その切り口から立ち上っていたのは――

 生臭い血の臭いなどではなかった。


「……あれ? すっごく……いい匂いがするよ、おっちゃん」


 ティオが鼻を近づけて呟いた。

 切り落とされた首の断面から、プツプツと滲み出ている澄んだ透明な脂。

 そこから漂ってくるのは、先ほど森全体を包んでいた、あの爽快な野生ハーブの香りそのものだった。

 タイムの清涼感、セージのほのかな苦味、そしてラベンダーのような甘い芳香。

 まるで、最高級のハーブオイルをそのまま肉に擦り込んだかのような、清々しい香気が漂っていたのだ。


「香草蔦蛇ってのはな、肉食じゃねえんだよ」


 バルツがニヤリと笑い、道具差しから一本の極薄の小刀を抜いた。


「こいつらは、原生林の高所に咲く希少な薬草の花蜜や、薬効のある若芽だけを主食にして生きてる。だから、全身の筋肉の繊維一本一本に、二十種類以上の野生ハーブのエキスが何年もかけて凝縮されてるんだ。……いわば、歩く『自生ハーブチキン』だな」

「歩く……ハーブチキン……!?」


 シェリルとティオの目が点になった。

 バルツは蛇の胴体を軽く指で押し、その肉質を確かめる。


「普通の蛇の肉ってのはな、筋肉質で硬く、脂肪が少なくてパサパサしがちだ。だがこいつは別格よ。薬草の油分を背骨の周りの四本の筋肉にたっぷりと溜め込んでるから、鶏のササミの柔らかさと、トラフグの弾力、そして上質なオリーブオイルのしっとり感を兼ね備えてる。酒好きの冒険者なら、金貨一枚払ってでも串一本を欲しがる幻の珍味だぞ」

「金貨一枚……!?」


 ティオが息を呑み、ニーナがゴクリと喉を鳴らした。

 バルツは感心したようにニーナを見つめる。


「それにしても、ニーナ。あの木漏れ日と風の中で、よくあの微細な鱗の擦れる音を聞き分けたな。並の斥候じゃ、首筋に噛みつかれるまで気付かんぞ」

「えへへ……なんか、風の匂いと音が、頭の中でパチッて繋がったニャ! あそこだけ、風が不自然に避けて通ってたニャ!」

「たいしたもんだ。風の淀みを感じ取るのは、熟練の森番でも何年もかかる技だぞ」


 バルツの言葉に、ニーナが嬉しそうに尻尾をブンブンと振る。

 無意識のうちに発揮された、古代の魔境守護民族「銀狐の民」の類稀なる血の片鱗。


「さて、首を落とした今が一番新鮮だ。毒が肉に回る前に、川辺へ戻って『裏返し剥ぎ』で一気に捌くぞ。……ティオ、胴体を担げ。重くねえぞ」

「う、うん! 任せて!」


 ティオが蛇の胴体を肩に担ぎ上げた。

 緑色の美しい鱗が、木漏れ日を浴びて宝石のように輝く。

 恐怖の奇襲モンスターが、プロの知恵によって、またしても極上の食材へと化けようとしていた。

 落ちこぼれカルテットの魔境ピクニック。

 次なるメニューは、一度食べたら病みつきになるという、究極の珍味――『香草蔦蛇の皮パリパリ塩焼き串』の調理へとなだれ込んでいく。

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