第018話:燻煙草の微睡みと、毒針の安全ピンセット除去
神代椈の巨木の根元。
樹洞から漏れ出る琥珀色の光と、かすかな甘い芳香が、夜霧を黄金色に染め上げていた。
バルツは湿らせた青竹の筒を地面に立てると、その中に調合した薬草の束――シトロネラ草三、燻煙草七を詰めた。
火打ち石をカチリと打つ。
ジュウ……と小さな音を立てて、湿り気を含んだ薬草が燻り始めた。
「ティオ、蕗の葉を持って、煙を真上へ仰ぎ送れ。強すぎる風はダメだ。春のそよ風のように、ふわりと樹洞の入口へ届けるんだ」
「了解、おっちゃん!」
ティオは巨大な蕗の生葉を両手で持ち、腰の重心を落として静かに腕を仰いだ。
モクモクモク……。
青白い、冷涼で甘やかな煙が、一本の柱となって樹洞の中へと吸い込まれていく。
燻煙草の放つ、ラベンダーと白檀を混ぜ合わせたような重厚なアロマの香り。
樹洞の入口で換気作業をしていた十数匹の《蜜溜まり大蜂》たちが、煙に触れた瞬間、ピクリと羽ばたきを止めた。
「ブゥゥゥゥン……」
羽音が、目に見えて低く、緩やかになっていく。
蜂たちはパニックを起こして襲いかかってくるどころか、煙の心地よい鎮静成分に包まれ、六角形の巣房の中に頭を突っ込んで、蜜をゴクゴクと腹一杯に吸い込み始めた。
本能的な「山火事への備え」――蜜を限界まで吸い、体を重くして動かなくなる習性だ。
やがて、数分が経過した頃。
巣の表面にいた大蜂たちが、次々と手足を折りたたみ、丸太の上でスヤスヤと安らかな寝息を立てるように完全に眠りに落ちていった。
猛毒の針は鞘の奥深くに収納され、凶悪だった大顎の威嚇音も完全に消え去っていた。
「……にゃあ。本当に、みんな寝ちゃったニャ……!」
ニーナが目を丸くして感嘆の声を漏らした。
あれほど凶悪で恐ろしかった危険度Bランクの魔獣が、煙一つで無力化されている。
「よし、今がチャンスだ。ニーナ、身軽なお前の出番だぞ。木登りはできるか?」
「お任せニャ! 猫耳族の木登りを舐めちゃ困るニャ!」
ニーナは腰のポーチに麻袋と陶器の壺を括り付けると、爪先を樹皮の窪みに引っ掛け、まるでリスのようにスルスルと巨木の幹を駆け上がった。
地上4メートルの樹洞の入口へ、軽やかに着地。
樹洞の中に入ると、そこは一面の黄金世界だった。
「バルツおじちゃん! 中、すっごいニャ……! 壁も天井も、ぜーんぶ黄金の六角形で埋め尽くされてるニャ!」
「ニーナ、よく聞け。巣の中心部には絶対に手を出すな。そこには女王蜂と卵がある。俺たちがいただくのは、巣の最下層にある『外縁部の蜜房』と、成熟した『蛹の部屋』だけだ」
「分かったニャ!」
バルツの指示通り、ニーナは除腺小刀を慎重に取り出した。
巣の最下層、蜜がタプタプに溜まって琥珀色に透き通っている六角形のブロック。
蜜蝋の結合部に小刀の刃先をスーッと滑らせると、パカッとレンガ大の【完熟巣蜜】の塊が綺麗に切り離された。
ずっしりと重い。
断面から、水晶のように澄んだ黄金の蜂蜜が、トロリとニーナの指先へ滴り落ちる。
舐めてみたい衝動をぐっと堪え、ニーナは割れないように陶器の壺へと丁寧に収めた。
「次は、幼虫の部屋だ。薄皮の蓋が白く変色してる巣房を探せ」
「あったニャ! ここ、蓋が白くなってるニャ!」
「小刀で蓋の薄皮だけをペラリと剥がせ。中にいる幼虫を傷つけんようにな」
ニーナが薄皮の蓋を一枚ずつ丁寧に剥がしていく。
六角形の小部屋の中から現れたのは――
手のひらにずっしりと乗るほどに大きく、丸々と太った純白の幼虫だった。
透き通るような乳白色の肌。
生臭さは微塵もなく、まるで極上の練乳とアーモンドを合わせたような、甘美な香りを放っている。
蜜と花粉だけを食べて育った、アンバー・ホーネットの極上の蛹だ。
「とれたニャ! ぷりっぷりで、すっごく柔らかいニャ!」
「よし、十匹で十分だ。それ以上は採るな。残りは巣の維持のために残しておく」
「了解ニャ!」
ニーナは麻袋に幼虫を大切に収め、壺を抱えて樹洞から音もなく飛び降りてきた。
着地と同時に、ティオが受け止める。
「無事だったか、ニーナ!?」
「へへっ、かすり傷一つないニャ! 大豊作ニャ!」
地上へ戻ったバルツは、巨木の根元に敷いた清潔な晒し布の上に、採集した幼虫を一列に並べた。
朝焼けの光が、原生林の梢を淡い桃色に染め始めている。
「さて、最後の安全確認だ。幼虫とはいえ、成虫になりかけの個体には、すでに腹部に未発達の毒針袋が形成され始めてる場合がある。……ピンセットを出せ、ティオ」
バルツは細工用のピンセットを受け取ると、一匹の幼虫を手のひらに乗せた。
尾の先端、わずかに黒ずんだ極小の突起。
そこにピンセットの先端を当て、ミリ単位の精度で皮膚をつまむ。
プチッ。
引き抜かれたのは、芥子粒ほどのごく小さな黒い袋。
中には、まだ未熟な麻痺毒が蓄えられていた。
「これだ。この毒袋を丁寧に取り除いてやることで、子供やお年寄りでも100パーセント安全に食えるようになる。どんな極上の食材でも、安全を担保できなきゃプロの仕事とは言えん」
「すげえ……こんな小さな袋まで、見逃さずに外すんだね……」
ティオが感嘆の声を漏らし、自分もピンセットを握って、バルツの手本通りに二匹目の幼虫の毒袋摘出に挑戦した。
指先を脱力させ、呼吸を止めて、スーッと引く。
プチッ。
綺麗に毒袋だけが抜け、幼虫の白い肌には傷一つ残らなかった。
「できた! おっちゃん、できたよ!」
「筋が良いぞ、ティオ。手のブレが全くねえ。前衛の剣筋と同じだな」
バルツに褒められ、ティオが誇らしげに胸を張る。
十匹すべての毒抜きが終わり、壺の中には黄金の完熟巣蜜がたっぷりと満たされた。
樹洞の中では、煙の効果が切れ始め、大蜂たちが気持ちよさそうに目を覚まして羽ばたきを再開していた。
巣は破壊されず、女王も無傷。来年もまた、この場所で極上の蜜が生み出され続ける。
命を奪わず、恵みだけをいただく「調和の採集術」の完全な成功だった。
――そして、三人が意気揚々と高台の野営地へと戻ってきた、その時。
「あ、皆様! どこへ行っていたのですか!?」
テントから飛び出してきたシェリルが、エプロン姿で駆け寄ってきた。
その両手には、熾火の鉄板でこんがりキツネ色に焼き上げられた、湯気の立つ平焼きパンの皿が抱えられていた。
「朝起きたら誰もいなくて心配したのですよ! ……でも、ふふん。見てください! 先生に教わった通り、弱火の魔力制御で、パンの表面を焦がさずに中までふっくらと焼き上げました!」
「おお、シェリル! 最高のタイミングだ!」
ティオが麻袋を掲げ、ニーナが陶器の壺の蓋をパカッと開けた。
朝露の冷気の中に、解き放たれる黄金の完熟蜂蜜の暴力的な甘香。
シェリルの尖った耳が、ピクンッ!と直立し、青い瞳が爛々と輝いた。
「こ、これは……昨日のあの蜂蜜……!? それに、あのぷりぷりの蜂の子……!?」
「さあて、シェリル」
バルツが道具袋からフライパンを取り出し、ニヤリと笑った。
「焼きたてのパンに、焦がしバターの蜂の子ソテー、そして採れたての完熟巣蜜をたっぷりかけるぞ。……朝飯の時間だ!」
「「「いただきまーーーーーーすっっっっ!!!!」」」
朝の澄んだ光が降り注ぐ翡翠川のほとり。
過酷な魔境の朝を黄金色に染め上げる、甘く香ばしい香気の爆発。
昨日の感動を遥かに凌駕する、至高の朝食パーティーが、今まさに始まろうとしていた。
落ちこぼれたちのるんるんピクニックは、いよいよ中盤の更なる美味の領域へと足を踏み入れていく。




