第017話:原生林の夜光! 巨木の樹洞に眠る黄金の巣
夜霧が立ち込める原生林は、昼間とは全く異なる神秘的な静寂に包まれていた。
頭上を覆う太古の巨木たちの隙間から、青白い月光が幾筋もの光の柱となって地上へと降り注いでいる。
木々の足元に自生する夜光苔や、腐木に生える燐光茸が、エメラルドグリーンと淡い瑠璃色の光を放ち、二人の足元をぼんやりと照らし出していた。
原生林の夜は、視界が極端に制限される危険な時間帯だ。
木の根に足を取られて転倒すれば、その音を聞きつけた夜行性の捕食者たちが一斉に群がってくる。
だが、バルツは落ち葉を踏みしめないよう、足の外側のエッジを使って無音で滑るように歩いていた。ティオもその背中を追い、重心を低く保ちながら、呼吸の音すら殺して前進する。
――とその時。
「……くすくす、待つニャ!」
背後のシダの茂みから、ひょっこりと三角耳が飛び出してきた。
フェネックの少女、ニーナだった。
毛布代わりに羽織った革のマントをぎゅっと抱きしめ、暗視の効く金色の瞳をキラキラと輝かせながら、小走りで二人に追いついてくる。
夜行性の血を引く獣人にとって、この夜の森はむしろ昼間以上に感覚が研ぎ澄まされる庭のようなものだった。
「ニーナ!? 寝てたんじゃなかったのかよ!?」
「ティオ、声が大きいニャ。……甘い匂いが、テントの隙間からふわっと漂ってきたニャ! こんな極上の匂い、寝てなんかいられないニャ!」
「はは、さすがはフェネックの鼻だな。どんな結界よりも正確だ」
バルツは苦笑しながら、ニーナの頭をポンと叩いた。
「ついてくるなら、絶対に音を立てるなよ。これから行くのは、危険度Bランク指定の《蜜溜まり大蜂》の縄張りだ。一匹の針に刺されただけで、成人の屈強な戦士でも一分で全身麻痺して呼吸が止まる」
「ご、ごくり……。分かったニャ、足音は完全に消すニャ」
ニーナは真剣な顔で頷き、尻尾を身体に巻きつけてバルツの背後にピタリと張り付いた。
三人は巨木の根を乗り越え、さらに原生林の深部へと進んでいく。
前方の霧が、次第に濃密な琥珀色の光を帯びてきた。
プーン……プーン……という、空気を微かに震わせる重厚な羽音。
そして――。
「……うわあぁぁぁ……っ!」
ティオが息を呑んだ。
原生林の中央にそびえ立つ、樹齢千年を超える巨大な神代椈の巨木。
その幹の地上4メートルほどの位置に、大人が十人は入れそうな巨大な樹洞が開いていた。
樹洞の内部から漏れ出していたのは、目も眩むような黄金の輝きだった。
直径2メートルを超える、巨大な球状の巣。
何千、何万もの精巧な正六角形の巣房が組み合わさったその構造物は、表面が琥珀色の蜜蝋で完全にコーティングされ、内側から自ら光を放っているかのように輝いていた。
巣の底部の穴からは、黄金色の液体――完熟の巣蜜が、まるで水飴のように重たい雫となって、トローン、トローンと下の苔むした岩の上へと滴り落ちている。
「す……すごいニャ……! 岩の上に、黄金の池ができてるニャ……!」
ニーナが目を輝かせる。
漂ってくるのは、先ほどの比ではない暴力的な甘香だった。
原生林に咲き誇る千種もの花々の蜜が、蜂たちの酵素によって極限まで発酵・濃縮された究極の蜜。
濃厚でありながら、後味には高山植物のような凛とした清涼感が漂い、吸い込むだけで脳がジンジンと痺れるような感覚があった。
「だが、見ろ。番兵がいるぞ」
バルツが低い声で樹上を指差した。
巨大な巣の周囲。
体長30センチ――子犬ほどもある巨大な漆黒の蜂たちが、十数匹、巣の表面を蠢いていた。
黒と黄色の鮮烈な警告色。
腹部の先端には、大人の小指ほどもある黒光りする毒針が、不気味に伸縮を繰り返している。
その毒針は中空のガラス管のように滑らかで、内部には獲物の赤血球を一瞬で破壊する溶血毒と、神経伝達を遮断する強烈な神経毒の二重ブレンドが充填されていた。根元の筋肉ポンプが一度作動すれば、甲冑の隙間を容易に貫き、数ミリリットルの劇薬を体内に撃ち込んでくる。
額の複眼は夜光を反射して怪しく光り、巨大な大顎をカチカチと威嚇するように鳴らしていた。
「ひぃっ……! で、デカい……! あんなのが十匹もいたら、大剣を振る前に串刺しにされちゃうよ!」
ティオが思わず身を縮める。
新米冒険者はおろか、ベテランの斥候部隊ですら、アンバー・ホーネットの巣を見つけたら即座にギルドへ報告して専門の討伐隊を呼ぶレベルの危険地帯だ。
大魔法で焼き払うか、遠距離から火矢を射ち込んで巣ごと破壊するのが通常の討伐法だった。
だが、バルツは首を横に振った。
「火矢で射ったら、せっかくの極上巣蜜が炭だらけになるし、中の柔らかい幼虫が黒焦げになっちまう。そんな野蛮な真似は解体士の風上にも置けん」
「じゃ、じゃあどうするのおっちゃん!? あいつら、近づいただけで一斉に襲いかかってくるよ!」
「敵を知れ、ティオ。虫ってのはな、夜露が降りて気温が下がると、体温を保てなくなって活動限界を迎えるんだ。あいつらが巣の外で羽ばたいてるのは、攻撃するためじゃない。冷たい夜風を巣の中に送り込んで、中の幼虫を冷やすための『換気作業』だ」
「換気作業……!?」
「そうだ。だから、急に暴れ回ったり、大きな音を立てなきゃ、攻撃態勢には入らん。……そして、虫には『弱点』がある」
バルツは背嚢から、乾燥させた二種類の薬草の束を取り出した。
一つは、夕方にも使ったシトロネラ草。
そしてもう一つは、銀色の細い毛に覆われた、独特の甘く重い香りを放つ薬草――『燻煙草』だった。
「虫にとって、煙は『山火事』の合図だ。煙の匂いを嗅ぐと、本能的にパニックを起こすのを防ぐため、巣の中の蜜をお腹いっぱいに吸い込んで、じっと動かなくなる習性がある。さらに、この燻煙草に含まれる鎮静成分は、蜂の神経を心地よく麻痺させて、深い眠りへと誘うんだ」
「眠らせる……! 殺さないで、眠らせるニャ!?」
「ああ。シトロネラ草が三、燻煙草が七の黄金比率だ。熱い煙じゃなく、少し湿らせた冷たい白煙を送り込むのがコツだ。熱い煙だと蜂が怒り狂って飛び出してくるが、冷たい煙なら、春の陽だまりに包まれた赤ん坊のようにスヤスヤと眠りに落ちる」
バルツは竹筒の水を薬草の束に吹きかけ、適度な湿り気を与えた。
自然の命を絶滅させる乱獲ではなく、自然の循環と共生するプロの知恵。
ティオは深く感銘を受け、大剣を握る手に力を込めた。
「殺す必要なんかない。必要な分の蜜と幼虫だけを分けてもらって、巣はそのまま残しておく。そうすりゃ、また来年もここに来れば、極上の巣蜜が採れるだろ? 獲物はな、絶やしちゃいかん。命の源を残してこそ、永代の豊穣が約束されるのさ」
バルツはニヤリと笑い、火打ち石を手に取った。
その言葉の重みに、ティオもニーナも息を呑んで頷いた。
「ティオ、風下の位置に立て。巣の下へ静かに煙を誘導するぞ。シェリルが寝てる間に、俺たち三人で最高の朝食の具材を手に入れるぞ」
「はいッ、おっちゃん!」
「あたしも手伝うニャ! 蜜を入れる壺、しっかり持ってるニャ!」
琥珀色の光が満ちる神代椈の樹下。
夜の原生林の深淵で、猛毒の蜂たちを傷つけることなく眠らせる、バルツの「無血の採集術」が、今まさに静かに幕を開けようとしていた。
知恵と自然への敬意が紡ぎ出す、真夜中の大収穫祭の始まりだった。




