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第016話:焚き火の夜番と、老狩人が戦わない理由

魔境の夜は、息を呑むほどに深い静寂に支配されていた。

 木々の梢の間から覗く夜空には、王都の街明かりでは決して見ることのできない、満天の星屑が天の川となって輝いている。

 高台の野営地。

 シトロネラ草の燻煙が風上から静かに流れ、結界のように害虫や夜行性の小動物を遠ざけていた。

 テントの中からは、すやすやと心地よい寝息が二つ。

 昼間の演習とご馳走で完全にエネルギーを満タンにしたシェリルとニーナが、毛布にくるまって熟睡していた。

 そのテントの外、赤々と燃える小さな熾火(おきび)を挟んで、二人の男が座っていた。

 無精髭の老狩人バルツと、大剣を膝の上に置いた少年ティオ。

 第一陣の夜番だった。


 パチッ。


 広葉樹の枝が静かに爆ぜ、小さなオレンジ色の火の粉が夜気の中へ吸い込まれて消える。

 ティオは小刀を取り出し、拾ってきた細い枝の皮をカリカリと削りながら、隣のバルツの横顔をチラリと盗み見た。

 ランプの灯火に照らし出された、深い皺と無数の古傷。

 エプロンを外し、革の上着を羽織ったバルツは、普段の猫背の呑気なおっさんとは違う、どこか遠い過去を見つめるような静謐な空気をまとっていた。


「……おっちゃん」

「ん? どうした、眠れねえのか」

「いや……目が冴えちゃってさ。昼間のローストも、杉板焼きも、本当に信じられないくらい美味かったなって思って」


 ティオは削っていた小枝を熾火の中へ放り込んだ。

 火が枝を包み、ふわりと温かい光が少年の顔を照らす。


「俺さ、ずっと不思議だったんだ。おっちゃんのあの身のこなし……。あの跳ね棘兎を大剣の重みだけで仕留めた時も、川魚の泥腺を一瞬で引き抜いた時も、王都のエリート冒険者なんか足元にも及ばないくらい凄かった」

「買い被りすぎだ。ただの解体の基礎だよ」

「基礎なんかじゃないよ! エリートの『金色の暁』の連中だって、あんなこと絶対にできなかった! あいつらは大声で叫んで、派手な魔法をぶっ放して、獲物をズタズタにして威張ってるだけだった!」


 ティオの声に、微かな熱がこもる。

 膝の上の大剣の鍔――かすかに残る獅子の紋章を、指先でギュッと握りしめた。


「おっちゃんは、どうして前線で戦わないの? その腕前があれば、Sランク冒険者にだってなれるはずだし、王都の騎士団長にだってスカウトされるはずだよ。なのに、なんでこんな辺境のギルドの裏庭で、泥だらけになって解体屋なんてやってるの?」


 少年の純粋で、真っ直ぐな問い。

 夜風がサワサワと木々の葉を揺らし、翡翠川のせせらぎが遠くで鳴っていた。

 バルツは煙草を取り出すと、熾火の端から取った細い炭で火をつけた。

 ふうううっ……と、青白い煙が夜空へ昇っていく。


「……戦うのが、嫌になったからさ」


 低く、どこか掠れた声だった。

 バルツは煙草を指に挟み、星空を見上げた。


「20年前、俺も昔はお前と同じだったよ。『強くなりたい』『誰も倒せない巨大なモンスターをぶっ倒して、世界に名を轟かせたい』……そう思って、仲間たちとこの魔境の最深部まで潜っていった」

「最深部……! あの、神話の巨獣が眠るっていう『世界樹の心臓』まで……!?」

「ああ。行っちまったんだよ。若さと無知に任せてな」


 バルツの瞳の奥に、かつての吹雪と、血と泥の記憶が蘇る。


「最深部にはな、見たこともない神話級のモンスターがウジャウジャいた。俺たちは必死で戦った。大魔法を撃ちまくり、大剣を叩きつけ、力任せにモンスターを切り刻んで、首を討ち取ったよ。『俺たちが最強だ』って、天狗になって叫びながらな」

「……それの、どこがいけなかったの?」

「全部だよ」


 バルツは自嘲するように短く笑った。


「倒したまでは良かった。だが、最深部は補給の届かない極限の地だ。食糧が尽き、仲間たちが一人、また一人と飢え始めた。目の前には、倒したばかりの巨大な竜や巨獣の死骸の山があるのにな」

「えっ……倒したなら、その肉を食べれば……」

「食えなかったんだよ」


 バルツの声が、重く沈んだ。


「神話級の肉は、強大な魔力と猛毒を帯びていた。力任せに切り刻んだせいで、内臓の毒袋が破れて肉全体に毒が回っていた。血抜きも下処理も知らねえ俺たちは、肉を腐らせ、仲間が口にした肉には激しい毒が残っていて、激痛にのたうち回りながら死んでいった」

「あ……」

「俺の目の前でな、親友だった隊長が、飢えと毒で痩せこけて……息を引き取ったんだよ。『腹が減ったな、バルツ』って言いながらな」


 パチッ、と熾火が弾けた。

 ティオは息を呑み、言葉を失っていた。

 バルツの手が、無意識のうちに腰の短刀《黒喰》の柄へと伸びていた。


「俺たちは、勝った気になっていただけだった。モンスターを『力』でねじ伏せることしか知らず、その命がどう成り立っているのか、どうすれば生きてその恵みを分かち合えるのか……何一つ知らなかったんだ。ただ殺して、ただ捨てて、そして仲間を飢え死にさせた。無知だったんだよ、俺たちは」


 煙草の先が、赤く灯る。

 バルツは静かに煙を吐き出し、ティオを見つめた。


「だから俺は、戦うのをやめた。剣を置き、解体小刀を握ったんだ。二度と、自分の目の前で誰かを飢えさせないためにな。命を力でねじ伏せて殺すより、骨の隙間に刃を滑らせて、命の仕組みを知り、すべてを感謝して胃袋に収めてやること……。そっちの方が、1000倍難しくて、10000倍尊いって気づいたのさ」


 ――命を力でねじ伏せて殺すより、命の仕組みを知り、感謝して胃袋に収める。

 ティオの胸の奥で、何かがカチリと音を立てて嵌まった。

 父の遺した言葉。

 『大剣を持て、ティオ。どんな不条理も、力と刃筋で断ち切れる本物の男になれ』

 ティオはずっと、その言葉を「相手を力で圧倒しろ」という意味だと思い込んでいた。

 だが、違ったのだ。

 本当の強さとは、相手を破壊することではない。

 世界の理を知り、相手を受け止め、命の巡りを繋いでいくこと――。


「おっちゃん……俺、分かったよ」


 ティオは顔を上げ、濡れた瞳でバルツを真っ直ぐに見つめた。


「俺、おっちゃんの弟子になれて、本当によかった。俺も、ただ敵をぶっ飛ばすだけの冒険者にはならない。おっちゃんみたいに、命の仕組みを知って、仲間を腹一杯にして守れる……本物の大剣使いになるよ」

「へっ……言うようになったじゃねえか、若造が」


 バルツは照れ隠しのように鼻を鳴らし、ティオのボサボサの頭を大きな掌でクシャクシャと撫で回した。


「ま、本物になる前に、明日の朝飯の調達だな。……おい、ニーナを起こさないように、耳を澄ませてみな」

「え?」


 ティオが息を止め、森の闇へと耳を傾けた。

 川のせせらぎの向こう。

 原生林の深部から、微かな、だが無数に重なり合う羽音が響いてきていた。

 ブゥゥゥゥン……ブゥゥゥゥン……。

 さらに、木々の隙間から、ぼんやりとした琥珀色の燐光が、夜霧を透かして浮かび上がっていた。


「あれは……光……?」

「ああ。《蜜溜まり大蜂(アンバー・ホーネット)》だ。昼間は巣の奥に潜んでるが、夜露が降りる時間帯になると、巣の温度を下げるために一斉に羽ばたきを始めるんだ」


 バルツは煙草をもみ消し、腰を上げた。


「明日の朝飯は、焼きたてのパンと、あの琥珀色の完熟巣蜜だぞ。……行くか、ティオ。夜の蜂の巣狩りだ」

「うんッ!」


 ティオは力強く頷き、愛用の大剣を静かに握り直した。

 師弟の魂の対話を経て、固く結ばれた絆。

 原生林の夜風は冷たかったが、二人の胸の奥には、どんな寒風も吹き飛ばすような温かい火が灯っていた。

 極上のスイーツと、更なる美味への冒険が、静かに幕を開けようとしていた。

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