第133話:宮廷料理長の右手の奇跡! ケロイドが溶け、蘇る絶対の感覚
「手袋を、外す……?」
宮廷料理長ジャンの声が、掠れたように震えた。
彼の視線は、己の右手に嵌められた分厚い漆黒の耐熱革手袋へと落とされていた。
それは、宮廷の華やかな厨房において、彼の欠落を覆い隠し続けてきた最後の仮面であり、10年間の絶望を封じ込めてきた墓標でもあった。
「……見苦しいものをお見せすることになります。私の右腕は、10年前に王都の厨房を襲った大火災の折、崩落してきた大鍋の煮えたぎる油と紅蓮の猛火を浴びて……完全に死に絶えたのです」
ジャンは震える左手を添え、ゆっくりと、右手の革手袋の留め金を外した。
ギィ……と革がきしむ音が、静まり返った火口カルデラに響く。
手袋が引き抜かれた瞬間――そこに現れた光景に、シェリルが「あっ……」と息を呑み、ティオとニーナが言葉を失った。
手首から指先の第一関節に至るまで、皮膚の全層が赤黒くひきつれ、まるで焼け爛れた樹皮のように醜く変形していた。
正常な皮膚のキメや指紋は完全に消失し、真皮層のコラーゲン線維が異常に架橋結合して石のように硬化した、重度の肥厚性瘢痕――ケロイド組織。
五本の指は関節が拘縮して鉤爪のように不自然に内側へ曲がり、爪は白く濁ってひび割れていた。
毛細血管は焼き尽くされて青白い血の気はなく、触覚、温覚、冷覚――料理人にとって命とも言うべき知覚神経が、完全に沈黙していた。
「はははっ! 見ろ、その無残な腕を!」
地面に縛り上げられていた特務監査官ルキウスが、歪んだ嘲笑を火口に響かせた。
「10年前に王都の最高峰の治癒神官たち数が、神殿の聖水と高位治癒魔法を幾重にも重ねて治療を試みたのだ! だが、完全に炭化・石化した真皮と神経網は、いかなる奇跡の魔法をもってしても再生しなかった! それが、辺境のトカゲから絞り取った泥臭い脂などで治るものか! 気休めの迷信にすがるなど、哀れすぎて笑いが止まらんわ!」
「黙ってろ、タコ助」
バルツが冷たく吐き捨てると、ニーナがルキウスの口に近くの黒曜石の小石をスッと詰め込み、ギャフンと言わせて黙らせた。
バルツはジャンの前に片膝をつき、地熱で程よく温められた黒曜石の平らな岩盤の上に、先ほど採取した『熱中和軟膏』の壺を置いた。
「ジャン。高位の治癒魔法ってのはな、細胞の分裂速度を一時的に強制加速させる術だ。だが、毛細血管が焼き切れて血流が途絶え、コラーゲンが石のように固まったケロイド組織にいくら魔力を注ぎ込んでも、細胞の『足場』がねえから再生できねえんだよ」
バルツは黒曜石のヘラを取り、壺から黄金色の透き通ったジェルをたっぷりと掬い上げた。
人肌よりわずかに温かい、摂氏約四十度。
竜の自己再生酵素がもっとも活性化する至高の温度域であった。
「だが、こいつは違う。神話古竜が千度の溶岩熱から己の肉体を保護し、破壊された組織を再構築するために生み出す、生体結合組織の完全修復ゲルだ。……いくぞ、力を抜いて息を吐け」
バルツのヘラから、トロンと黄金の軟膏が、ジャンの赤黒い右手の甲へと落とされた。
ペタ……。
その瞬間であった。
「……!? あ……熱い……? いや、違う……温かい……!?」
ジャンの瞳が、見開かれた。
十年もの間、熱湯をかけられても、氷を押し当てられても、何の感覚も返さなかった死せる右腕。
その皮膚の深部から、まるで凍りついた冬の地底を春の雪解け水が貫いていくかのような、強烈な温もりの奔流が立ち上ってきたのだ。
「バルツさん、軟膏が……皮膚に吸い込まれていきますわ!」
シェリルが感嘆の声を上げた。
ジャンの右手に塗布された黄金のジェルは、皮膚の表面に留まることなく、驚くべき浸透圧によって、石化したケロイドの角質層の隙間へと急速に吸収されていく。
竜の分泌液に含まれる超高分子ムコ多糖類と耐熱分解酵素が、異常に固着していたケロイドのコラーゲン線維を分子レベルで優しく解きほぐしていくのだ。
さらに、竜の生体成長因子が、深く眠っていた皮下組織の毛細血管網へと到達した。
ドクン……! ドクン……!
ジャンの前腕の動脈が、激しく拍動を打ち始めた。
途絶えていた末梢循環の再開。
赤血球が雪崩を打って指先の毛細血管へと流れ込み、10年間血の気を失っていた指先が、見る間に健康的な桜色へと染まっていく!
「う……うわああああっ……! か、痒い……! 指先が、猛烈に熱い……!!」
「我慢しろ、ジャン。神経が繋ぎ直されてる証拠だ。竜の脂が、死んでた神経の鞘を再構築してやがる」
バルツは両の手のひらで、ジャンの右手を優しく包み込んだ。
生体力学に基づいた絶妙な圧迫マッサージ。
組織の間質液を適切に循環させ、軟膏の有効成分を第一関節、爪床、そして指腹の微細な感覚受容器――マイスネル小体とメルケル盤の隅々まで行き渡らせる。
すると、奇跡が起きた。
ジャンの右腕を覆っていた赤黒くひきつれたケロイドの表皮が、まるで乾燥した玉ねぎの皮が剥がれるように、ポロポロと音を立てて剥落していったのだ。
そして、その下から現れたのは――。
「な……何て綺麗な肌ニャ……!」
ニーナが目を丸くして息を呑んだ。
そこに現れたのは、傷痕一つない、白く透き通るような、赤子のそれのように柔らかく瑞々しい、完璧な人間の皮膚であった。
ひび割れていた爪は艶やかな光沢を取り戻し、不自然に固まっていた指の関節が、スッと自然な弧を描いて伸びていた。
「ジャン、指を動かしてみな」
バルツの穏やかな促しに、ジャンは唾を飲み込み、10年間動かすことの叶わなかった右手に、おずおずと意識を向けた。
母指球、示指、中指、薬指、小指――。
スッ……。ギュッ……。
五本の指が、滑らかに、軽やかに、己の意志に従って屈曲し、力強く拳を握りしめた。
関節の痛みはゼロ。
筋膜の引きつれもゼロ。
それどころか――。
「風が……風の冷たさが、わかる……。空気に含まれる湿度が……火口の熱気が……指先の皮膚の一枚一枚を通じて、鮮明に脳へと飛び込んでくる……!」
ジャンの全身が、激しい震えに襲われた。
バルツは腰から、己の愛刀である解体包丁《黒喰》を抜き放ち、その柄をジャンの開かれた右手へと、静かに手渡した。
ジャンが、柄を握りしめた。
「……ッッ!!」
ジャンの喉から、息を呑む音が漏れた。
柄に巻かれた木目の微細な凹凸。
刃先が持つ鋼の自重と、重心の位置。
空気の抵抗感。
かつて彼が「絶対の感覚」と誇り、10年前のあの日、猛火の中に永遠に失ったはずの――料理人の魂の知覚が、何倍もの鮮明さをもって、その右手に蘇っていた。
「指先の神経が……生きている……。重さがわかる……。冷たさがわかる……! 私は……私はもう一度、包丁を握れる……! 素材の命を、この手で感じ取ることができるんだぁぁぁぁっ!!」
ドサリと、宮廷料理長ジャン・マルセルが黒曜石の大地へと両膝をついた。
誇り高き宮廷の頂点に立つ男が、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
大粒の涙が、新しく生まれ変わった白い手の甲へと零れ落ち、温かく弾ける。
ティオが駆け寄り、その肩に手を置いた。
「よかった……! 本当によかったですね、ジャンさん……!」
「ティオ殿……! バルツ殿……! うおおおおおっ……! 私は……私は生き返った……! 料理人として、もう一度命をもらったんだぁぁぁっ!」
シェリルが胸に手を当てて微笑み、ニーナが尻尾を嬉しそうにパタパタと振る。
十年の絶望の鎖を断ち切り、宮廷料理長の魂が完全に救済された瞬間であった。
そして、ジャンが涙を拭って顔を上げた時――火口竜が巨大な頭部をゆっくりと揺らし、カルデラの縁にある燃え盛る樹林の方向へと、意味ありげな視線を向けていたのである!




