第132話:神話古竜の沈黙と、溢れ出す「熱中和軟膏」の採取
ゴオオオオオオ……。
あれほど荒れ狂っていた火口カルデラの溶岩湖が、まるで奇跡のように凪いでいく。
噴き上がっていたマグマの飛沫は静まり返り、舞い散る黒曜石の灰はシェリルの冷気ドームの外側で、サラサラと音を立てて大地へと降り積もっていた。
体長20メートル。
黒曜石の甲冑を纏った神話古竜《火口竜》は、その巨大な四肢をゆっくりと大地へと折り畳み、黒曜石の岩盤の上に巨体を静かに沈めていた。
「グ……ルルル……」
低く、地鳴りのような喉鳴らし。
だが、そこには先ほどまでの狂気も、破壊衝動も、耐え難い激痛の片鱗すらも残っていなかった。
夕陽のように温かく澄み切った黄金色の双眸が、瞬きを繰り返しながら、目の前に立つちっぽけな人間たち――とりわけ、両足を大地に踏みしめて大剣を構えていたティオの姿を、じっと見つめていた。
「ティオ、大剣を鞘に収めな」
背後から、紫煙を燻らせたバルツの落ち着いた声が届いた。
ティオはハッと息を呑み、握りしめていた両手の力を解いた。
黒鉄の大剣を背中の鞘へと滑り込ませると、カチリと心地よい金属音が響く。
その瞬間、火口竜の巨大な頭部が――家一軒ほどもある黒曜石の角に覆われた頭部が、ズズズと地面を擦るようにして、ゆっくりとティオの目の前へと寄せられてきたのだ。
「うわっ……!?」
ティオが思わず息を詰まらせた。
鼻先から吹き出す呼気は、かつてのような灼熱の熱風ではなく、どこか日なたの岩場のような、温かく心地よい乾いた空気であった。
火口竜は、黒曜石のように滑らかな鼻先を、ティオの伸ばしかけた掌へと、甘える子犬のようにそっと擦り寄せてきたのである。
「あ……温かい……。怒ってないんだ……。お前、ずっと苦しかったんだな……」
ティオの掌が、巨竜の温かな鼻先の皮膚に触れた。
その鱗は、マグマの熱を内包しながらも、決して人間を火傷させることのない、生命の調和に満ちた滑らかさを持っていた。
巨竜は喉の奥をグルグルと心地よさそうに鳴らし、細められた黄金の瞳にティオの姿を映している。
10年前、父レオンハート将軍が命懸けで守ろうとした大地の主。
中央ギルドの悪辣な乱獲によって汚染結晶を心臓に打ち込まれ、狂乱させられていた神話の巨獣が、今、少年の掌の温もりによって、完全に心を取り戻していた。
「おい、ジャン、シェリル。感動して突っ立ってる暇はねえぞ。荷物から黒曜石の耐熱壺と、清潔なヘラを持ってこい!」
バルツの鋭くも手慣れた一喝が、静まり返った火口に響き渡った。
ハッと我に返った料理長ジャンが、縛り上げられて白目を剥くルキウスの脇をすり抜け、背嚢から重厚な黒曜石の壺を二つ抱え上げて走ってきた。
「は、はいっ! 耐熱壺、ここにあります! バルツ殿、一体何を……!?」
「何をするって、決まってんだろ。ほら、竜の胸元をよく見てみな」
バルツが指差した先。
3メートルの黒い結晶が神技の外科切除によって抜き去られた、火口竜の巨大な胸骨の中央部であった。
普通であれば、巨大な空洞から大量の血液が噴き出し、失血死してもおかしくない致命的な傷口。
だが、シェリルの極薄絶対零度粒子によるフィブリン凝固術と、火口竜自身の驚異的な生体治癒機能が合わさったことで、出血は完全に止まっていた。
そして――その傷口の深部、竜骨突起と胸肋関節の隙間にある『熱交換リンパ節』から、トクトクと脈打つように、何かが溢れ出し始めていたのだ。
「こ、これは……黄金色に透き通った、ゼリー……!?」
シェリルが魔導杖を抱え、目を丸くして身を乗り出した。
傷口から湧き出していたのは、血液ではなかった。
まるで純金の上澄みをすくい取って固めたかのような、輝く琥珀色のプルプルとした半透明のジェル組織。
それが、火口の熱風に触れるたびに、芳醇なハーブのような爽やかさと、焼きたてのキャラメルのような甘やかな芳香を、カルデラ一面に漂わせている。
「これこそが、古竜が己の心臓と内臓を千度のマグマから保護するために分泌する、生体防護ジェル組織――『熱中和軟膏』だ」
バルツは懐から、熱伝導率の極めて低い黒曜石を薄く削り出したヘラを取り出した。
そして、火口竜の胸元へと軽やかに飛び乗る。
巨竜は痛がる素振りすら見せず、むしろバルツに胸を預けるように、ゆったりと息を吐き出していた。
「いいか、ジャン、よく見て学べ。解体ってのは、肉をバラすことだけじゃねえ。生きている素材から、その命を損なわずに『余剰の恵み』を分けてもらうのも、一流の解体師の基礎だ」
バルツはヘラの角度を、胸骨の表面に対して正確にに傾けた。
刃先で生体組織を突くことは決してしない。
傷口の表面に薄く形成された酸化膜を、熟練の指先のスナップでペラリと撫でるように除外する。
すると、その下から、一切の不純物を含まない、完全無欠の純金色のジェルが、泉のようにトロリと湧き上がってきた。
「外気に触れて酸化した表面は使わねえ。芯から湧き出てくる、体温と完全に同調した高純度の層だけを、黒曜石のヘラの腹で優しく掬い上げるんだ」
スゥッ……。
バルツの滑らかなヘラさばきによって、黄金のジェルが美しくすくい取られ、ジャンが差し出した黒曜石の耐熱壺の中へと、トロンと滑り落ちていく。
壺の内壁に触れた瞬間、ジェルは心地よい微熱を帯びながら、結晶化することなくプルプルの状態を保ち続けた。
「す、素晴らしい……! 何という粘弾性、そして純度だ……!」
ジャンが壺を覗き込み、料理人としての鋭い観察眼で息を呑んだ。
そのゼリー状の液体は、油分のようにベタつくことがなく、かといって水分のように蒸発することもない。
超高分子の天然コラーゲンと、竜の体内でしか生成されない特殊な耐熱ムコ多糖類が完璧な比率で結合した、まさに神話の奇跡と呼ぶべき物質であった。
「宮廷の古文書に……一行だけ記されていた伝説があります……。『火口の主の胸より湧く黄金の雫は、いかなる猛火の傷をも癒やし、焼けた皮膚を赤子の肌へと還す』と……。それが、まさか実在したとは……!」
「ああ。火口竜ってのはな、溶岩の中を泳ぐ生き物だ。体内に千度の熱を蓄えながら、どうして自分の心臓や血管が焼き爛れないと思う? この軟膏が、体内組織の全細胞を熱変性から完璧に保護し、損傷した細胞壁を秒単位で自己修復しているからだ」
バルツは手際よくヘラを動かし、傷口の治癒を妨げない適量を、黒曜石の壺へとたっぷりと採取した。
壺の蓋をカチリと閉めると、バルツは火口竜の傷口にシェリルの冷気魔法で生成された薄い氷膜をそっと当て、火口竜の体温によって自然な治癒被膜が形成されるのを確かめた。
火口竜は満足そうに「フシュー……」と温かな鼻息を漏らし、長い尾をパタリと地面に打ち鳴らした。
「よし、採取完了だ。これ以上取ったら竜の治癒が遅れちまう。これだけありゃ十分すぎる」
バルツは胸元から飛び降り、黒曜石の壺を抱えてジャンの方へと歩み寄った。
そして、壺を片手に持ちながら、パイプの煙をフウと夜空へと吐き出す。
その青い瞳が、ジャンが両手にはめている、分厚い耐熱革手袋へと向けられた。
「ジャン」
「は、はいっ!」
「お前……10年前の王都の厨房火災で、右腕の感覚を失ったって言ってたな。包丁の刃先の重みも、肉の脂の温度も、何一つ感じ取れなくなったと」
バルツの静かな言葉に、ジャンの身体がビクッと硬直した。
手袋に覆われた右腕が、耐え難い古傷の記憶に苛まれるかのように、小刻みに震え始める。
「……はい。私の右腕は、手首から先がケロイドで赤黒くひきつれ、皮膚は石のように硬化しています。どんな名医の治癒魔法も、火傷で完全に壊死した知覚神経と温度受容器を蘇らせることはできませんでした……。私は、右手の感覚を失ったまま、過去の記憶の舌先だけで宮廷料理長を務めてきた……嘘つきの料理人なのです」
ジャンの瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
己の誇りであった料理人としての命を失い、それでも地位にしがみついていた己の卑小さへの悔恨。
だが、バルツは小さく笑った。
「嘘つきなんざ、この世に腐るほどいる。だがな、お前はウナギの解体を前にして、己の非を認めて頭を下げた。素材の命と向き合う覚悟を決めた料理人だ」
バルツはジャンの前へと歩み寄り、抱えていた黒曜石の壺の蓋を、パカリと開けた。
立ち上る、芳醇で温かな黄金の香気。
「お前のその右腕……治すぞ。手袋を外せ、ジャン」




