第134話:火山帯の耐火巨木林と、《灼熱樹液甲虫》の採集術
「グ……ルル……」
火口竜が、その巨大な黒曜石の鼻先を、火口カルデラの北側――溶岩の断崖の上にそびえ立つ、異様な森の方向へと静かに向けた。
そこは、摂氏のマグマ湖から立ち上る凄まじい熱風と火山性ガスが直接吹き付ける、過酷極まりない岩盤地帯であった。
普通の大陸であれば草木の一本すら生えるはずのない不毛の溶岩原であるにもかかわらず、そこには天を衝くような巨木が、鬱蒼とした深紅の森を形成していたのである。
「あんな煮えたぎる溶岩の吹き溜まりに……なぜ森が生い茂っているのですか……!?」
右手を取り戻し、まだ夢見心地で指先の感覚を確かめていた宮廷料理長ジャンが、驚愕の声を上げた。
シェリルが魔導杖をかざし、冷気ドームの中からその森の魔力波長を観察しながら、大賢者としての膨大な知識を紡ぎ出す。
「あれは……神話時代からこの死火山に根を張る耐火巨木――『紅蓮松』の群生地ですわ! 樹皮の外層に大量のケイ酸塩と高密度のホウ素を沈着させ、厚さ30センチにも及ぶ特殊な耐火コルク層を形成していますの。たとえ摂氏の火砕流に呑まれようとも炭化せず、地底深くに伸ばした直根からマグマの地熱エネルギーを直接吸収して代謝を行うという、伝説の植物群ですわ!」
「ああ。火口竜の野郎、俺たちに礼のつもりで『極上の美味いもんのありか』を教えてくれたらしいな」
バルツがパイプをくゆらせながら、ニヤリと不敵に口元を歪めた。
ティオが目を輝かせて身を乗り出す。
「美味いもの……!? おっちゃん、あの燃えてるみたいな木に、何か美味い果物でも実ってるのか!?」
「果物そのものじゃねえよ。紅蓮松の樹皮の奥、師管を流れる樹液はな、地熱とマグマの圧力によって極限まで濃縮された、超高純度の糖分とミネラルの塊なんだ。そして――その灼熱の樹液だけを主食にして生きている、極上の獲物が群がってやがる」
バルツの一言に、一行は拘束された特務監査官ルキウスを連れ(ニーナが頑丈な縄の端を首輪のように掴んで引きずっている)、火口竜に一礼してカルデラの北崖へと登攀した。
シェリルの冷気ドームに守られながら紅蓮松の巨木林へと足を踏み入れると、そこには甘く香ばしい、独特の芳香が立ち込めていた。
ただの松脂の匂いではない。
上質の甜菜糖を銅鍋でじっくりと焦がしたキャラメルのような甘い香りと、森林の針葉樹が放つ爽快なフィトンチッドが混ざり合い、火口の熱気の中で鼻腔を心地よく刺激してくる。
「ニャニャッ! すっごく甘くて香ばしい匂いが充満してるニャ! あちこちの幹から、金色のお宝がいっぱい光ってるニャー!」
ニーナが琥珀色の瞳を真ん丸にして、ピクピクと耳を動かした。
ゴツゴツとした深紅の樹皮。
その表面のあちこちから、琥珀色の樹液がドロリと滲み出し、マグマの赤光を浴びて宝石のように煌めいている。
そして――その幹にしがみつくようにして群がっていたのは、黄金の甲冑を纏った無数の巨大昆虫であった!
「うわあ……! 金細工のカブトムシみたいだ……!」
ティオが思わず感嘆の声を漏らした。
全長およそ40センチ。
磨き上げられた本物の天然琥珀のように美しく透き通った、黄金の前翅(翅鞘)。
額からは雄々しく二股に分かれた頑強な黒曜石の角が伸び、太い六本の節足の先端には、樹皮をしっかりと掴む鋭利な鉤爪が備わっている。
地熱を帯びて体内がぼんやりと温かな橙色に発光しているその生物は――《灼熱樹液甲虫》であった。
「綺麗な虫だなあ……。ちょっと触ってみようか……」
「馬鹿野郎! 絶対に素手で触るんじゃねえぞ、ティオ!」
思わず手を伸ばそうとしたティオの手首を、バルツが素早く掴んで制止した。
「そいつの甲殻の表面温度は、常に摂氏近くまで達してる。その上、身の危険を感じると、腹部の反応室でヒドロキノンと過酸化水素を爆発的に混合させ、気門から摂氏の可燃性有毒ガスを噴射して自爆する習性があるんだ。下手に力任せに引っこ抜こうとすりゃ、大火傷を負うばかりか、虫の腹の中にある一番大事な『甘露袋』が破裂して中身が全部吹き飛んじまうぞ」
「じ、自爆する昆虫……!? 摂氏のガスだなんて、触れただけで肉が骨まで炭化してしまいますわ!」
シェリルが青ざめて身を引いた。
料理長ジャンも、冷や汗を流しながら固唾を呑む。
「そんな恐ろしい危険生物を……一体どうやって無傷で採取するというのですか、バルツ殿!? 傷つけずにその甘露袋をいただくなど、不可能では……!」
「不可能なことなんざ、自然界にはねえよ。昆虫の解剖学的弱点――『呼吸器(気門)』を突くんだ」
バルツは背嚢のサイドポケットから、峡谷の登攀中に採取しておいた乾燥した『香熱草』の束を取り出した。
地熱の噴気孔から吹き出る青い残り火で香熱草の先端に火をつけ、息を優しく吹きかけてパタパタと煙を立たせる。
すると、乾燥したハーブから、白く濃密な、どこか白檀やラベンダーに似た高貴で落ち着いた香りの煙が立ち上り始めた。
「昆虫の呼吸器は、肺じゃねえ。腹部の両脇にある小さな穴――『気門』を通じて外気を取り込んでる。この香熱草の煙に含まれる高濃度のテルペン系芳香成分は、甲虫の気門の感覚毛を刺激し、神経伝達物質を一時的に遮断して穏やかな麻酔状態を引き起こす。苦痛を与えず、自爆反射を起こさせる隙すら与えずに、スヤスヤと眠らせるのさ」
バルツはティオとニーナを見据え、手際よく指示を出した。
「ティオ、足場を作れ。地上3メートル、あの幹のくびれにしがみついてる、腹が一番パンパンに膨らんだ丸々とした個体を狙うぞ」
「了解です、おっちゃん!」
ティオは背中から黒鉄の大剣を引き抜き、紅蓮松の根元の硬質な溶岩の割れ目へと、刀身をガチリと深々と突き刺した。
そして、己の膝を軽く曲げ、両足の母指球を大地に食い込ませ、組んだ両手を腰の高さで構える。
衝撃を完璧に吸収し、跳躍力を無駄なく伝える、生体力学に基づいた頑強な人間カタパルト!
「ニーナ、跳べっ!!」
「ニャーーーッッ!!」
ニーナがティオの手のひらと肩を連続で踏み台にし、まるで重力など存在しないかのように、フワリと宙へ躍り出た。
手には、バルツから手渡された香熱草の燻煙器。
猫人族特有の驚異的な三半規管で空中で身を翻し、幹のわずかな凹凸に足の爪を引っ掛けてピタリと静止する。
そして、40センチの巨大な灼熱樹液甲虫の腹部の真下へと、音もなく燻煙器を差し入れた。
フワァァァァァ……。
純白の煙が、甲虫の黄金色の腹部と気門を優しく包み込んでいく。
甲虫は二股の角をピクンと一度だけ震わせたが、ガスを噴射する防衛反応を起こす気配は微塵もなかった。
六本の太い節足の筋肉からフッと緊張が抜け、樹皮に食い込んでいた鋭い鉤爪が、力なく緩んでいく。
ポロッ。
「ティオ、いくニャーーッ!」
「おっとっと……ナイスキャッチだっ!!」
落下してきた40センチの黄金甲虫を、ティオが耐熱鹿革の手袋を両手にはめて、下からフワリと包み込むようにキャッチした。
手袋越しに伝わってくる、ずっしりとした手応え。
重さは以上。
甲虫は自爆することなく、殻の熱気も穏やかな微熱へと下がり、スヤスヤと安らかな呼吸音を気門から立てて眠りについていた。
「見事だ……! 暴れさせることもなく、一滴の体液も漏らさず、完璧な生体採集……!」
ジャンが駆け寄り、生まれ変わった己の右手の指先で、甲虫の琥珀色の背甲にそっと触れた。
ツルツルとした滑らかな甲羅の質感。
そして、10年前には決して感じ取ることのできなかった、甲虫の体温と、腹の奥でトクトクと脈打つ微細な生命の鼓動が、ジャンの指先の神経を通じて鮮明に伝わってきた。
「温かい……。虫が、生きている……。命を壊さずにいただくための、これが本物の狩人の技……!」
ジャンが感涙に声を震わせる中、ティオが抱えた甲虫の腹側を覗き込んだ。
半透明の琥珀色の腹膜の奥――そこには、まるで朝露を閉じ込めた水風船のようにパンパンに膨らんだ、巨大な『甘露袋』が、太陽のような黄金の輝きを放ちながら揺らめいていたのである!




