第127話:ジャン・マルセル料理長の弟子入り懇願! 「どうか私に基礎から教えてください!」
湯神池のほとり、炭火のパチパチという心地よい音だけが響く静寂の中。
空になった重箱を綺麗に拭き終えた宮廷料理長ジャン・マルセルが、すっくと立ち上がった。
その視線は、岩棚に腰掛けて煙管をくゆらせるバルツの正面へと、一点の曇りもなく注がれていた。
ジャンは自らの足取りを一歩、また一歩と整え、バルツの眼前へと進み出ると――。
バサァッ……!
着ていた上着の裾を払い、黒曜石の冷たい大地の上へと、両膝を深々と折り曲げた。
それだけではない。
ジャンは両手を地面につき、額を岩肌へと擦り付けるようにして、最上級の臣従と懇願の礼――土下座の姿勢を取ったのだ!
王都の宮廷料理界において、筆頭料理長とは爵位を持つ上級貴族すら同格の敬意を払う国家最高位の特権階級。
その男が、泥と灰にまみれた荒野の岩肌に額を擦り付けるなど、王都の歴史上、前代未聞の光景であった。
「ちょ、ちょっとジャンさん!? な、何をなさっていますの!?」
「ジャンのおっちゃん、頭を打っちゃうニャ! 立って立って!」
慌てふためくシェリルとニーナ。
そして、それを見ていた監査官ルキウスに至っては、銀縁の眼鏡を取り落とし、顔を青ざめさせて絶叫した。
「き、正気かジャン殿!? 貴方は王室直属、大陸最高峰の格式を誇る王都筆頭宮廷料理長なのだぞ!? 王侯貴族ですら貴方の料理を食べるために何ヶ月も前から予約を請い願うというのに……よりによって、こんな辺境の薄汚れた解体屋風情に土下座など……! 中央の権威を泥水に捨てる気か!!」
ルキウスのヒステリックな罵声が響き渡る。
だが、ジャンはその言葉にピクリとも動じず、額を地面に押し当てたまま、腹の底から絞り出すような重厚な声を響かせた。
「……黙れ、ルキウス。中央の権威など、この大自然の奇跡の前には砂粒ほどの価値もない」
ジャンの声は、凛としていた。
そこには、かつての傲慢な宮廷料理人の面影は微塵もなく、真理を求める一人の純粋な職人の覚悟だけが宿っていた。
「バルツ殿……! 私は……己の浅ましさを、骨の髄まで恥じております」
ジャンはゆっくりと顔を上げた。
その両目には、熱い涙が溢れ返っていた。
「私は今まで、王都の豪華絢爛な厨房の中で、高価な調味料や希少な輸入ワイン、美しい銀食器を揃えることこそが『至高の料理』だと盲信しておりました。貴族たちの歓心を買うためのうわべだけの技巧に溺れ、誰かが血を流して獲ってきた食材を、ただマニュアル通りに切り刻み、火を通すことしかしていなかった……。命の重みも、骨格の美しさも、大自然が何年もかけて育んだ熱力学の奇跡も、何一つ理解していなかったのです!」
ジャンの拳が、黒曜石をギリリと握り締める。
「火打ち石鳥のパリパリ蒸し焼き、熱泥芋虫の岩塩包みホイル焼き、黒曜岩塩猪の石窯ローストポーク、そしてこの源泉鰻の炭火蒲焼き……! 貴方がこの死火山の極限環境で振る舞ってくださった一皿一皿のすべてが、私の20年間の料理人としての傲慢と虚飾を、木っ端微塵に打ち砕いてくれました。飢えた兵士たちの命を真に救い、生きる歓喜を与える料理こそが……真の『料理』であると、魂の底から思い知らされたのです!」
ジャンは再び、額を岩肌へと強く打ち付けた。
「どうか……! どうか、この愚かな男を、貴方の『魔物解体基礎教室』の末席に加えていただけないでしょうか!! 地位も、名誉も、筆頭料理長の肩書きも、すべて捨て去ります! 包丁の握り方から、骨の隙間の見極め方まで……命と向き合うための基礎を、この私に一から叩き直していただきたいのです!!」
魂の底からの弟子入り志願。
王都のトップに君臨する男が、地位もプライドもすべてかなぐり捨てて、辺境の中年狩人に頭を垂れたのだ。
その気迫と覚悟に、ティオは胸を熱くし、シェリルも目元を拭い、ニーナも真剣な眼差しで見守っていた。
そんな厳粛極まりない空気の中――。
「……ふぅ〜〜〜〜」
バルツは紫煙をふわりと夜空へ吐き出すと、煙管の吸い口をトントンと膝で叩いた。
そして、呆れたような、だがどこか楽しげな苦笑いを浮かべた。
「おいおい……大の大人が、みっともねえ真似すんなよ。膝を立てな、料理長先生」
「ば、バルツ殿……っ! では、断られると……!?」
ジャンが青ざめた顔で顔を上げた。
だが、バルツはニヤリと歯を見せて笑った。
「断るわけねえだろ。美味いもんを作りたいって熱意を持ってる奴を追い返すほど、俺は野暮じゃねえよ。……だがな、俺の教室は甘くねえぞ? 王都の宮廷料理長だろうが何だろうが、うちじゃ一番の下っ端だ。まずは皿洗いと薪拾い、そして毎朝の包丁研ぎから叩き込んでやるからな」
バルツは解体包丁の刃先を指先で弾いて澄んだ音を鳴らした。
「皿洗いは油の温度と汚れの落ち方を知る基本だ。薪拾いは木の種類ごとの火力と煙の立ち方を知る基本だ。そして包丁研ぎは、刃先の角度一つで細胞を潰すか活かすかを身体で覚える絶対の基礎だ。……小細工なんざ教えねえぞ。身体で命の理を叩き込むんだ」
「っ……!!」
ジャンの顔に、パーッと歓喜の光が差し込んだ。
大粒の涙が、その頬を止めどなく流れ落ちていく。
「はいっ……! 喜んで!! 皿洗いでも、薪拾いでも、どんな雑用でも喜んで務めさせていただきます!! 我が師よ……! 生涯をかけて、あなた方の背中を追い続けさせてください!!」
ジャンは再び深々と頭を下げ、嗚咽を漏らしながら感謝の言葉を繰り返した。
ティオが駆け寄り、「へへっ、よろしくなジャンのおっちゃん! 俺が薪の割り方を教えてやるぜ!」と肩を叩き、ニーナも「ニーナが包丁の研ぎ方をチェックしてやるニャ!」と尻尾を振る。
かつて敵対的だった王都の重鎮が、今やカルテットの最も頼もしく、かけがえのない仲間として加わったのだ。
だが――そんな温かな歓喜に沸く広場の片隅で。
一人、冷酷な目で手帳にペンを走らせる男がいた。
特務監査官ルキウスであった。
「……見苦しい田舎芝居だな。だが、これで邪魔者は完全に一掃できる」
ルキウスが取り出したのは、王都中央ギルド『黄金の天秤』の最高機密である通信魔導具であった。
その羊皮紙に記されていたのは、背筋も凍るような冷酷な暗号通信。
『レオンハート将軍の遺児ティオの生存を確認。火口竜の討伐戦に乗じ、落石またはマグマへの転落事故に見せかけて確実に抹殺せよ。口封じのため、同行の辺境狩人および宮廷料理長もろとも葬るべし』。
10年前、死火山の鉱山利権を独占するためにレオンハート将軍を陥れた中央ギルドの闇。
その真相を知る生き残りを、事故に見せかけて完全消滅させるための極秘指令。
「ふふ……笑っていられるのも今のうちだ。火口の底こそが、貴様らの墓場となるのだからな……!」
ルキウスの眼鏡の奥で、毒蛇のような殺意の炎が怪しく揺らめいていた。
だが――ルキウスは気づいていなかった。
その背後の暗がり、黒曜石の岩棚の上から、尖った猫耳がピクリと動き、爛々と輝くニーナの琥珀色の瞳が、冷徹にその不穏な挙動を見据えていたことに。
一行の絆が深まるその一方で、中央の巨大な陰謀の刃が、いよいよカルテットの喉元へと迫りつつあったのである!
固い絆で結ばれた師弟たちと、利権に狂う中央の黒幕。
火口カルデラの決戦の地へ向け、運命の歯車が激しく加速し始めていた!




