第125話:熱湯締めとヌメリ取り! 泥臭さゼロの純白ウナギ解体術
黒曜石の平らな巨岩の上に、釣り上げられたばかりの体長2メートル半、重さ100キロを超える《地熱源泉鰻》が横たわっていた。
ニーナの的確な活け締めによって苦痛なく絶命した魚体は、死後硬直を起こす前の完全な弛緩状態を保っている。
だが、その巨体を前にして、宮廷料理長のジャンは腕を組み、料理人としての現実的な難題に眉をひそめていた。
「……見事な巨体だが、ウナギという魚類を捌く上で、最大の障壁となるのは体表を覆うあの強烈な『生体粘液』だ。通常の川ウナギですら、塩で揉むか木の灰をまぶさねば、滑って包丁の刃先が逃げてしまう。ましてや、これほど巨大な怪魚の粘液となれば……一体どうやって取り除く気だ?」
ジャンの懸念は、魚類解体学の基本原則に基づく極めて正当な指摘であった。
ウナギの体表を保護するムコ多糖類の粘液は、水や布で拭った程度では決して落ちず、包丁の刃こぼれや手滑りによる大怪我の原因となる。
だが、バルツは足元でゴボゴボと湧き立つエメラルドグリーンの源泉を指差して笑った。
「目の前に、最高の道具が湧いてるじゃねえか」
「……え? 源泉の熱湯が……ですか?」
ジャンが目を瞬かせた。
バルツは荷車から柄杓を手に取ると、摂氏80度の沸騰寸前の源泉の熱湯をたっぷりと汲み上げた。
「熱湯霜降り法だ。ウナギの体表粘液は、耐熱タンパク質と糖タンパク質の複合体だ。だが、摂氏80度の熱水に晒されれば、タンパク質の分子構造が一瞬で熱凝固を起こし、白く変色して外皮から剥離する。余計な塩も灰も使わねえから、魚肉本来の風味を一切損なわずに済む。……シェリル、柄杓で熱湯を頭から尾に向けて均一にかけろ。ニーナ、包丁の背で撫で落とせ!」
「かしこまりましたわ!」
「任せるニャ〜!」
シェリルが柄杓を傾け、源泉の熱湯をウナギの黒々とした背中へとサーッと流しかけていく。
ジュウウウ……。
熱湯が触れた瞬間、魚体表面を覆っていた透明でヌルヌルとした粘液が、まるで魔法のように一瞬にして真っ白な薄皮状へと凝固した。
そこへ、ニーナが解体包丁の『峰(背)』を当て、頭から尾に向けてスーッと滑らせる。
ペロペロペロペロ……!
信じられないほど小気味よい音と共に、白く固まった粘液が、まるで消しゴムのカスのように一筋の無駄もなく綺麗にこそげ落とされていく。
熱湯をかけて包丁の背で撫でること、わずか1分。
ぬめりは跡形もなく消え去り、現れたのは――。
まるで上質な絹織物や磨き上げられた漆器のように、しっとりと滑らかで、手で触れても一切滑らない、漆黒と黄金色の神聖なる魚肌であった!
「な……熱湯をかけただけで、あれほど強固な粘液が、これほど美しく完全に剥離しただと……!?」
ジャンは震える手でウナギの皮膚に触れ、驚嘆の声を上げた。
塩揉みのように身を傷めることもなく、灰のように肉を汚すこともない。
80度の熱湯源泉という現地の環境を完璧に利用した、極限まで合理的で衛生的なブッシュクラフト下処理であった。
「さて、ここからがウナギ解体の真骨頂だぞ。ティオ、まな板の上に据えろ。黒曜石の錐で頭を固定しろ」
「了解だ、おっちゃん!」
ティオが頑丈な黒曜石の錐を手に取り、ウナギの右胸鰭の根元、頭骨の頑丈な軟骨部へと、トントンと打ち込んでまな板に固定した。
ウナギ解体の基本――『目打ち』である。
魚体を固定したバルツは、細身で鋭利なウナギ裂き包丁を右手に構えた。
「ウナギの開き方は、地方によって腹開きと背開きがある。だが、この源泉鰻は背中から開く。腹の脂が極厚だからな、腹を裂けば極上の脂身が傷ついて肉汁が逃げちまう。背骨の側面に刃先を沿わせ、骨の感触を指先で感じながら一気に引くんだ」
バルツの包丁の切っ先が、ウナギの首の後ろ――背鰭の付け根のわずかな隙間へと吸い込まれた。
魚類の解剖学において、背骨を取り巻く神経棘と血管棘の角度は種ごとに異なる。
この源泉鰻は熱湯の激流を泳ぐため、脊椎骨が極めて頑丈に連結されているが、バルツは刃先を立てることなく、骨膜の表面を撫でるように滑らせていく。
スゥゥゥゥゥゥゥッッ……!!
息を呑むような静寂の中、響き渡ったのは、絹を一筋の糸で引き裂くかのような、信じられないほど澄み切った切断音であった。
バルツの右手は、前腕の力を完全に抜き、刃の自重と母指球の重心移動だけで、首から尾の先まで2メートル半の距離を、わずか1秒で一気に滑り抜けた。
刃先が背骨の突起をカリカリと撫でる心地よい音。
そして――。
パカッ……!
二つに開かれたウナギの魚体。
現れたのは、息を呑むほど神聖で純白な、極厚の白身肉であった!
「……あ……あぁ……っ……! 何と美しい……!」
ジャンが息を呑み、思わず膝をついた。
その身は、濁り一つない純白の雪のようでありながら、表面にはオレイン酸を豊富に含んだ透明な脂が、まるで真珠の雫のようにびっしりと浮き出ていた。
通常のウナギと異なり、熱水の中で有酸素運動を続けてきた源泉鰻の筋肉は、遅筋(赤筋)のミオグロビンと速筋(白筋)のグリコーゲンが完璧な黄金比で混ざり合っている。
川ウナギ特有のヘドロ臭や生臭さは完全にゼロ。
漂ってくるのは、清冽な温泉水とアミノ酸が凝縮された、まるで高級な白身魚の昆布締めのような、上品で芳醇な甘いアロマであった。
バルツは包丁の先を器用に使い、苦玉(胆嚢)を傷つけることなく内臓を一瞬で掻き出し、背骨の下に刃を入れて、骨だけを一本の長い骨リボンとして綺麗に梳き取った。
「ジャン、梳き取ったこの頭と中骨を捨てるなよ。炭火でじっくり素焼きにして、火炎唐辛子の果糖シロップ、王都の大豆醤油、そして野生柑橘の絞り汁と一緒に煮詰めるんだ。『秘伝のウナギ骨出汁タレ』を作るぞ!」
「なっ……頭と骨から出汁を取ってタレに煮詰めるだと……!? フレンチのフォンドヴォーと同じ真理を……ウナギのタレで具現化するというのか……!」
ジャンの料理人としての魂が激しく震えた。
ジャンは即座に黒曜石の小鍋を熾火にかけ、香ばしく焼き上げた中骨と頭部を投入し、極上のタレの調合へと没頭し始めた。
骨から溶け出した濃厚なゼラチンとアミノ酸が、醤油の香ばしさと唐辛子のフルーティーな糖分と絡み合い、煮詰まるにつれてトロリと深みのある琥珀色の照りを帯びていく。
その間に、バルツとティオは竹串の打ち込みに入る。
「『串打ち三年、裂き八年、焼き一生』って東方の言葉がある。ウナギは加熱すると皮が強烈に縮んで丸まっちまう。皮と身の境目にある結合組織を波打つように縫い、扇状に串を打つことで、平らなまま均一に火を通すんだ。指先に力を入れすぎるな、竹串の弾力を使って皮目を撫でるように通せ」
バルツの指導のもと、ティオの手によって、幅15センチ、厚さ3センチを超える巨大なウナギの切り身が、次々と10数枚も美しく串打ちされていく。
扇状に打たれた串は、極厚の身をしっかりと支え、炭火の遠赤外線を均等に受け止める完璧な陣形を成していた。
炭火の準備はすでに万全。
煮詰められた骨出汁タレの甘辛い香りが、熱湯の源泉のほとりに立ち込め始めていた。
未知なる至高の美味――『地熱源泉鰻の炭火蒲焼き』の完成が、今まさに目前に迫っていたのである!
沸き立つ熱湯とパチパチ爆ぜる炭火の間で、新たな飯テロの伝説が、熱き産声を高らかに力強く上げようとしていたのである!




