第124話:熱湯を泳ぐ巨大魚! 《地熱源泉鰻》の源泉一本釣り
ゴボッ……ゴボボボッ!
エメラルドグリーンの熱湯が煮えたぎる『沸騰の湯神池』。
水深5メートルの熱水噴気孔の底に沈められた、耐熱腱糸と黒曜石の釣り針。
火炎唐辛子の果肉で揉み込まれた熱泥芋虫の濃厚な脂身から、甘美なアミノ酸の香気が水流に乗って拡散した、その直後であった。
スゥッ……。
岩の割れ目から姿を現した《地熱源泉鰻》の黄金色の巨体が、獲物を前にして蛇のように頭部を鎌首状にもたげた。
二本の小さな触髭がピクリと痙攣し、微細な水流の波長を捉える。
そして次の瞬間――。
ズバァァァッッ!!
怪魚が巨大な口を大きく広げ、黒曜石の釣り針ごと、芋虫の脂身を一飲みに丸呑みにしたのだ!
それと同時に、バルツが両手で支えていた太い黒曜竹の竿が、満月のように極限までグニャリとしなり、甲高い軋み音を上げた。
黒曜竹の繊維が悲鳴を上げ、耐熱腱糸がピンと張り詰めて空気を切り裂く高周波の唸りを立てる。
「喰ったぞ!! 合わせろぉぉぉっ!!」
バルツの咆哮が轟いた。
バルツは両腕を天に向けて一気に跳ね上げ、黒曜石の針を怪魚の強靭な顎骨の奥深くへと深々とフッキングさせた!
ギチギチギチギチッッ――!!
針を掛けられた源泉鰻が、激痛に身をよじらせて暴れ狂った。
体長2メートル半、胴回り30センチ、総重量は優に百キロを超える巨体。
しかも相手は、摂氏の激しい熱水対流に抗って生き抜いてきた怪獣である。
太い尾鰭を激しく打ち振るい、熱湯の底へ向けて時速を超える猛烈なロケットダッシュを敢行したのだ!
水中の流体力学的抗力と怪魚の筋収縮が合わさり、腱ロープにかかる負荷は瞬間的に五百キロを超えていた。
「うおおおおっ……! なんだこの引きの重さは!? まるで暴走する鉄の馬車を素手で引っ張ってるようだぜ!!」
ティオが竿の中央へ飛びつき、両腕の筋肉を破裂しそうなほど隆起させて竿を抱え込んだ。
だが、百キロの巨獣が繰り出す強烈な下方への推進力は凄まじく、ティオの頑強な身体すら、沸騰する熱湯の池の縁へとズリズリと引きずり込まれそうになる。
一歩でも足を踏み外せば、摂氏の熱湯地獄へ転落して全身が茹で上がる死の綱引き。
「ティオ殿、支えるぞ!!」
そこへ、宮廷料理長ジャンが割って入った。
ジャンは自らの純白のコックコートを脱ぎ捨て、火傷を負った右手をティオの腕の上から重ねるようにして、耐熱腱ロープへとガチリと食い込ませた。
かつて絶望し、感覚を失っていた右腕。
だが今、その右腕には、バルツから教えられた命への敬意と、再び料理人として生き直すための熱い闘志が満ち溢れていた。
火傷の引き攣れなど、もはや何の障害にもならなかった。
命と命が真正面からぶつかり合う極限の狩猟の熱気に、ジャンの料理人としての魂が激しく震えていたのだ。
「滑らせん……! 料理人の命を懸けて、この手は決して離さんぞぉぉぉっ!!」
ジャンの太い二の腕に、青筋が太く浮き上がる。
指先の皮膚感覚は鈍くとも、前腕の屈筋群と腱の張力は、一流の料理人として何十年も鍋を振り続けてきた強靭な肉体そのもの。
ティオの下半身のバネと、ジャンの上半身の剛腕が、耐熱腱ロープを介して完璧な綱引きの合力を生み出していた。
バルツが最後尾から二人の腰をがっしりと抱え込み、大地に母指球を突き刺した。
「慌てるな! 腕の力で引っ張るな! 魚が突進してる間は竿を立てて耐えろ! 腱ロープの弾力で相手の突進力を吸収するんだ! 魚がターンして頭を上げた瞬間――下半身の骨盤の回転で、真上にぶっこ抜くぞ!」
「「了解だぁぁぁっっ!!」」
バシャァァァァァンッ!!
湯神池の湖面が爆発し、八十度の熱湯の水しぶきが激しく四方へと飛び散る。
怪魚が身をくねらせるたびに、体表を保護していた不熱性ムコ多糖類の粘液が熱水と反応して純白の泡を吹き上げる。
シェリルが瞬時に『過熱蒸気障壁』を展開し、飛び散る熱湯の飛沫を完璧に弾き飛ばす。
ニーナが岩棚の上を素早く回り込み、怪魚の首の角度と鰓の動きを注視する。
「今、息を吸い込んで旋回しようとしてるニャ! 頭が水面を向いたニャ!」
そして――暴れ狂っていた怪魚が、池の底で反転し、水面へ向けてわずかに頭を向けた、まさにその刹那!
「今だ! 引けぇぇぇぇぇぇぇぇっっっっっっ!!!!」
バルツの一喝。
バルツ、ティオ、ジャンの三人の呼吸が、完璧に一つに重なり合った。
肉体の母指球が黒曜石を蹴り、膝が伸び、骨盤が強烈なトルクで回転し、背筋の運動連鎖が黒曜竹の竿へと爆発的に注ぎ込まれた!
ドパァァァァァァァァァァンッッッ!!!!
沸騰する湯神池の中央から、まるで火山が噴火したかのような巨大な熱湯の水柱が立ち昇った。
そして、その白い水煙を突き破り、宙へと躍り出たのは――。
全身を純白の湯気で包まれ、太陽の光を浴びてダイヤモンドのように輝く漆黒の背中と、黄金色の腹部を露わにした、巨大な《地熱源泉鰻》の姿であった!
「ギョロォォォッ!!」
2メートル半の巨体が、空中でのたうち回りながら弧を描く。
その巨体が地面へ激突し、黒曜石の岩場で暴れ回ろうとした――その一瞬の隙を、影のように滑空した少女が見逃すはずはなかった。
「ニーナの特製活け締めニャーーーッ!!」
跳躍したニーナの両手に握られたのは、解体小刀の分厚い『峰』。
空中でウナギの肉を傷つけることなく、巨大ウナギの頭頂部――延髄と中枢神経が交差するわずか数ミリの急所へと、小刀の峰をコンッと的確に叩き込んだ。
コトンッ。
急所を打たれた巨大源泉鰻は、一切の苦痛を感じることなく、一瞬にして全身の筋肉を弛緩させ、黒曜石の平らな岩肌の上へとドサリと横たわった。
熱湯を掻き乱した激闘の結末。
怪我人一人出すことなく、摂氏の死の熱湯から、百キロを超える奇跡の怪魚を無傷で釣り上げてみせたのだ!
「つ……釣れたぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!」
「大漁だぜーーーっっっ!!!」
ティオとジャンが手を取り合い、全身びしょ濡れになりながら歓喜の雄叫びを上げた。
岩場に横たわる源泉鰻の魚体は、見る者を圧倒する威容を誇っていた。
漆黒の背中には一切の傷がなく、黄金色の腹部はまるで打ち出しの金箔のように眩く輝いている。
川魚特有の生臭さやドロ臭さは微塵もなく、漂ってくるのは、清澄な温泉ミネラルと、引き締まった白身肉の甘いアロマであった。
「し、信じられん……! 八十度の熱湯の中から、百キロを超える巨大魚を、竿一本で釣り上げるなど……!」
ルキウスが眼鏡をずり落とし、腰を抜かして震えていた。
中央のいかなる漁獲技術をもってしても不可能な神技。
バルツは解体包丁を抜き、横たわる黄金の巨魚を見下ろしてニヤリと笑った。
「さあて、最高の獲物が揚がったぞ。ウナギの命は『締め』と『ヌメリ取り』、そして『素早い背開き』だ。八十度の源泉の熱湯をそのまま利用して、泥臭さゼロの極上白身を切り開くぞ!」
バルツの言葉に、ジャンの胸が高鳴った。
王都の宮廷料理では、ウナギといえば赤ワイン煮込み(マトロート)が定番だが、バルツが語るのは直火とタレで焼き上げる東方の伝統技法。
前代未聞の源泉一本釣り、完全勝利!
そして、この極上の黄金怪魚を至高の蒲焼きへと昇華させるための、神技のウナギ解体が幕を開けようとしていた!
熱湯源泉のほとりで、至高の香ばしさと脂の甘みが弾ける瞬間が、静かに近づいていたのである!




